比叡山の僧侶「最澄」
「最澄」は、近江の国分寺(国営の寺院)の僧侶でした。十九歳で受戒して正式な僧侶となると、比叡山に山林修行に入り、そこに一乗止観院という庵を建てて薬師如来を祀ります。この一乗止観院こそのちの「比叡山延暦寺」のもとになった仏堂です。
一乗止観院で修行していた最澄は桓武天皇の目にとまることとなり、宮中の仏事を司る「内供奉十禅師」のひとりに任命されました。もともと「内供奉十禅師」は南都六宗の僧侶たちが務めていましたから、そこから離れる第一歩だったのでしょう。
聖徳太子の時代から重視されていた「法華経」
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C8/9 brushwork – http://www.emuseum.jp/detail/100905, パブリック・ドメイン, リンクによる
昔、唐の天台山に智顗(ちぎ)という僧侶がいました。彼は仏教の経典のなかでも「法華経」を最高の経典とし、自分の心をみつめる瞑想によって人は仏になると説きます。智顗の「天台宗」は唐でも大きな宗派となっていました。
「法華経」には誰もがみんな菩薩であり、仏になることができると説かれています。この教えを「法華経」では「一乗」といいました。
一方、日本でも「法華経」は聖徳太子のころから鎮護国家の経典として重要視されていましたが、南都六宗には「法華経」を中心にする宗派はありませんでした。桓武天皇に見いだされた最澄は「法華経」をよりどころにしていましたから、南都六宗とは宗旨が違いますね。そういうところを含めて、桓武天皇は最澄を南都六宗の対抗としたのでしょう。最澄自身も対抗意識を持っていたようです。
天台宗を日本で開く
807年7月、最澄は桓武天皇から許しを得て、唐の天台山を目指して九州から出港しました。因果なことに、このとき同じ船には空海も一緒だったんですよ。だたし、ふたりに面識はほぼありません。最澄はすでに名声を得た僧侶でしたが、空海はまだ一介の留学僧にすぎず、今風に言うと国立大学の有名教授と一般高校生くらいの差がありました。
さて、天台山で本場の天台宗の教えを学び、一年後に帰国した最澄は比叡山に天台宗の総本山「延暦寺」を開きます。そうして、国家に天台宗が認められるよう働きかけながら、南都六宗とは違う方針を打ち出し始めたのです。
「具足戒」を捨てて、厳しい修行を
奈良時代、聖武天皇が病気になった際に一気に3800人もの僧尼が増えるということがありました。数が増えすぎると、当然、全体の質は落ちてしまいます。なかにはお経もろくに読めない僧尼もいたというから大変でした。あんまりにも簡単に僧尼になるのは困るということになり、朝廷は唐から「鑑真」を招いて僧侶になるための「授戒」という儀式を二段階にしたのです。
しかし、最澄は鑑真がもたらした二段目の「具足戒」を捨てると宣言します。最初に受ける「菩薩戒(大乗戒)」だけで良いとしたんですね。その代りに天台宗の僧侶は比叡山に十二年間こもって厳しい修行を受けるという革新的な方法をとります。
さらに「法華経」の「法華一乗」という思想は、他の経典の教えもすべては「法華経」に繋がっているというものでしたから、天台宗の僧侶は他のたくさんの経典を学ぶ必要があり、延暦寺は諸宗兼学の道場にもなりました。
3.空海の真言宗
803年に留学僧として唐に渡った空海は長安の青龍寺で密教の奥義を伝授され、密教の法具や曼荼羅、経典の書写を日本にたくさん持ち帰りました。青龍寺の師匠・恵果の遺志を受け、空海は日本に「密教」を伝えたのです。
その後に嵯峨天皇の支持を得た空海は高野山に真言密教の山岳道場をつくりました。これが現在に残る真言宗の総本山・高野山金剛峯寺です。また、空海の密教は「真言宗」といい、「真言」とは「真理をあらわす秘密」という意味でした。
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