今回は豪姫を取り上げるぞ。秀吉の養女で宇喜多秀家と結婚したんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国女性には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、豪姫について5分でわかるようにまとめた。

1-1、豪姫は尾張の生まれ

豪姫(ごうひめ)は、天正2年(1574年)に尾張荒子(愛知県名古屋市)で誕生。父は前田利家で母はおまつ(後の芳春院)の4女。

豪姫は数え年2歳の頃、父の利家と親友の秀吉との約束で、秀吉とのちの北政所寧々との養女に。豪姫の母おまつと北政所寧々も大親友、子供のない秀吉夫妻に愛されて育てられたということ。

秀吉は、戦地からも「ごもじ」(名前の最初の「ご」にそもじのもじを付けた、親しい女性に対する呼び方)と呼びかけ、「けなげに候や」「はや飯をまいり候や」と、慈父そのものの内容の手紙だということ。豪姫は大人になるまで、秀吉と北政所寧々を実の親だと思っていたという話もあるほど。

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不明 - 投稿者自身による作品 (個人所蔵品), パブリック・ドメイン, リンクによる

豪姫実両親と養父母との関係は
豪姫の両親は前田利家と正室おまつ、前田利家は尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の4男で、幼名は犬千代。14歳で小姓として信長に仕え、又左衛門と名乗り赤母衣衆で「槍の又左」と呼ばれた槍の名人、一時信長の怒りを買って浪人したこともあったが、数年苦労の末に復帰。おまつは利家の従妹で数え11歳で利家と結婚、以後、2男9女を産むことに。

また、清洲城下に住んでいた頃、秀吉と北政所寧々夫妻と隣どうしの長屋で、垣根越しにおしゃべりしたり仲でかなり親しい付き合いをしていたということ。後年になっても、この親しい間柄は続き、おまつは利家の死後も北政所寧々をまたとないお人であるので、何事も北政所寧々に相談してその通りにせよと息子に言い聞かせたそう。

というわけで、利家と秀吉、まつと寧々は隣同士の信頼関係のある間柄で、片方には子供がなくもう一方は毎年のように子供が生まれていたとき、次は男女どちらでも養子にちょうだい、あげてもいいよ可愛がってねと、豪姫が生まれる前から約束していたということ。

1-2、豪姫、宇喜多秀家と結婚

豪姫は、天正16年(1588年)以前に秀吉の猶子となっていた、備前国(現岡山県)戦国大名で将来を嘱望されていた岡山城主宇喜多秀家と結婚。これは政略結婚だが、イケメンで秀吉のお気に入りの17歳の若武者ということで、15歳の豪姫にとって幸せな結婚だったはず。最初は備前御方と呼ばれ、文禄2年(1593年)に南御方と改称したそう。また両者の婚姻は天正14年(1586年)とする説もあって、ふたりの間には、秀高、秀継、理松院(山崎長卿、富田重家室)らが次々と生まれたということ。

秀吉は、文禄2年(1593年)、北政所寧々に宛てた手紙に「男にて候はゞ、関白を持たせ申すべきに(豪が男であれば、関白にしてやるのに)」とか「太閤秘蔵の子にて候まゝ、ねより上の官に致したく(わしの秘蔵っ子なので、おね殿よりさらに高い官位につけてやりたい)」と、豪姫について記しているということで、豪姫はなかなか賢い女性だったのでは。

また、秀吉は豪姫自身へも、朝鮮出兵のための九州から、「はやはや大いこく(明の事)いつれもゆるし候まゝ、八郎(秀家の事)も十月ころニハかいちん(凱陣)可申候、心やすく候へく候、めてたく御めにかゝろ候て可申候、かしく」と、心配無用という意味の手紙を書いて送っているそう。

\次のページで「1-3、豪姫が病に倒れたときの秀吉の反応は」を解説!/

1-3、豪姫が病に倒れたときの秀吉の反応は

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狩野光信 - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

もともとひ弱だったのか、豪姫は出産のたびに大病にかかったということで、このときも病に倒れたが、医師の見立てで狐が憑いたと聞いた秀吉が、慶長2年(1597年)稲荷大明神宛に「備前中納言女どもに付、障(さわ)り物の怪(もののけ)相見え候。とかく狐の所為(しょい)に候。何とて左様にみいり候や。曲事(くまごと)におぼしめされ候へども、今度は、御免なされ候。もしこの旨相背(そ)むき、むさとしたる儀これあるにおいては、日本の内、年々狐狩り仰せつけられるべく候。一天下にこれある有情無情の類(たぐい)まで、御意重からず候や。すみやかに立ち除(の)くべく候。委曲(いきょく)、吉田の神主申し渡すべくなり」という手紙が残っているそうで、豪姫は秀吉のおかげか、無事回復したということ。

2-1、豪姫の夫宇喜多秀家とは

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不明 - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

秀家の父宇喜多直家は、備前国(岡山県東部)の一土豪から身を起こした梟雄的な人物で、地理的にも織田、毛利の抗争の境目という場所柄もあり、双方から重視され立場を変えがちだったということ。

直家は主家の浦上氏を滅ぼしたり、姻戚となったライバルを暗殺したりするため、親族は直家に殺されないようにびくびくしたほどで、実の弟も兄直家と会うときは臭いかたびらを着用していたという話もあるほど。

秀家はそんな直家のひとり息子(兄である長男が戦死)で、信長が秀吉を中国平定に赴かせた際に、直家を毛利側から寝返らせるための交渉後、秀吉と直家は意気投合したということ。直家はひとりっ子で11歳の秀家を人質として信長に差し出し、秀吉が面倒を見たのですが、ひとり息子の人質はなかなか価値が高いと信長の信頼を得、おまけに子供の頃から眉目秀麗だった八郎と呼ばれた秀家は誰からも可愛がられたよう。その2年後、直家が亡くなるとき、秀吉は秀家を連れて単身直家の城へ行き、息子を頼むと直家に遺言されたということ。また、直家の未亡人で秀家の母で美貌のお福を秀吉は気に入ったという話もあり。尚、元服したとき、秀吉の秀をもらって秀家という名乗りに。

そして秀吉は秀家を可愛がり、猶子(養子に準じる)としたということで、2歳違いの秀家と豪姫は兄妹のようにわりと近い存在として育ち、お似合いのカップルとして秀吉が娶せたのかもしれないですね。

2-2、秀家、秀吉に従って着々と戦歴を重ねて五大老に

秀家は豪姫との結婚によって秀吉の一門としての扱いになり、若いながらも秀吉について戦場へ赴き頭角を現し、秀吉の信頼を得たということ。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いのときには、大坂城を守備して雑賀衆の侵攻を撃退。天正13年(1585年)には紀州征伐に参加、四国攻めで讃岐、後に阿波戦線に加わり、天正14年(1586年)の九州征伐にも日向戦線に参加し、天正15年(1587年)には豊臣姓と羽柴氏を与えられ、天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。そして文禄元年(1592年)大将として、李氏朝鮮の都漢城に入り京畿道を平定、翌年には李如松の明軍を碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共に撃破した後、晋州城を攻略。文禄3年(1594年)には参議から従三位権中納言に。慶長2年(1597年)毛利秀元と共に監軍として、左軍を率いて南原城を攻略、次いで全羅道、忠清道を席捲し、南岸では順天倭城を築城したということ。

そして慶長3年(1598年)、27歳で秀吉に最年少の五大老の一人に任じられることに。

2-3、秀家、宇喜多騒動で重臣が離反

秀家の宇喜多家は、秀吉の没後、慶長4年(1599年)に、重臣の戸川達安、岡貞綱らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫り、秀家が拒否したために中村は前田家に逃れて、戸川らが大坂の屋敷を占拠したという、宇喜多騒動が勃発。

秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安とし、暗殺しようとしましたが、秀家と対立する従兄弟の宇喜多詮家(後に改名して坂崎直盛)が戸川達安をかばい、大坂玉造の自邸へ立て籠もったために両者一触即発に。騒動の調停は最初は大谷吉継と徳川家康の家臣榊原康政が請け負ったが、康政は調停が長引き国許での政務が滞ったために家康に叱責され国許へ帰ることに。そして秀家と戸川らの対立は、家康が裁断することになり内乱は回避。戸川らは他家で預かり蟄居処分、花房正成も宇喜多家を出奔。

この騒動で、戸川、岡、花房らの秀家の父直家以来の家臣団、一門衆の多くが宇喜多家を退去、宇喜多家の軍事的、政治的衰退につながったということ。

尚、宇喜多騒動の原因は、秀吉が没後の世情不安定と、宇喜多家の執政の重臣長船綱直、豪姫に付いて前田家から来た奉行人中村次郎兵衛らの専横に対する他の重臣達の不満という家臣団の内紛と、秀家の素行(鷹狩好きなど秀吉にならって贅沢好みだったらしい)に問題があったことなどではとされているが、宇喜多家家臣には日蓮宗徒が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことで、家臣団に対してキリシタンへの改宗命令があったためという説もあるそう。

\次のページで「2-4、秀家、関が原では西軍に」を解説!/

2-4、秀家、関が原では西軍に

秀吉没後、後を追うように豪姫の父前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内では、武断派の加藤清正、福島正則らと石田三成、小西行長らとの派閥抗争が表面化。そして五大老筆頭の徳川家康が影響力を強めることになったが、清正ら武闘派7将の石田三成襲撃事件の際、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出したということ。

そして慶長5年(1600年)、家康が会津征伐のため出兵し、石田三成と毛利輝元が打倒家康で挙兵。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らと家康断罪の檄文を発して西軍の主力に。秀家は伏見城の戦いでは総大将として攻略、その後は本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃、そして美濃国大垣城に入城して西軍本隊と合流。

関ヶ原の本戦では、1万7千人を率いて西軍主力として戦い、東軍の福島正則軍と激突したが、同じ豊臣一門だった小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れ、宇喜多軍は壊滅に。

2-5、関が原後の秀家

関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易となり、秀家は伊吹山中に逃げたが、落ち武者狩りの矢野五右衛門に約40日も匿われたそう。その後、秀家は京都の太秦に潜伏中京都所司代の奥平信昌に発見されたが逃走。同じ西軍の島津義弘などを頼って薩摩国に落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われたということ。しかし、島津氏が秀家を庇護しという噂が広まり、慶長8年(1603年)島津忠恒(義弘の子)が秀家を家康に引き渡すことに。

2-6、秀家、八丈島へ流罪に

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秀家は、その後、島津忠恒や妻豪姫の兄である前田利長の懇願で死罪を免れ、駿河国久能山へ幽閉。そして慶長11年(1606年)、八丈島での公式史上初の流人として配流されることに。八丈島では苗字を浮田、号を久福とし、妻豪姫の実家、加賀前田家と宇喜多家旧臣の花房正成らの援助で、はじめはひそかに米などを送ってもらったそう。しかし晩年は幕府からも許可が出て、公に隔年70俵の援助を得るように。

秀家は、息子2人と共に八丈島で50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたといわれているが、生活はかなり不自由であったようで、嵐のために八丈島に退避した福島正則の家臣に酒をわけてもらったとか、八丈島の代官にご馳走してもらったとき、飯を2杯所望して3杯目はお握りにして家族への土産にしたなどの逸話が。

そして秀家が島で水汲女といわれる現地妻を置いた記録がないという話も、また、元和2年(1616年)には秀家は許されて、前田利常から10万石を分け与えるので本土へ帰って大名に復帰すればと勧めたが、秀家は断って八丈島に留まった話もあり、明暦元年(1655年)11月20日、4代将軍家綱の時代まで生きて84歳で死去。
尚、秀家が亡くなった後も、八丈島の浮田家への前田家からの援助はなんと200年以上も明治維新まで続いたということ。

3、その後の豪姫

image by PIXTA / 56923777

 豪姫は関が原後は、北政所寧々が落飾して住んだ高台院に一時引き取られたが、キリシタンの洗礼を受けたということ。そして慶長12年(1607年)頃には娘二人と共に実家である前田家のある金沢へ、その際には、中村刑部と一色主膳が従い、豪姫は化粧料として前田家から1500石を受けて金沢西町に居住。また一族の宇喜多久閑も金沢入り。尚、ロドリゲス・ジラン神父がローマに豪姫が洗礼を受けたことを報告、信仰の先達を勤めたのは内藤ジュリアであったそう。

また、豪姫は八丈島へ流される夫秀家や息子たちのために医師や乳母など、身の回りの世話をする人を派遣したということで、島での窮乏を聞き前田家から送られた米や生活のための金品は、もちろん豪姫の指示があってのことのはず。

しかし豪姫は秀家や息子たちに会えないままで寛永11年(1634年)5月、61歳で死去。

\次のページで「戦国の世に生まれ、有名武将の父母と養父母に愛されたが運命に翻弄され悲劇に」を解説!/

戦国の世に生まれ、有名武将の父母と養父母に愛されたが運命に翻弄され悲劇に

豪姫は仲が良く子沢山の両親のもとに生まれ、両親ととても親しい付き合いだった近所の子供のない夫婦に引き取られて、養父母を実の両親だとずっと思っていたほどすくすくと愛情いっぱいに育てられた女性。

そして年頃になると、大名の跡取りでもあり、養父が見込んだ将来性のある若武者と結婚、仲睦まじくころころと子供たちも生まれて幸せいっぱいだったでしょう。しかし、この豪姫の実の両親は前田利家と正室おまつで、養父母が豊臣秀吉と北政所寧々、夫が宇喜多秀家だったのです。

そして養父秀吉の死後、夫秀家は関が原で西軍に与して敗れ、死罪は免れたものの八丈島へ流刑になり、豪姫とは生き別れに。それにしても八丈島で長生きした秀家や豪姫の息子たちの子孫のために、秀家の命乞いをして流刑に減刑してもらったとはいえ、豪姫の実家の前田家が280年もお米などの物資を送り続けたことには感心させられます。今と違って昔の親戚の絆ってすごい。

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安土桃山時代日本史歴史江戸時代

夫・宇喜多秀家と生き別れた悲劇の「豪姫」を歴女が徹底わかりやすく解説

今回は豪姫を取り上げるぞ。秀吉の養女で宇喜多秀家と結婚したんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国女性には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、豪姫について5分でわかるようにまとめた。

1-1、豪姫は尾張の生まれ

豪姫(ごうひめ)は、天正2年(1574年)に尾張荒子(愛知県名古屋市)で誕生。父は前田利家で母はおまつ(後の芳春院)の4女。

豪姫は数え年2歳の頃、父の利家と親友の秀吉との約束で、秀吉とのちの北政所寧々との養女に。豪姫の母おまつと北政所寧々も大親友、子供のない秀吉夫妻に愛されて育てられたということ。

秀吉は、戦地からも「ごもじ」(名前の最初の「ご」にそもじのもじを付けた、親しい女性に対する呼び方)と呼びかけ、「けなげに候や」「はや飯をまいり候や」と、慈父そのものの内容の手紙だということ。豪姫は大人になるまで、秀吉と北政所寧々を実の親だと思っていたという話もあるほど。

Maeda Toshiie.jpg
不明投稿者自身による作品 (個人所蔵品), パブリック・ドメイン, リンクによる

豪姫実両親と養父母との関係は
豪姫の両親は前田利家と正室おまつ、前田利家は尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の4男で、幼名は犬千代。14歳で小姓として信長に仕え、又左衛門と名乗り赤母衣衆で「槍の又左」と呼ばれた槍の名人、一時信長の怒りを買って浪人したこともあったが、数年苦労の末に復帰。おまつは利家の従妹で数え11歳で利家と結婚、以後、2男9女を産むことに。

また、清洲城下に住んでいた頃、秀吉と北政所寧々夫妻と隣どうしの長屋で、垣根越しにおしゃべりしたり仲でかなり親しい付き合いをしていたということ。後年になっても、この親しい間柄は続き、おまつは利家の死後も北政所寧々をまたとないお人であるので、何事も北政所寧々に相談してその通りにせよと息子に言い聞かせたそう。

というわけで、利家と秀吉、まつと寧々は隣同士の信頼関係のある間柄で、片方には子供がなくもう一方は毎年のように子供が生まれていたとき、次は男女どちらでも養子にちょうだい、あげてもいいよ可愛がってねと、豪姫が生まれる前から約束していたということ。

1-2、豪姫、宇喜多秀家と結婚

豪姫は、天正16年(1588年)以前に秀吉の猶子となっていた、備前国(現岡山県)戦国大名で将来を嘱望されていた岡山城主宇喜多秀家と結婚。これは政略結婚だが、イケメンで秀吉のお気に入りの17歳の若武者ということで、15歳の豪姫にとって幸せな結婚だったはず。最初は備前御方と呼ばれ、文禄2年(1593年)に南御方と改称したそう。また両者の婚姻は天正14年(1586年)とする説もあって、ふたりの間には、秀高、秀継、理松院(山崎長卿、富田重家室)らが次々と生まれたということ。

秀吉は、文禄2年(1593年)、北政所寧々に宛てた手紙に「男にて候はゞ、関白を持たせ申すべきに(豪が男であれば、関白にしてやるのに)」とか「太閤秘蔵の子にて候まゝ、ねより上の官に致したく(わしの秘蔵っ子なので、おね殿よりさらに高い官位につけてやりたい)」と、豪姫について記しているということで、豪姫はなかなか賢い女性だったのでは。

また、秀吉は豪姫自身へも、朝鮮出兵のための九州から、「はやはや大いこく(明の事)いつれもゆるし候まゝ、八郎(秀家の事)も十月ころニハかいちん(凱陣)可申候、心やすく候へく候、めてたく御めにかゝろ候て可申候、かしく」と、心配無用という意味の手紙を書いて送っているそう。

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