今日は本能寺の変について勉強していきます。本能寺の変は織田信長の最期となった舞台、そのため例え歴史が苦手でも本能寺の変という言葉を聞いたことはあるでしょう。

織田信長がどんないきさつで最期を迎えることになったのか、そのいきさつをしっかりと理解しておこう。そこで、今回は本能寺の変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から本能寺の変をわかりやすくまとめた。

天下統一が間近に迫った織田信長

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甲州討伐による武田家の滅亡

1582年の甲州討伐、織田信長は武田勝頼の領地となる駿河・信濃・甲斐・上野へと侵攻。武田家は織田信長にとって長年の敵であり、その決着をつけるため全勢力で集結させて決戦に挑み、武田勝頼を自害に追い込んで圧勝、この戦いによって武田家は滅亡しました。

武田家を滅亡させたことで織田家の領土はさらに拡大、播磨から上野までとなった領土は現在で例えるなら兵庫県から群馬県までの広範囲になります。さらに、臣下となった大名のものまで含めれば総石高はおよそ700万石以上、いよいよ天下統一の時が秒読み段階に迫ってきました。

残すは総仕上げ、織田信長は家臣に命じてそれぞれの方面で戦わせます。柴田勝家には越後の大名・上杉家の討伐、滝川一益には関東地方の大名・後北条家の討伐を命じ、自らは伊賀を攻めて敵や賊を討ち平らげていました。しかしこの総仕上げに手こずる家臣が一人、その者の名前は羽柴秀吉……後の豊臣秀吉です

羽柴秀吉の援軍要請

羽柴秀吉は中国地方の大名・毛利家の討伐を命じられており、その作戦として備中高松城を包囲していましたが、この城の攻略はなかなか厄介でした。何しろ城の周辺は深い沼地、さらに山でも囲まれていたことから攻めづらく、羽柴秀吉は毛利家討伐に苦戦していたのです。

もちろん、羽柴秀吉も指をくわえてあぐねるつもりはなく、むしろこの地形を利用した水責め作戦を開始。一方、毛利家はこれに対抗しようと5万もの軍勢となる本隊を備中高松城へと送り込み、この情報を聞いた羽柴秀吉は織田信長に対して援軍を要請しました。

織田信長はこれを承諾、早速援軍を派遣することを決定して、この時羽柴秀吉の援軍に命じられたのが明智光秀の軍です。1582年6月1日、明智光秀は羽柴秀吉の援軍に向かうため亀山城を出発。織田信長もまた援軍として中国地方へと向かっており、その途中にある本能寺に宿泊していました。

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1582年 本能寺の変

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明智光秀の突然の裏切り

中国地方へと向かう道中、明智光秀は分岐点となる道で止まります。一方は本能寺へと続く道、もう一方は中国地方へと続く道、ここで明智光秀は本能寺へと続く道を選び、織田信長の元へと向かいました。ちなみに、この時の「敵は本能寺にあり!」のセリフは有名ですが、これは映画やドラマの演出であって事実ではありません。

さて、明智光秀が本能寺へと向かう頃、織田信長は京都に立ち寄って本能寺に宿泊していました。元々織田信長も援軍として中国地方に向かうつもりでしたから、おそらく宿泊は決戦前の息抜きのつもりだったのでしょう。京都の有名な僧と茶会をする織田信長、自らに迫る運命を知る由もなくそれは楽しいひと時でした。

また、本能寺は堀に囲まれていたことから防衛に向いており、そのため織田信長は護衛の兵も100人ほどしか連れていなかったそうです。そして1582年6月2日の本能寺の変、織田信長は明智光秀が本能寺を襲撃した知らせを聞き、しかもその兵力は10000人にも及ぶ勢力ということも知らされました。

織田信長の最期と後を追った息子

いくら戦国時代で名をとどろかせた織田信長とは言え、100人の兵力で10000人の兵力を相手にするのは不可能。まさに多勢に無勢な状況の中、明智光秀は織田信長の長男・織田信忠のいる二条御所にも奇襲をかけました。最後まで戦う織田信長でしたが100倍近くの兵力差があってはさすがに敵わず、本能寺に自ら火を放って自害したのです

長男の織田信忠は、襲撃されつつも妙覚寺まで逃げ込んで徹底抗戦の構えを見せます。明智光秀の軍は突然の裏切りと襲撃によって翻弄しましたが、ただ充分な計画を立てていなかったため京都を包囲するには至っておらず、織田信忠には逃走して京都を脱出する選択肢もありました。

実際、織田信長の弟とされる織田長益とその息子は襲撃を受けた際に京都を脱出しています。しかし、織田信忠はそうはせずに京都にて自害、それは父・織田信長の自害を知らされたためで、自らも父の後を追う選択をしたのでしょう。これが、織田信長の最期の舞台となった本能寺の変のいきさつと結末です。

主の仇を討とうとする羽柴秀吉

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明智光秀に起こった想定外の出来事

明智光秀の本能寺の変は成功、織田信長を倒すことで自らが代わって天下統一できると思ったかもしれません。しかし天下統一への道は甘くなく、一人の武将の裏切りによる襲撃で簡単に手に入るものではなかったのでしょう。織田信長は死亡しましたが、明智光秀には想定外の問題が多々起こりました。

まず、織田信長と織田信忠の遺体を発見できなかったこと。織田信長討伐成功の証拠を示すため、明智光秀はどうしても遺体を回収する必要がありました。しかし、それを発見できなかった明智光秀は織田信長討伐を信用してもらえず、家臣となる者はほとんどいませんでした

城内の財宝を皇族にも分けたことで朝廷から京都の治安維持を任されるまでは良かったものの、各地の武将宛に書いて手紙はほとんど無視されてしまい、勢力拡大には至らなかったのです。明智光秀が怖れたのは報復、各地で戦いを繰り広げる織田信長の家臣が戻れば当然報復してきますから、その時に戦えるだけの兵力が欲しかったのでしょう。

山崎の戦い

最も、織田信長の家臣がいるとは言え、明智光秀はそれほど焦っていませんでした。何しろ、家臣達は各地に散らばっていて敵の大名との戦闘の真っ最中、京都に戻ってくるにしても時間がかかり、それまでには兵力を整えられると想定していたのです。

ところが、そんな想定を覆すほど迅速に行動した家臣がいました。その家臣とは羽柴秀吉、本能寺の変と織田信長自害の知らせを聞いた彼は、戦闘中の毛利家と講和してしまい、中国地方からわずか13日ほどで尼崎まで辿り着きます。羽柴秀吉は、京都まで65キロの距離にまで迫ってきたのです。

羽柴秀吉は主である織田信長の仇を討つため、明智光秀と合戦を引き起こします。それが1582年の山崎の戦いで、充分な兵力を整えられなかった明智光秀はこの戦いによって死亡、織田信長を倒して天下統一を果たしたものの、それはわずか数日の栄光でしかありませんでした。

明智光秀謀反の理由に迫る

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最も信憑性が高いとされる怨恨説

本能寺の変における最大の謎とされているのが、織田信長の味方だった明智光秀が謀反を起こした動機です。確かに、一旦は中国地方に向かった明智光秀が突如進路を変えて本能寺に向かうのは不自然でもあり、その真相を解明するため現代においても未だ多くの諸説があります。

そんな諸説の一部を紹介すると、最も信憑性が高く有力とされているのが怨恨説です。例えば安土城にて徳川家康を接待した際、織田信長が明智光秀の不手際を厳しく叱責したとされていて、こうした恨みの積み重なりによって謀反を起こすに至ったとされています。

また、武田家を討伐した際の何気ない一言が織田信長を怒らせたというエピソードも有名ですね。とは言え、明智光秀が織田信長を恨むきっかけとなったこのような出来事はいずれも江戸時代に物語として書かれた言わば制作物。根拠のある史料ではないため、怨恨説が正しいとは言い切れないでしょう。

天下統一を狙う明智光秀の野望説

さらに諸説として挙げられているのが野望説。明智光秀は織田信長の家臣ですが、その中でも重臣であったため地位は他の家臣に比べて高く、実際に同盟などによって有力な武将との関係も築いていました。このような武将の存在は、いざという時に協力してくれる頼れる味方がいることになりますね。

ですから、明智光秀は天下統一のタイミングと見て謀反を起こし、本能寺に向かったとされています。しかしこれについても根拠はなく、それどころか各地の武将に手紙を送った時に相手にされていないことから、この諸説もやはり的を得ているとは言い難いでしょう。

これ以外にも「朝廷が明智光秀に織田信長討伐を命じた」「羽柴秀吉や徳川家康が絡んでいる」など、本能寺の変と織田信長の死に関しては様々な諸説や陰謀論が挙げられています。もちろん諸説の類が出題されることはないですが、歴史に興味を持って楽しむための読み物としてはおすすめです。

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羽柴秀吉のその後

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明智光秀との兵力差

羽柴秀吉は山崎の戦いにて明智光秀に勝利、これはそもそもの兵力に雲泥の差があったのが勝因です。明智光秀は10000人の兵力で本能寺の変を起こしましたが、羽柴秀吉と戦った時の兵力は約16000人、対する羽柴秀吉の兵力は約40000人でした。

ここまで兵力に差がついた理由は2つあり、1つは明智光秀に味方する武将が少なかったということです。織田信長と織田信忠の遺体を回収できなかった明智光秀は織田信長討伐を誰からも信じてもらえず、そのため協力を煽っても相手にされなかったと言われています。

もう1つの理由はそもそも羽柴秀吉の兵力が高かったことで、本能寺の変が起こる以前、羽柴秀吉は中国平定に向けて織田信長の軍の主力を率いていました。このため、羽柴秀吉は織田信長の主力の兵力を率いた状態で山崎の戦いに臨めており、その点で既に有利な状況だったのです。

豊臣秀吉を名乗って天下統一

山崎の戦いにて主である織田信長の仇を討った羽柴秀吉、その後は織田信長が目前で叶わなかった天下統一に向けて進んでいきます。山崎の戦いの後、亡き織田信長の後継者を話し合う清須会議が開かれました。その席で羽柴秀吉は織田信長の孫・三法師を織田家の跡継ぎへと指名します。

会議ではこの意見が認められ、これによって羽柴秀吉は織田信長の後継者としての地位を固めることに成功、その名を各地に知らしめていきました。最も、織田家の家臣・柴田勝家とはこれをきっかけに対立することになりますが、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家に勝利。

大阪城を築いて太政大臣に就任した際、朝廷より「豊臣」の姓をたまわって、ここから豊臣秀吉と名乗るようになりました。そして、織田信長があと一歩のところで成し遂げられなかった天下統一を成し遂げ、以後歴史は1600年の関ヶ原の戦いまで豊臣家の時代が続いていくのです。

織田信長よりも明智光秀や羽柴秀吉の行動に注目しよう!

本能寺の変は織田信長の最期となった事件ですが、織田信長よりも注目すべき人物がいます。まず明智光秀、彼は謀反を起こした張本人であり、また直後に起こる山崎の戦いによって死亡しました。

次に羽柴秀吉、彼は豊臣秀吉であり、まだ豊臣の姓をたまわっていなかったため、羽柴秀吉として行動しています。本能寺の変が起こるきっかけとなった羽柴秀吉の援軍要請、そして本能寺の変後の動きは重要なポイントです。

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安土桃山時代日本史歴史

天下統一を目前にして倒れた信長の無念「本能寺の変」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は本能寺の変について勉強していきます。本能寺の変は織田信長の最期となった舞台、そのため例え歴史が苦手でも本能寺の変という言葉を聞いたことはあるでしょう。

織田信長がどんないきさつで最期を迎えることになったのか、そのいきさつをしっかりと理解しておこう。そこで、今回は本能寺の変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から本能寺の変をわかりやすくまとめた。

天下統一が間近に迫った織田信長

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甲州討伐による武田家の滅亡

1582年の甲州討伐、織田信長は武田勝頼の領地となる駿河・信濃・甲斐・上野へと侵攻。武田家は織田信長にとって長年の敵であり、その決着をつけるため全勢力で集結させて決戦に挑み、武田勝頼を自害に追い込んで圧勝、この戦いによって武田家は滅亡しました。

武田家を滅亡させたことで織田家の領土はさらに拡大、播磨から上野までとなった領土は現在で例えるなら兵庫県から群馬県までの広範囲になります。さらに、臣下となった大名のものまで含めれば総石高はおよそ700万石以上、いよいよ天下統一の時が秒読み段階に迫ってきました。

残すは総仕上げ、織田信長は家臣に命じてそれぞれの方面で戦わせます。柴田勝家には越後の大名・上杉家の討伐、滝川一益には関東地方の大名・後北条家の討伐を命じ、自らは伊賀を攻めて敵や賊を討ち平らげていました。しかしこの総仕上げに手こずる家臣が一人、その者の名前は羽柴秀吉……後の豊臣秀吉です

羽柴秀吉の援軍要請

羽柴秀吉は中国地方の大名・毛利家の討伐を命じられており、その作戦として備中高松城を包囲していましたが、この城の攻略はなかなか厄介でした。何しろ城の周辺は深い沼地、さらに山でも囲まれていたことから攻めづらく、羽柴秀吉は毛利家討伐に苦戦していたのです。

もちろん、羽柴秀吉も指をくわえてあぐねるつもりはなく、むしろこの地形を利用した水責め作戦を開始。一方、毛利家はこれに対抗しようと5万もの軍勢となる本隊を備中高松城へと送り込み、この情報を聞いた羽柴秀吉は織田信長に対して援軍を要請しました。

織田信長はこれを承諾、早速援軍を派遣することを決定して、この時羽柴秀吉の援軍に命じられたのが明智光秀の軍です。1582年6月1日、明智光秀は羽柴秀吉の援軍に向かうため亀山城を出発。織田信長もまた援軍として中国地方へと向かっており、その途中にある本能寺に宿泊していました。

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