
明智光秀の突然の裏切り
中国地方へと向かう道中、明智光秀は分岐点となる道で止まります。一方は本能寺へと続く道、もう一方は中国地方へと続く道、ここで明智光秀は本能寺へと続く道を選び、織田信長の元へと向かいました。ちなみに、この時の「敵は本能寺にあり!」のセリフは有名ですが、これは映画やドラマの演出であって事実ではありません。
さて、明智光秀が本能寺へと向かう頃、織田信長は京都に立ち寄って本能寺に宿泊していました。元々織田信長も援軍として中国地方に向かうつもりでしたから、おそらく宿泊は決戦前の息抜きのつもりだったのでしょう。京都の有名な僧と茶会をする織田信長、自らに迫る運命を知る由もなくそれは楽しいひと時でした。
また、本能寺は堀に囲まれていたことから防衛に向いており、そのため織田信長は護衛の兵も100人ほどしか連れていなかったそうです。そして1582年6月2日の本能寺の変、織田信長は明智光秀が本能寺を襲撃した知らせを聞き、しかもその兵力は10000人にも及ぶ勢力ということも知らされました。
織田信長の最期と後を追った息子
いくら戦国時代で名をとどろかせた織田信長とは言え、100人の兵力で10000人の兵力を相手にするのは不可能。まさに多勢に無勢な状況の中、明智光秀は織田信長の長男・織田信忠のいる二条御所にも奇襲をかけました。最後まで戦う織田信長でしたが100倍近くの兵力差があってはさすがに敵わず、本能寺に自ら火を放って自害したのです。
長男の織田信忠は、襲撃されつつも妙覚寺まで逃げ込んで徹底抗戦の構えを見せます。明智光秀の軍は突然の裏切りと襲撃によって翻弄しましたが、ただ充分な計画を立てていなかったため京都を包囲するには至っておらず、織田信忠には逃走して京都を脱出する選択肢もありました。
実際、織田信長の弟とされる織田長益とその息子は襲撃を受けた際に京都を脱出しています。しかし、織田信忠はそうはせずに京都にて自害、それは父・織田信長の自害を知らされたためで、自らも父の後を追う選択をしたのでしょう。これが、織田信長の最期の舞台となった本能寺の変のいきさつと結末です。
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