長岡京遷都を任された藤原種継の暗殺事件
784年、桓武天皇は側近の藤原種継らに命じ、平城京から北へ40キロ行ったところにある山背国長岡(京都府向日市と長岡京市のあたり)の調査をさせて遷都しました。先述の「冗官整理の詔」で節約を促したのにもかかわらず、お金のかかる遷都をなぜ行ったのか、その詳しい理由はわかっていません。しかし、同時に『続日本紀』には平城京のお寺の移転についても書かれていませんでした。
ただ、この長岡京遷都は貴族や平城京のお寺勢力の反対が大きく、その不満は翌年に「藤原種継の暗殺」という悲しい結末を迎えることとなったのです。
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早良親王のたたり
早良親王は子どものころ、出家して東大寺の僧侶となっていましたが、父の光仁天皇が生前に還俗(僧侶をやめて普通の人に戻ること)させて皇太弟(次の天皇)としていたのです。しかし、「藤原種継暗殺事件」には東大寺に関わる役人も複数いたことから、昔所属していたよしみもあり、早良親王は事件への関与を疑われて流罪となってしまいます。
このひどい仕打ちに、早良親王は護送中に食事を断って自死してしまいました。しかし、早良親王の異様な死からしばらくしてから、桓武天皇の皇子や母親、妃など身近な人々が次々と病死し、さらに都に大雨や洪水といった災害に疫病の流行と悪い事が立て続けに起こったのです。人々は早良親王の御霊がたたっているのだと恐れました。
桓武天皇は早良親王のたたりを鎮めようと法会を行いましたが、どんな法会も効果を上げられなかったのです。それで結局、長岡京を捨てて平安京へ遷都することになりました。このとき、長岡京のときと同じように、桓武天皇は平安京にも奈良の寺院勢力を移転させなかったのです。
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御霊信仰のはじまり
早良親王のたたりが広く信じられたことから、平安時代には個人の霊、特に身分の高い人の霊は「御霊(ごりょう)」と呼ばれて恐れられるようになります。
800年に桓武天皇は早良親王へ「崇道(すどう)天皇」というおくり名を贈り、さらに淡路に早良親王の御霊を慰めるために寺院をつくりました。けれど、災いは治まらず、「御霊会」と呼ばれる鎮魂の儀式は人々の不安に乗って国中に広がっていったのです。
また、早良親王の他にも伊予親王や橘逸勢(たちばなのはやなり)など、謀反を疑いか罪を着せられて亡くなった六人を合わせて祀る御霊会が京都の神泉苑で行われています。
2.最澄の開いた天台宗
「平安仏教」と聞くと平安時代にできた仏教すべてを指すように思えますが、具体的には平安時代に興隆した「天台宗」と「真言宗」の「平安二宗」を指します。
それに対して、奈良の仏教は「三論宗」「成実宗」「法相宗」「倶舎宗」「華厳宗」「律宗」の六つを合わせた「南都六宗」、あるいは「奈良仏教」といいました。
前章で述べた通り、道鏡の台頭などで南都六宗の朝廷への干渉や専横の問題が出たことから、桓武天皇は遷都を決意したのです。しかし、長岡京遷都が思う通りにいかず、新たに平安京を京都の地に開いたのでした。
せっかく南都六宗から距離をとったのですから、新しい都でまた仏教界の中心に南都六宗を置いては元も子もありません。南都六宗に対抗できる新しい仏教が必要となった朝廷は僧侶を大陸の大国「唐」へ派遣して新たな宗派を持ち帰らせたのです。そうして開かれたのが比叡山の「天台宗」と高野山の「真言宗」でした。
この二つの仏教は「密教」と呼ばれるもので、山の寺院にこもって修行することで悟りを目指すというものでした。
この章では「最澄(さいちょう)」の「天台宗」について解説していきます。
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