
旧里帰農令と人返し令の違い

江戸三大改革で行われた旧里帰農令と人返し令は、どちらも農民関連の制度の上に内容もよく似ており、中学生や高校生が受験で引っ掛かってしまう問題の一つではないでしょうか。ここからはそれぞれの違いについて解説していきます。
奨励に留まった旧里帰農令
旧里帰農令と人返し令の大きな違いは、実施された年と実施した人物です。前者は1790年に松平定信の寛政の改革によって、後者は1843年に水野忠邦の天保の改革によって実施されたものですね。
そして何より大きな違いとなるのが、奨励と強制の違いです。旧里帰農令が実施された当時は貧農が江戸で出稼ぎを行っており、そのため農村の人口が減少する事態となっていて、年貢の徴収も困難となっていました。そこで行ったのが旧里帰農令。江戸に出稼ぎに来た貧農が農村へ戻れるように促したのです。
「促す」…つまりそれは「勧める」の意味に等しく、その言葉は奨励であって強制ではありません。つまり、旧里帰農令はあくまで農村へ戻ることを勧める制度で、強制でないため結局貧農は江戸に留まってしまい、幕府が狙ったような効果はほとんど得られませんでした。
強制となった人返し令
一方、人返し令は強制的なものになります。農民の流出を危惧して寛政の改革で実施された旧里帰農令、それが失敗に終わったことで貧農が職を求めて江戸へと出稼ぎにくる状況は相変わらず続いており、そんな中で天保の飢饉が発生して農村は大ダメージ。農村流出の問題はさらに加速します。
農村復興と江戸の貧民対策を求められた水野忠邦は、松平定信と同じような考えを持ちました。江戸に出稼ぎにきた貧農を元の農村に返せば農村は復興して、そうすれば江戸から貧農がいなくなるため江戸の貧民も減少させられるだろうと読んだのです。
ここまでは水野忠邦の発想は松平定信とほぼ同じ。異なるのはそれぞれの制度の強制力でした。あくまで奨励に留めた松平定信の旧里帰農令に対して水野忠邦の人返し令は強制。つまり旧里帰農令と人返し令には制度の奨励と強制の違いがあり、これが最も大きな違いと言えるでしょう。
貧農はなぜ江戸に行こうとするのか?
寛政の改革の頃から、貧民は出稼ぎのため江戸に行くようになりました。しかし、そもそもなぜ貧民は江戸に行こうとするのでしょうか。その理由は貨幣経済の広まりで、江戸時代の後期に差し掛かる頃、農業を営む農民の間にも貨幣経済が少しずつ広まっていきました。
貨幣も米も経済活動につながる点では同じですが、ただ米の場合は天候や環境の影響が大きく、経済の基盤とするには不安定な欠点があります。一方、貨幣には天候も環境も関係なく、例え米が不作の年でも貨幣経済なら安定した収入を得られると考えられていました。
そのため耕地を捨てて江戸に出稼ぎに来ていましたが、ただ中には真面目に職を探さずに賭博に没頭する者もいたようです。そうなってしまうと江戸での犯罪が増えて治安悪化につながってしまい、幕府もこの問題には頭を悩ましていたとされています。
江戸三大改革の後、日本はどうなったのか?
天保の改革では、外国の脅威に備えて薪水給与令が実施されましたが、その約10年後となる1853年にはペリーが黒船で日本に来航。これまで200年以上も対外政策で外国との関係を遮断していた幕府は、1853年のペリーの黒船来航をきっかけに翌年とうとう開国を決断します。
江戸時代の後期、ここから幕末と呼ばれる時代に突入していき、幕府の立場は大きく変わっていきました。江戸三大改革で大きな効果を得られなかった幕府、一方で各藩が藩主を中心に行った藩政改革において雄藩は成功しており、中でも薩摩藩や長州藩は幕府以上に裕福になります。
それはすなわち幕府の衰退を意味しており、開国によって起こった様々な問題もあって人々の幕府に対する信頼は著しく低下。反幕府や倒幕を掲げる意見も見られるようになり、幕府もまたそれに対抗しようとします。こうして、時代はまた新たな方向へ進んでいくことになるのです。
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改革の名称と行った年、行った人物からまず覚えよう!
江戸三大改革のポイントは、それぞれの改革を行った年と人物をまず正確に覚えることです。改革の中では様々な政策が実施されますが、それぞれの政策が実施された年まで細かく出題されることはまずないでしょう。
しかし、改革自体の年は出題されやすく、例えば人返し令を実施した年を問われることはなくても、天保の改革実施の年を問われることはあります。ですから、まずはそれぞれの改革を行った年と人物を暗記しましょう。