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夫・宇喜多秀家と生き別れた悲劇の「豪姫」を歴女が徹底わかりやすく解説

1-3、豪姫が病に倒れたときの秀吉の反応は

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狩野光信[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

もともとひ弱だったのか、豪姫は出産のたびに大病にかかったということで、このときも病に倒れたが、医師の見立てで狐が憑いたと聞いた秀吉が、慶長2年(1597年)稲荷大明神宛に「備前中納言女どもに付、障(さわ)り物の怪(もののけ)相見え候。とかく狐の所為(しょい)に候。何とて左様にみいり候や。曲事(くまごと)におぼしめされ候へども、今度は、御免なされ候。もしこの旨相背(そ)むき、むさとしたる儀これあるにおいては、日本の内、年々狐狩り仰せつけられるべく候。一天下にこれある有情無情の類(たぐい)まで、御意重からず候や。すみやかに立ち除(の)くべく候。委曲(いきょく)、吉田の神主申し渡すべくなり」という手紙が残っているそうで、豪姫は秀吉のおかげか、無事回復したということ。

2-1、豪姫の夫宇喜多秀家とは

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不明[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

秀家の父宇喜多直家は、備前国(岡山県東部)の一土豪から身を起こした梟雄的な人物で、地理的にも織田、毛利の抗争の境目という場所柄もあり、双方から重視され立場を変えがちだったということ。

直家は主家の浦上氏を滅ぼしたり、姻戚となったライバルを暗殺したりするため、親族は直家に殺されないようにびくびくしたほどで、実の弟も兄直家と会うときは臭いかたびらを着用していたという話もあるほど。

秀家はそんな直家のひとり息子(兄である長男が戦死)で、信長が秀吉を中国平定に赴かせた際に、直家を毛利側から寝返らせるための交渉後、秀吉と直家は意気投合したということ。直家はひとりっ子で11歳の秀家を人質として信長に差し出し、秀吉が面倒を見たのですが、ひとり息子の人質はなかなか価値が高いと信長の信頼を得、おまけに子供の頃から眉目秀麗だった八郎と呼ばれた秀家は誰からも可愛がられたよう。その2年後、直家が亡くなるとき、秀吉は秀家を連れて単身直家の城へ行き、息子を頼むと直家に遺言されたということ。また、直家の未亡人で秀家の母で美貌のお福を秀吉は気に入ったという話もあり。尚、元服したとき、秀吉の秀をもらって秀家という名乗りに。

そして秀吉は秀家を可愛がり、猶子(養子に準じる)としたということで、2歳違いの秀家と豪姫は兄妹のようにわりと近い存在として育ち、お似合いのカップルとして秀吉が娶せたのかもしれないですね。

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なんだよ、昔の武将にこんなイケメンがいたなんて信じられんぞ

2-2、秀家、秀吉に従って着々と戦歴を重ねて五大老に

秀家は豪姫との結婚によって秀吉の一門としての扱いになり、若いながらも秀吉について戦場へ赴き頭角を現し、秀吉の信頼を得たということ。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いのときには、大坂城を守備して雑賀衆の侵攻を撃退。天正13年(1585年)には紀州征伐に参加、四国攻めで讃岐、後に阿波戦線に加わり、天正14年(1586年)の九州征伐にも日向戦線に参加し、天正15年(1587年)には豊臣姓と羽柴氏を与えられ、天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。そして文禄元年(1592年)大将として、李氏朝鮮の都漢城に入り京畿道を平定、翌年には李如松の明軍を碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共に撃破した後、晋州城を攻略。文禄3年(1594年)には参議から従三位権中納言に。慶長2年(1597年)毛利秀元と共に監軍として、左軍を率いて南原城を攻略、次いで全羅道、忠清道を席捲し、南岸では順天倭城を築城したということ。

そして慶長3年(1598年)、27歳で秀吉に最年少の五大老の一人に任じられることに。

2-3、秀家、宇喜多騒動で重臣が離反

秀家の宇喜多家は、秀吉の没後、慶長4年(1599年)に、重臣の戸川達安、岡貞綱らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫り、秀家が拒否したために中村は前田家に逃れて、戸川らが大坂の屋敷を占拠したという、宇喜多騒動が勃発。

秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安とし、暗殺しようとしましたが、秀家と対立する従兄弟の宇喜多詮家(後に改名して坂崎直盛)が戸川達安をかばい、大坂玉造の自邸へ立て籠もったために両者一触即発に。騒動の調停は最初は大谷吉継と徳川家康の家臣榊原康政が請け負ったが、康政は調停が長引き国許での政務が滞ったために家康に叱責され国許へ帰ることに。そして秀家と戸川らの対立は、家康が裁断することになり内乱は回避。戸川らは他家で預かり蟄居処分、花房正成も宇喜多家を出奔。

この騒動で、戸川、岡、花房らの秀家の父直家以来の家臣団、一門衆の多くが宇喜多家を退去、宇喜多家の軍事的、政治的衰退につながったということ。

尚、宇喜多騒動の原因は、秀吉が没後の世情不安定と、宇喜多家の執政の重臣長船綱直、豪姫に付いて前田家から来た奉行人中村次郎兵衛らの専横に対する他の重臣達の不満という家臣団の内紛と、秀家の素行(鷹狩好きなど秀吉にならって贅沢好みだったらしい)に問題があったことなどではとされているが、宇喜多家家臣には日蓮宗徒が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことで、家臣団に対してキリシタンへの改宗命令があったためという説もあるそう。

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