今日は江戸三大改革について勉強していきます。江戸時代では3度の大きな改革が行われており、それぞれ享保の改革、寛政の改革、天保の改革と呼ばれている。

これらは江戸三大改革とも呼ばれているが、どれも改革である以上、比較するとその違いはいささか分かりづらいでしょう。そこで、今回は江戸三大改革について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から江戸三大改革をわかりやすくまとめた。

1716年~1746年 享保の改革

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ではまず、第8代将軍・徳川吉宗の主導の元、1716年~1746年にかけて行われた享保の改革から見ていきましょう。

財政難に対する政策

江戸時代中期、幕府は財政難の危機に陥っていたのですが、これは幕府の財源がであったことが理由とされています。

確かに、農業技術の発展によって米の生産力は増加しましたが、ただその発展や新田開発が頭打ち状態。さらに米は気候などの環境次第で豊作にも不作にもなり、そのため税率が変動して幕府の収入も不安定になっていました。そこで行われた政策が税率の見直し。これまでの検見法から定免法へと変えたのです。

定免法とは「定」の文字どおり税率を一定に調整することであり、これによって幕府の税収の安定を図りました。また、物価の上昇に伴って倹約令を実施、分かりやすく言えば贅沢の禁止です。節約を命じることで庶民の消費を抑制し、幕府の財政を立て直すのが目的だったのでしょう。

人口増加に対する政策

人口が増加すればそれだけ商取引が増え、商取引が増えればそれだけトラブルも増えます。実際に裁判所は手一杯になってしまい、幕府は相対済まし令を出して、金銭トラブルの争いにおいては当事者同士での解決を命じました。また、その他の犯罪などにおいても迅速に対応できるよう公事方御定書にまとめます。

公事方御定書とは、要するに裁判の判例集。裁判の基準を過去の同じ事件の判例にならうのは、現在でも採用されていることですね。このように、享保の改革は幕府の財政難や人口増加に対する幕政改革で、他にも足高の制を施行して人材登用において下級役人を雇える仕組みも作りました。

最も、こうした改革を行うと決まって起こる問題が役人の不正でしょう。そこで幕府は民衆による監視の目を高めるために目安箱を設置。これは不正の報告だけでなく幕府の政治に対する民衆の意見箱としても重宝され、幕府もそれを参考に政治方針を決めていったそうです。

1787年~1793年 寛政の改革

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次に寛政の改革を見ていきましょう。この幕政改革は1787年~1793年にかけて行われており、老中首座・松平定信の主導の元に進められた改革です。

貧民増加に対する政策

寛政の改革が行われる以前、老中・田沼意次が重商主義政策を実施。税の徴収を農民ではなく商人を対象するという斬新な試みをしますが、あえなく失敗に終わり、老中の座を失脚に追い込まれます。

結果農民の階層分化が進み、これによって増加した貧農が耕地を放棄してしまい、農業労働力の低下を招いたのです。さらに貧農が都市へと流れ込むことで打ちこわしの被害も頻発。このような問題を解決するため松平定信は寛政の改革を行いました。

まず旧里帰農令を出し、江戸へと出稼ぎにきていた貧農が農村へと戻れるように配慮します。これは単に貧民の数を減らすだけでなく、江戸の貧民の数を減らすことで打ちこわしを防ぐ目的もあったと考えられるでしょう。ただ、旧里帰農令はほとんど効果がなかったとされています。

\次のページで「秩序強化に対する政策」を解説!/

秩序強化に対する政策

寛政の改革では飢饉への対策もなされており、囲い米の制によって米の備蓄を命じて飢饉の到来に備えようとしました。さらにこれと似た政策として、災害時への対策として江戸で資金を蓄えておく七分積金も制度化。町を運営する税を減らす代わりにそれを積み立てにしようと考えたのです。

また棄捐令による旗本・御家人の借金の破棄、人足寄場を設置して職に就けない者が自立できるよう技能をつけさせるなどの政策も行われています。最も、このような政策はいずれも幕府の財政安定の目的が根底にあり、方法は違えど享保の改革でもやはり幕政の財政の安定化を図っていました。

ただ、松平定信の寛政の改革ではこれ以外にも秩序の引き締めに力を入れていて、幕府の思想と似た朱子学以外の学問を禁止するなどの取り締まりも行います。しかしその取り締まりは厳しく、出版統制令による風俗を乱す本などを取り締まったことから、庶民の反感を買ってしまい老中首座失脚の原因にもなりました。

1841年~1843年 天保の改革

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最後に天保の改革を見ていきましょう。この幕政改革は1841年~1843年にかけて老中首座・水野忠邦の主導の元に進められた改革です。

農民の流出に対する政策

江戸三大改革と最後となる天保の改革、これまでの改革の反省点を活かして効果的な改革が行えそうですが、実際には打ち出した政策全てが失敗に終わります。

寛政の改革で締め付けた江戸も活気が戻り、葛飾北斎の浮世絵などが人気を博する化政文化と呼ばれる時代が到来しました。しかし一方で幕府の財政は困難を極め、その影響で大塩平八郎の乱をはじめとした一揆や打ちこわしが頻発するようになります。

そんな状況で行われた天保の改革では、人返し令を実施して出稼ぎ農民を強制的に農村へと帰し、農民を増やすことで百姓体制の維持を目指しました。要するに農民の流出を防いだのですが、そもそも江戸に出稼ぎにくるのは農業での収入が得られないゆえの行動ですから、その農民を帰したところで幕府の財政につながる効果はありませんでした。

物価高騰や外国に対する政策

さらに、物価高騰を解消するための株仲間解散令は、流通の混乱を招いて全くの逆効果に。物価はさらに高騰してしまい、倹約令にて対策するしかありませんでした。また、この頃は外国の脅威にもさらされていたため、異国船打払令を廃止して新たに薪水給与令を制定。日本にやってきた外国船を攻撃するのではなく、水や食料を与えて戦争回避に尽力します。

国の防衛を高める目的で上知令も出しますが、江戸や大阪の領地を幕府の直轄地にするためのその政策は旗本や御家人の土地を奪う行為に等しく、そのため猛反発に遭ってしまいました。そして、江戸の人々の規律を正すための風俗取締令も庶民に反発され失敗。

倹約令や風俗取締法は庶民江戸の暮らしを変えて化政文化を終わらせ、人返し令による財政安定も効果がなく、株仲間解散令に至っては全くの逆効果。上知令は本来幕府の忠実な家来のはずの旗本にも反発され、まさにやることなすこと全てが失敗となった天保の改革でした。

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旧里帰農令と人返し令の違い

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江戸三大改革で行われた旧里帰農令と人返し令は、どちらも農民関連の制度の上に内容もよく似ており、中学生や高校生が受験で引っ掛かってしまう問題の一つではないでしょうか。ここからはそれぞれの違いについて解説していきます。

奨励に留まった旧里帰農令

旧里帰農令と人返し令の大きな違いは、実施された年と実施した人物です。前者は1790年に松平定信の寛政の改革によって、後者は1843年に水野忠邦の天保の改革によって実施されたものですね。

そして何より大きな違いとなるのが、奨励と強制の違いです。旧里帰農令が実施された当時は貧農が江戸で出稼ぎを行っており、そのため農村の人口が減少する事態となっていて、年貢の徴収も困難となっていました。そこで行ったのが旧里帰農令。江戸に出稼ぎに来た貧農が農村へ戻れるように促したのです。

「促す」…つまりそれは「勧める」の意味に等しく、その言葉は奨励であって強制ではありません。つまり、旧里帰農令はあくまで農村へ戻ることを勧める制度で、強制でないため結局貧農は江戸に留まってしまい、幕府が狙ったような効果はほとんど得られませんでした。

強制となった人返し令

一方、人返し令は強制的なものになります。農民の流出を危惧して寛政の改革で実施された旧里帰農令、それが失敗に終わったことで貧農が職を求めて江戸へと出稼ぎにくる状況は相変わらず続いており、そんな中で天保の飢饉が発生して農村は大ダメージ。農村流出の問題はさらに加速します。

農村復興と江戸の貧民対策を求められた水野忠邦は、松平定信と同じような考えを持ちました。江戸に出稼ぎにきた貧農を元の農村に返せば農村は復興して、そうすれば江戸から貧農がいなくなるため江戸の貧民も減少させられるだろうと読んだのです。

ここまでは水野忠邦の発想は松平定信とほぼ同じ。異なるのはそれぞれの制度の強制力でした。あくまで奨励に留めた松平定信の旧里帰農令に対して水野忠邦の人返し令は強制。つまり旧里帰農令と人返し令には制度の奨励と強制の違いがあり、これが最も大きな違いと言えるでしょう。

江戸三大改革の疑問と回答

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最後に、江戸三大改革の疑問とその後の日本について解説していきましょう。

貧農はなぜ江戸に行こうとするのか?

寛政の改革の頃から、貧民は出稼ぎのため江戸に行くようになりました。しかし、そもそもなぜ貧民は江戸に行こうとするのでしょうか。その理由は貨幣経済の広まりで、江戸時代の後期に差し掛かる頃、農業を営む農民の間にも貨幣経済が少しずつ広まっていきました。

貨幣も米も経済活動につながる点では同じですが、ただ米の場合は天候や環境の影響が大きく、経済の基盤とするには不安定な欠点があります。一方、貨幣には天候も環境も関係なく、例え米が不作の年でも貨幣経済なら安定した収入を得られると考えられていました。

そのため耕地を捨てて江戸に出稼ぎに来ていましたが、ただ中には真面目に職を探さずに賭博に没頭する者もいたようです。そうなってしまうと江戸での犯罪が増えて治安悪化につながってしまい、幕府もこの問題には頭を悩ましていたとされています。

江戸三大改革の後、日本はどうなったのか?

天保の改革では、外国の脅威に備えて薪水給与令が実施されましたが、その約10年後となる1853年にはペリーが黒船で日本に来航。これまで200年以上も対外政策で外国との関係を遮断していた幕府は、1853年のペリーの黒船来航をきっかけに翌年とうとう開国を決断します。

江戸時代の後期、ここから幕末と呼ばれる時代に突入していき、幕府の立場は大きく変わっていきました。江戸三大改革で大きな効果を得られなかった幕府、一方で各藩が藩主を中心に行った藩政改革において雄藩は成功しており、中でも薩摩藩や長州藩は幕府以上に裕福になります

それはすなわち幕府の衰退を意味しており、開国によって起こった様々な問題もあって人々の幕府に対する信頼は著しく低下反幕府や倒幕を掲げる意見も見られるようになり、幕府もまたそれに対抗しようとします。こうして、時代はまた新たな方向へ進んでいくことになるのです。

改革の名称と行った年、行った人物からまず覚えよう!

江戸三大改革のポイントは、それぞれの改革を行った年と人物をまず正確に覚えることです。改革の中では様々な政策が実施されますが、それぞれの政策が実施された年まで細かく出題されることはまずないでしょう。

しかし、改革自体の年は出題されやすく、例えば人返し令を実施した年を問われることはなくても、天保の改革実施の年を問われることはあります。ですから、まずはそれぞれの改革を行った年と人物を暗記しましょう。

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日本史歴史江戸時代

「江戸三大改革」とは?享保・寛政・天保の改革とその後の日本を元塾講師が簡単にわかりやすく解説

今日は江戸三大改革について勉強していきます。江戸時代では3度の大きな改革が行われており、それぞれ享保の改革、寛政の改革、天保の改革と呼ばれている。

これらは江戸三大改革とも呼ばれているが、どれも改革である以上、比較するとその違いはいささか分かりづらいでしょう。そこで、今回は江戸三大改革について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から江戸三大改革をわかりやすくまとめた。

1716年~1746年 享保の改革

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ではまず、第8代将軍・徳川吉宗の主導の元、1716年~1746年にかけて行われた享保の改革から見ていきましょう。

財政難に対する政策

江戸時代中期、幕府は財政難の危機に陥っていたのですが、これは幕府の財源がであったことが理由とされています。

確かに、農業技術の発展によって米の生産力は増加しましたが、ただその発展や新田開発が頭打ち状態。さらに米は気候などの環境次第で豊作にも不作にもなり、そのため税率が変動して幕府の収入も不安定になっていました。そこで行われた政策が税率の見直し。これまでの検見法から定免法へと変えたのです。

定免法とは「定」の文字どおり税率を一定に調整することであり、これによって幕府の税収の安定を図りました。また、物価の上昇に伴って倹約令を実施、分かりやすく言えば贅沢の禁止です。節約を命じることで庶民の消費を抑制し、幕府の財政を立て直すのが目的だったのでしょう。

人口増加に対する政策

人口が増加すればそれだけ商取引が増え、商取引が増えればそれだけトラブルも増えます。実際に裁判所は手一杯になってしまい、幕府は相対済まし令を出して、金銭トラブルの争いにおいては当事者同士での解決を命じました。また、その他の犯罪などにおいても迅速に対応できるよう公事方御定書にまとめます。

公事方御定書とは、要するに裁判の判例集。裁判の基準を過去の同じ事件の判例にならうのは、現在でも採用されていることですね。このように、享保の改革は幕府の財政難や人口増加に対する幕政改革で、他にも足高の制を施行して人材登用において下級役人を雇える仕組みも作りました。

最も、こうした改革を行うと決まって起こる問題が役人の不正でしょう。そこで幕府は民衆による監視の目を高めるために目安箱を設置。これは不正の報告だけでなく幕府の政治に対する民衆の意見箱としても重宝され、幕府もそれを参考に政治方針を決めていったそうです。

1787年~1793年 寛政の改革

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次に寛政の改革を見ていきましょう。この幕政改革は1787年~1793年にかけて行われており、老中首座・松平定信の主導の元に進められた改革です。

貧民増加に対する政策

寛政の改革が行われる以前、老中・田沼意次が重商主義政策を実施。税の徴収を農民ではなく商人を対象するという斬新な試みをしますが、あえなく失敗に終わり、老中の座を失脚に追い込まれます。

結果農民の階層分化が進み、これによって増加した貧農が耕地を放棄してしまい、農業労働力の低下を招いたのです。さらに貧農が都市へと流れ込むことで打ちこわしの被害も頻発。このような問題を解決するため松平定信は寛政の改革を行いました。

まず旧里帰農令を出し、江戸へと出稼ぎにきていた貧農が農村へと戻れるように配慮します。これは単に貧民の数を減らすだけでなく、江戸の貧民の数を減らすことで打ちこわしを防ぐ目的もあったと考えられるでしょう。ただ、旧里帰農令はほとんど効果がなかったとされています。

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