今回は濃姫を取り上げるぞ。戦国武将の娘で信長と結婚したのに、はっきり名前もわからないなんて不思議です、いったいどんな具合なのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代や女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国武将と戦国女性にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、濃姫について5分でわかるようにまとめた。

1-1、濃姫は美濃の国の生まれ

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濃姫(のうひめ)は、天文4年(1535年)美濃国の戦国大名斎藤道三(さいとうどうさん)の娘として誕生。濃姫の母は道三の正室小見の方。小見の方は東美濃随一の名家といわれた明智家の出身で、明智光秀の叔母と言われていて、濃姫と明智光秀は従兄妹になるということ。濃姫は他に異母兄弟が6歳上の兄義龍をはじめ男4人、女6人だが、濃姫は正室の子として別格に。

ただし、明智光秀が謎の多い人物で諸説ありまくりなので、小見の方が光秀の叔母かどうかはっきりしないが、少なくとも同族ではあるらしいということ。

1-2、名前が謎

尚、濃姫は、信長と結婚後、美濃の国から来たのでそう呼ばれたらしいということ。それも、江戸時代の「絵本太閤記」、または「武将感状記」の中に登場して定着した名前で、本来生きているときに呼ばれた名前は、帰蝶(きちょう)または胡蝶(こちょう)だったらしいそう。また「美濃国諸旧記」によれば、父道三が天文17年(1548年)に稲葉山城を長男義龍に譲って出家、住居を鷺山城に移した後に、濃姫は古渡城の信長に嫁いだことから、鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれていたということ。しかしここでは濃姫で統一。

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不詳 - 鷲林山常在寺所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

濃姫の父斎藤道三とは
斎藤道三は美濃の蝮と呼ばれた梟雄で、典型的な下克上の戦国大名。名もない境遇に生まれ、僧侶、油売りの商人を経て、権謀術数を用いて美濃の国盗りに成功し、戦国大名に成り上がった人物として、これまた謎の多い人物。しかし、近年になって発見された「六角承禎条書写」という古文書で、美濃の国盗りは道三の父である長井新左衛門尉(法蓮房、松波庄五郎、松波庄九郎、西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではという説が有力に。天文23年(1554年)、長男義龍に家督を譲ったが、義龍と義絶、弘治2年(1556年)4月、長良川河畔で義龍軍に敗退し、討ち死にすることに。

2-1、濃姫、織田信長と政略結婚までの経過

天文13年(1544年)8月、斎藤氏の台頭を嫌った隣国尾張の織田信秀は、土岐頼芸を援助して兵5千を派遣、越前国朝倉孝景の加勢で土岐頼芸の甥の頼純(政頼)も兵7千と共に南と西から攻撃してきたため、斎藤道三は南方の織田勢と交戦したが稲葉山城下を焼かれ敗戦濃厚。そして西方から朝倉勢が来る前に織田と和睦することに。織田家の和睦の条件は、信秀の嫡男吉法師丸(のちの信長)と道三の娘の結婚誓約。

しかし道三は土岐家に対しても、頼芸を北方城に頼純を川手城へ入れると約束して天文15年(1546年)に朝倉孝景とも和睦。土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件のもとに、道三の正室の娘を人質として頼純へ輿入れさせることに(ただし、これは身分からして側室腹ではなく正室の娘が適切とされますが、道三には正室の娘は濃姫しかいないが、かといって濃姫と断定はできないということ)。この説では濃姫は数え12歳で美濃守護土岐頼純の正室に。

そしてそれ以前の織田信秀との信長との結婚の約束は保留されていたということ。そして織田、朝倉方も道三討伐のために、天文16年(1547年)8月、土岐頼芸と頼純に、大桑城で家臣団を糾合して蜂起を促したので、道三は織田、朝倉の軍勢が来る前に大桑城を大軍で攻めたため、土岐頼芸は朝倉氏の越前国一乗谷に逃亡。そして信秀は再び美濃に侵攻し、稲葉山城下を焼き打ちしたが斎藤勢に奇襲されて敗北。「美濃国諸旧記」によれば、濃姫が嫁いだ土岐頼純は大桑城落城の際に討ち死にしたか、同年11月におそらく道三によって暗殺されたかで、濃姫は夫の死で父のもとに戻ったということに。

そして天文16年(1546年)から翌年、道三と信秀は大垣城を巡って何度か小競り合いがあったものの決着が付かずに和睦することになり、濃姫と信長の縁組の話が再燃。信秀は病気がちになったため、誓約の履行を督促。

天文18年(1549年)2月、15歳の濃姫は16歳の織田信長と結婚。媒人は明智光安であったそう。「信長公記」では織田家臣で信長の守役の平手政秀が和睦と信長の縁組みをまとめたという説も。

2-2、信長、道三と会見

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狩野元秀 (1551- 1601) - 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, リンクによる

天文22年(1553年)4月、大うつけと言われたかぶき者の信長と道三は、正徳寺で会見を行うことに。道三は、こっそりと信長の行列を観察、かぶきものと言われた派手な格好の信長を見たが、信長は会見場所には別人のようなきちんとした服装で礼儀正しく会見場に来て、道三はびっくり。そして、道三は斎藤家の兵の槍が短く、織田家の兵の槍がかなり長いことにも気が付いたということで、帰り道に家臣に「自分の息子たちは、あのうつけ者の門前に馬を繋ぐだろう」話したことは有名。

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2-3、信長、舅道三を救援に向かうも退却

弘治2年(1556年)4月、義父道三が息子の義龍との戦いで敗死した長良川の戦いでは、婿の信長は道三の救援のために木曽川を越え美濃の大浦まで出陣したが、勢いに乗った義龍軍に苦戦したため道三敗死の知らせで信長が殿(しんがり)をしつつ退却したということ。その後、信長は道三という後ろ盾を失い、柴田勝家や林通勝らが信長の弟信勝を擁立するため挙兵、稲生の戦いで信長軍は勝利。内紛をおさめたそう。

3-1、濃姫の逸話

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濃姫は謎の多い人物で事実かどうかわからない創作上の話が多いですが、梟雄の娘として、また天下統一した信長の正室としてふさわしいしっかりした女性の雰囲気が伝わるエピソードをご紹介します。

3-2、父道三からプレゼントの短剣

濃姫は15歳で織田信長に嫁ぐときに、父斎藤道三から、婿の織田信長が噂通りの大うつけで愚か者ならば、これで刺すように、と言われて短刀を渡されたのですが、それに対して濃姫は、この短刀で父上を刺すことになるかもしれませぬと答えたという話。

3-3、結婚後も実家のスパイを

信長との結婚後、信長は濃姫が寝入った後、寝所を抜け出して夜明けに戻るという行動を始めたので、濃姫は信長に何をしているのか聞いてみたところ、信長は斎藤家の家老たちからの謀反の連絡を待っているところだと答えたので、驚いた濃姫はすぐに父道三に伝えたということ。そして道三は家老たちの裏切りを疑って抹殺したが、家老たちは無実で信長の策略だったという話。しかし道三はこの逸話にあるように家老を殺害した記録は存在しないので、創作らしいそう。

\次のページで「3-4、信長嫡男信忠を養子に」を解説!/

3-4、信長嫡男信忠を養子に

天正4年(1576年)11月28日、信長の嫡男信忠は19歳のときに、父信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られ支配を任されたということで、信長正室濃姫を養母として岐阜城主に就任し、濃姫の弟の斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)に。側室から生まれた後継ぎが正室の養子となることはよくあることですが、道三の国譲状を有効に使って後継者信忠の正統を明白にあらわした出来事と言えるそう。

4-1、濃姫のその後の諸説

濃姫は、年代は不明ながら、斎藤家菩提寺の常在寺に父斎藤道三の肖像を寄進した記録以後、歴史から消えたということで、「信長公記」には濃姫の入輿についての短い記述だけで、その後は一切登場せず、他の史料にもほとんど出てこないということ。また濃姫のことだけでなく、信長は多くの子供に恵まれたものの、子供たちの生母ははっきりせずに不明の場合も多いのですが、色々な史料から推論がされているのをご紹介しますね。

4-2、離縁説

作家の阿井景子氏によれば、「信長公記」などの史料に結婚についてだけしか記載されていないのは織田家と縁が切れていたのではという推測で、政略結婚の意義が失われた濃姫との婚姻が無用となり、弘治2年(1556年)夏の生駒殿の懐妊の頃、濃姫は織田家を追放されたという説。そして実父の敵の異母兄義龍を嫌い、母方の叔父明智光安の明智城に帰り、その後、義龍の美濃統一戦で攻撃され、弘治2年(1556年)9月に落城して明智一族と運命を共にしたのではということ。

しかし、濃姫に限らず、他の女性についても輿入れ後の消息が記されている例は少なく、「信長公記」には嫡男信忠の生母についても何の言及もないそう。また、婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の国譲状があったことを考えれば、濃姫を正室としておくことは美濃攻略の足がかりともなるので、信長にとって濃姫は必要な存在。それに道三の側室の一人は信長の妹だったので、重縁となっている斎藤氏との縁を切る必要性は考えられないそう。

そのうえ信長の配下に美濃出身の侍たちが家臣団に加わりつつあったため、濃姫がいるだけで利用できたはずだし、正室といえども和睦の際の人質でもあるので、道三を殺したとはいえ異母兄義龍との戦争を理由に離縁して実家に返す必然性がなく、離縁するだけの理由を書いた資料もないという反論も。

4-3、早期に病死説

濃姫は天文17年(1548年)、15歳で信長に嫁いで正室となったが、弘治3年(1557年)に信長の嫡男信忠を産んだ生駒氏が後室となっているので、濃姫はそれ以前に、20歳前後で病死したのではという推測もありということ。しかしそれならば、元服後の信忠が亡くなった濃姫の養子扱いになるはずがないのでは。

4-4、本能寺の変で薙刀をふるって戦った説

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楊斎延一 - ブレイズマン (talk) 10:19, 12 July 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

濃姫は、本能寺の変のときに信長と共にいたが、逃げずに最後まで自ら薙刀をふるって戦って死んだという説。これは完全に創作物であって、本能寺の変の際、濃姫が戦死したという話は史料では確認されていないということ。しかし民間伝承として、岐阜県岐阜市不動町に、本能寺の変の際に信長の家臣が濃姫の遺髪を携えて京から逃れてこの地に辿り着き埋葬したという濃姫遺髪塚(西野不動堂)が存在するそう。

4-5、本能寺の変後も生存説

濃姫が早世せず、本能寺の変でも死なず生きていたという説で、同時代人の公家「言継卿記」には、永禄12年(1569年)7月、信長が足利義昭を擁して上洛した後、斎藤義龍の後家(近江の方)をかばう信長本妻という記述が、濃姫ではないかと考えられているそう。 「言継卿記」には同じ年に「信長が姑に会いに行く」という記述もあるということで、濃姫の生母の小見の方とすれば、濃姫が生存していたからこそではということに。

また、大村由己の「総見院殿追善記」に、本能寺の変後に安土城から落ち延びた信長の北の方の記述が見られるということで、寛永年間の「氏郷記」に、安土城二の丸の留守居役だった御番衆の蒲生賢秀が、本能寺の変直後に安土城から日野城へ信長公御台君達らを避難させたとあり、信長の正室、御台と呼ばれた人物は濃姫のことではないかとされているそう。そして、元禄年間に書かれた「明智軍記」には、尾張平定後の饗膳の際に、信長内室が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝して多くの鮑などを振る舞った話が出てくるということで、この書物は後年の者で史実と異なる点も多いが、江戸時代初めには濃姫が亡くなったり離縁されたとは伝わっていなかったと推測できるそう。

大正期に編集された「妙心寺史」では、天正11年(1583年)6月2日、信長公夫人主催で清見寺住持の月航玄津(妙心寺44世)が一周忌を執り行った記録があり、これは羽柴秀吉主催とは別の一周忌法会として、他にも候補はあるが、濃姫の可能性もありということ。

\次のページで「4-6、安土殿説」を解説!/

4-6、安土殿説

信長の次男の信雄が、天正15年(1587年)頃の織田家の家族や家臣団の構成をまとめた「織田信雄分限帳」には、「あつち殿(安土殿)」という女性が載っていて、濃姫ではという説があるそう。安土殿は600貫文の知行で女性としては御内様(北畠具教の娘で信雄正室)、岡崎殿(岡崎信康の未亡人徳姫、信雄の実妹)に続く3番目で、その次の大方殿様は信長生母の土田御前らしく、5番目は信長妹の小林殿(牧長清室)なので、織田家では地位の高い女性となり、濃姫ではと推測されるということ。

また岡田正人氏の調査では、鷺山殿の法名が安土摠見寺蔵の「泰巌相公縁会名簿」に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されていたということで、京都の大徳寺総見院には「養華」と刻まれた五輪供養塔(卒塔婆)があると奉じ、NHKの大河ドラマ「信長」内で、鷺山殿の濃姫が慶長17年(1612年)7月、78歳で死去したと発表したということ。しかし永田恭教氏によれば、養華院に関する大徳寺の記録は全て信長の寵妾となっているために養華院は濃姫ではなく側室の一人という説も。

道三の娘で信長の正室として無視できないが、謎の多い女性

濃姫は梟雄と言われた斎藤道三の娘として生まれ、政略結婚で織田信長と結婚した女性。斎藤道三は息子よりも婿である信長の器量を見込んで美濃の国の譲り状を与えたと言われているが、怒涛のような織田信長の人生、きちんと記録してこなかったために、濃姫についても生年の他は、名前から亡くなった年までほとんどのことがわからない謎の人生に。

子供がなくても存在感のある秀吉正室の北政所寧々は別格としても、信長の長男が濃姫の養子になったことからも、濃姫は信長の子供を産まなかっただろうということのほか、いつどこで亡くなったかもお墓も不明というのは悲しいですが、しかし逆に言えば、研究の対象としても史料をひっくり返したり、また小説などの創作意欲を沸かせるほどの気になる存在ということで、今後も色々な史料や推測で濃姫の人生が明らかになる可能性もある、新しい発見が期待できるということかもしれないですね。

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室町時代戦国時代日本史歴史

斎藤道三の娘で織田信長の正室「濃姫」謎の多い戦国女性を歴女がわかりやすく解説

今回は濃姫を取り上げるぞ。戦国武将の娘で信長と結婚したのに、はっきり名前もわからないなんて不思議です、いったいどんな具合なのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代や女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国武将と戦国女性にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、濃姫について5分でわかるようにまとめた。

1-1、濃姫は美濃の国の生まれ

image by PIXTA / 45892267

濃姫(のうひめ)は、天文4年(1535年)美濃国の戦国大名斎藤道三(さいとうどうさん)の娘として誕生。濃姫の母は道三の正室小見の方。小見の方は東美濃随一の名家といわれた明智家の出身で、明智光秀の叔母と言われていて、濃姫と明智光秀は従兄妹になるということ。濃姫は他に異母兄弟が6歳上の兄義龍をはじめ男4人、女6人だが、濃姫は正室の子として別格に。

ただし、明智光秀が謎の多い人物で諸説ありまくりなので、小見の方が光秀の叔母かどうかはっきりしないが、少なくとも同族ではあるらしいということ。

1-2、名前が謎

尚、濃姫は、信長と結婚後、美濃の国から来たのでそう呼ばれたらしいということ。それも、江戸時代の「絵本太閤記」、または「武将感状記」の中に登場して定着した名前で、本来生きているときに呼ばれた名前は、帰蝶(きちょう)または胡蝶(こちょう)だったらしいそう。また「美濃国諸旧記」によれば、父道三が天文17年(1548年)に稲葉山城を長男義龍に譲って出家、住居を鷺山城に移した後に、濃姫は古渡城の信長に嫁いだことから、鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれていたということ。しかしここでは濃姫で統一。

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不詳 – 鷲林山常在寺所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

濃姫の父斎藤道三とは
斎藤道三は美濃の蝮と呼ばれた梟雄で、典型的な下克上の戦国大名。名もない境遇に生まれ、僧侶、油売りの商人を経て、権謀術数を用いて美濃の国盗りに成功し、戦国大名に成り上がった人物として、これまた謎の多い人物。しかし、近年になって発見された「六角承禎条書写」という古文書で、美濃の国盗りは道三の父である長井新左衛門尉(法蓮房、松波庄五郎、松波庄九郎、西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではという説が有力に。天文23年(1554年)、長男義龍に家督を譲ったが、義龍と義絶、弘治2年(1556年)4月、長良川河畔で義龍軍に敗退し、討ち死にすることに。

2-1、濃姫、織田信長と政略結婚までの経過

天文13年(1544年)8月、斎藤氏の台頭を嫌った隣国尾張の織田信秀は、土岐頼芸を援助して兵5千を派遣、越前国朝倉孝景の加勢で土岐頼芸の甥の頼純(政頼)も兵7千と共に南と西から攻撃してきたため、斎藤道三は南方の織田勢と交戦したが稲葉山城下を焼かれ敗戦濃厚。そして西方から朝倉勢が来る前に織田と和睦することに。織田家の和睦の条件は、信秀の嫡男吉法師丸(のちの信長)と道三の娘の結婚誓約。

しかし道三は土岐家に対しても、頼芸を北方城に頼純を川手城へ入れると約束して天文15年(1546年)に朝倉孝景とも和睦。土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件のもとに、道三の正室の娘を人質として頼純へ輿入れさせることに(ただし、これは身分からして側室腹ではなく正室の娘が適切とされますが、道三には正室の娘は濃姫しかいないが、かといって濃姫と断定はできないということ)。この説では濃姫は数え12歳で美濃守護土岐頼純の正室に。

そしてそれ以前の織田信秀との信長との結婚の約束は保留されていたということ。そして織田、朝倉方も道三討伐のために、天文16年(1547年)8月、土岐頼芸と頼純に、大桑城で家臣団を糾合して蜂起を促したので、道三は織田、朝倉の軍勢が来る前に大桑城を大軍で攻めたため、土岐頼芸は朝倉氏の越前国一乗谷に逃亡。そして信秀は再び美濃に侵攻し、稲葉山城下を焼き打ちしたが斎藤勢に奇襲されて敗北。「美濃国諸旧記」によれば、濃姫が嫁いだ土岐頼純は大桑城落城の際に討ち死にしたか、同年11月におそらく道三によって暗殺されたかで、濃姫は夫の死で父のもとに戻ったということに。

そして天文16年(1546年)から翌年、道三と信秀は大垣城を巡って何度か小競り合いがあったものの決着が付かずに和睦することになり、濃姫と信長の縁組の話が再燃。信秀は病気がちになったため、誓約の履行を督促。

天文18年(1549年)2月、15歳の濃姫は16歳の織田信長と結婚。媒人は明智光安であったそう。「信長公記」では織田家臣で信長の守役の平手政秀が和睦と信長の縁組みをまとめたという説も。

2-2、信長、道三と会見

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狩野元秀 (1551- 1601) – 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, リンクによる

天文22年(1553年)4月、大うつけと言われたかぶき者の信長と道三は、正徳寺で会見を行うことに。道三は、こっそりと信長の行列を観察、かぶきものと言われた派手な格好の信長を見たが、信長は会見場所には別人のようなきちんとした服装で礼儀正しく会見場に来て、道三はびっくり。そして、道三は斎藤家の兵の槍が短く、織田家の兵の槍がかなり長いことにも気が付いたということで、帰り道に家臣に「自分の息子たちは、あのうつけ者の門前に馬を繋ぐだろう」話したことは有名。

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