奈良の都から京都へと遷都して、歴史は平安時代に移った。ところで、この遷都には当時の宗教事情が関わってくるのを知っているか?現代だと「政教分離」の原則があるから、想像しにくいかもしれませんね。

今回はその宗教事情を契機にして平安時代に起こったふたつの宗教を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.奈良から京都へ逃げるように遷都

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奈良時代から平安時代へと移り変わったのは今から1200年前の794年。語呂合わせだと「鳴(7)く(9)よ(4)ウグイス平安京」ですね。

孝謙上皇と道鏡の出世

奈良時代の終わり近く、孝謙上皇は病気を祈祷で治した「道鏡」という僧侶を寵愛していました。道鏡は孝謙上皇に信頼されたのをいいことに、僧侶にもかかわらず「太政大臣禅師」という朝廷最高の役職に任じられて政治家になってしまうんですね。さらに翌年には日本仏教の最高指導者「法王」にもなります。

最高の地位を手に入れた道鏡は自分の一族や腹心の僧侶たちを次々と役人に登用して勢力を拡大する、というこれまでの蘇我氏や藤原氏と同じ道を辿りました。

日本史上最も異様な「宇佐八幡宮信託事件」

しかし、これは日本史上異様な事件の幕開けだったのです。

孝謙上皇に子どもはなく、また、皇位継承権者たちは先の「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」で亡くなったり追放されたりして、皇太子になれる親王がいなくなってしまいました。

他に皇族がいないわけではありませんが、さて、どうしたものか。奈良時代の歴史書『続日本紀』によると、八幡神社の神官が道鏡に媚びて「道鏡が皇位につけば天下は泰平になる」と八幡神のお告げを偽ったとされています。真偽を確認するために派遣された和気清麻呂は、これを虚偽のお告げだとして報告したため、道鏡が天皇になることはありませんでした。

皇族以外が天皇になろうとした事件は日本史上これだけです。この異様な事件を「宇佐八幡宮信託事件」、あるいは「道鏡事件」といいます。

光仁天皇と桓武天皇の改革

孝謙上皇崩御のあと、道鏡は捉えられて下野薬師寺(栃木県下野市)の別当として都から追い出されました。「別当」とは責任者のことですから、犯罪者として追放されたわけではないんですね。

そして、朝廷に残された人々にとってはここからが踏ん張りどころでした。生前の孝謙上皇は自らも出家して尼僧になり、仏教を重視した政策をとっていましたから、まずはここにメスを入れていかなければなりません。

新しく即位した光仁天皇はさかんに行われていた法会をとりやめたりと仏教を少し遠ざけることにしました。ただし、遠ざけたからといって仏教を蔑ろにしたわけではありません。仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想はやはり尊重していましたから、これは第二、第三の道鏡を出現させないための策だったのです。

その方針は息子の桓武天皇にも受け継がれ、国庫の節約を促した「冗官整理の詔」によって寺院の造営を廃止しました。

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長岡京遷都を任された藤原種継の暗殺事件

784年、桓武天皇は側近の藤原種継らに命じ、平城京から北へ40キロ行ったところにある山背国長岡(京都府向日市と長岡京市のあたり)の調査をさせて遷都しました。先述の「冗官整理の詔」で節約を促したのにもかかわらず、お金のかかる遷都をなぜ行ったのか、その詳しい理由はわかっていません。しかし、同時に『続日本紀』には平城京のお寺の移転についても書かれていませんでした。

ただ、この長岡京遷都は貴族や平城京のお寺勢力の反対が大きく、その不満は翌年に「藤原種継の暗殺」という悲しい結末を迎えることとなったのです。

早良親王のたたり

早良親王は子どものころ、出家して東大寺の僧侶となっていましたが、父の光仁天皇が生前に還俗(僧侶をやめて普通の人に戻ること)させて皇太弟(次の天皇)としていたのです。しかし、「藤原種継暗殺事件」には東大寺に関わる役人も複数いたことから、昔所属していたよしみもあり、早良親王は事件への関与を疑われて流罪となってしまいます。

このひどい仕打ちに、早良親王は護送中に食事を断って自死してしまいました。しかし、早良親王の異様な死からしばらくしてから、桓武天皇の皇子や母親、妃など身近な人々が次々と病死し、さらに都に大雨や洪水といった災害に疫病の流行と悪い事が立て続けに起こったのです。人々は早良親王の御霊がたたっているのだと恐れました。

桓武天皇は早良親王のたたりを鎮めようと法会を行いましたが、どんな法会も効果を上げられなかったのです。それで結局、長岡京を捨てて平安京へ遷都することになりました。このとき、長岡京のときと同じように、桓武天皇は平安京にも奈良の寺院勢力を移転させなかったのです。

御霊信仰のはじまり

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早良親王のたたりが広く信じられたことから、平安時代には個人の霊、特に身分の高い人の霊は「御霊(ごりょう)」と呼ばれて恐れられるようになります。

800年に桓武天皇は早良親王へ「崇道(すどう)天皇」というおくり名を贈り、さらに淡路に早良親王の御霊を慰めるために寺院をつくりました。けれど、災いは治まらず、「御霊会」と呼ばれる鎮魂の儀式は人々の不安に乗って国中に広がっていったのです。

また、早良親王の他にも伊予親王や橘逸勢(たちばなのはやなり)など、謀反を疑いか罪を着せられて亡くなった六人を合わせて祀る御霊会が京都の神泉苑で行われています。

2.最澄の開いた天台宗

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「平安仏教」と聞くと平安時代にできた仏教すべてを指すように思えますが、具体的には平安時代に興隆した「天台宗」と「真言宗」の「平安二宗」を指します。

それに対して、奈良の仏教は「三論宗」「成実宗」「法相宗」「倶舎宗」「華厳宗」「律宗」の六つを合わせた「南都六宗」、あるいは「奈良仏教」といいました。

前章で述べた通り、道鏡の台頭などで南都六宗の朝廷への干渉や専横の問題が出たことから、桓武天皇は遷都を決意したのです。しかし、長岡京遷都が思う通りにいかず、新たに平安京を京都の地に開いたのでした。

せっかく南都六宗から距離をとったのですから、新しい都でまた仏教界の中心に南都六宗を置いては元も子もありません。南都六宗に対抗できる新しい仏教が必要となった朝廷は僧侶を大陸の大国「唐」へ派遣して新たな宗派を持ち帰らせたのです。そうして開かれたのが比叡山の「天台宗」高野山の「真言宗」でした。

この二つの仏教は「密教」と呼ばれるもので、山の寺院にこもって修行することで悟りを目指すというものでした。

この章では「最澄(さいちょう)」の「天台宗」について解説していきます。

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比叡山の僧侶「最澄」

「最澄」は、近江の国分寺(国営の寺院)の僧侶でした。十九歳で受戒して正式な僧侶となると、比叡山に山林修行に入り、そこに一乗止観院という庵を建てて薬師如来を祀ります。この一乗止観院こそのちの「比叡山延暦寺」のもとになった仏堂です。

一乗止観院で修行していた最澄は桓武天皇の目にとまることとなり、宮中の仏事を司る「内供奉十禅師」のひとりに任命されました。もともと「内供奉十禅師」は南都六宗の僧侶たちが務めていましたから、そこから離れる第一歩だったのでしょう。

聖徳太子の時代から重視されていた「法華経」

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昔、唐の天台山に智顗(ちぎ)という僧侶がいました。彼は仏教の経典のなかでも「法華経」を最高の経典とし、自分の心をみつめる瞑想によって人は仏になると説きます。智顗の「天台宗」は唐でも大きな宗派となっていました。

「法華経」には誰もがみんな菩薩であり、仏になることができると説かれています。この教えを「法華経」では「一乗」といいました。

一方、日本でも「法華経」は聖徳太子のころから鎮護国家の経典として重要視されていましたが、南都六宗には「法華経」を中心にする宗派はありませんでした。桓武天皇に見いだされた最澄は「法華経」をよりどころにしていましたから、南都六宗とは宗旨が違いますね。そういうところを含めて、桓武天皇は最澄を南都六宗の対抗としたのでしょう。最澄自身も対抗意識を持っていたようです。

天台宗を日本で開く

807年7月、最澄は桓武天皇から許しを得て、唐の天台山を目指して九州から出港しました。因果なことに、このとき同じ船には空海も一緒だったんですよ。だたし、ふたりに面識はほぼありません。最澄はすでに名声を得た僧侶でしたが、空海はまだ一介の留学僧にすぎず、今風に言うと国立大学の有名教授と一般高校生くらいの差がありました。

さて、天台山で本場の天台宗の教えを学び、一年後に帰国した最澄は比叡山に天台宗の総本山「延暦寺」を開きます。そうして、国家に天台宗が認められるよう働きかけながら、南都六宗とは違う方針を打ち出し始めたのです。

「具足戒」を捨てて、厳しい修行を

奈良時代、聖武天皇が病気になった際に一気に3800人もの僧尼が増えるということがありました。数が増えすぎると、当然、全体の質は落ちてしまいます。なかにはお経もろくに読めない僧尼もいたというから大変でした。あんまりにも簡単に僧尼になるのは困るということになり、朝廷は唐から「鑑真」を招いて僧侶になるための「授戒」という儀式を二段階にしたのです。

しかし、最澄は鑑真がもたらした二段目の「具足戒」を捨てると宣言します。最初に受ける「菩薩戒(大乗戒)」だけで良いとしたんですね。その代りに天台宗の僧侶は比叡山に十二年間こもって厳しい修行を受けるという革新的な方法をとります。

さらに「法華経」の「法華一乗」という思想は、他の経典の教えもすべては「法華経」に繋がっているというものでしたから、天台宗の僧侶は他のたくさんの経典を学ぶ必要があり、延暦寺は諸宗兼学の道場にもなりました。

3.空海の真言宗

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803年に留学僧として唐に渡った空海は長安の青龍寺で密教の奥義を伝授され、密教の法具や曼荼羅、経典の書写を日本にたくさん持ち帰りました。青龍寺の師匠・恵果の遺志を受け、空海は日本に「密教」を伝えたのです。

その後に嵯峨天皇の支持を得た空海は高野山に真言密教の山岳道場をつくりました。これが現在に残る真言宗の総本山・高野山金剛峯寺です。また、空海の密教は「真言宗」といい、「真言」とは「真理をあらわす秘密」という意味でした。

\次のページで「仏教を「顕教」と「秘密教」に分ける」を解説!/

仏教を「顕教」と「秘密教」に分ける

空海は仏教を「顕教」と「密教」の二種類に分類しました。

「顕教」はお釈迦さまが衆生救済のために説き顕した教えで、これは経典を読めば誰にでもわかるとされています。反対に、「密教」は真理そのものの現れとされる大日如来が説いた秘密の教えです。この「秘密」は人智を越えたものごと(天候など)に作用する奥深い「神秘」のことを指し、段階を経て修行者に少しずつ公開されるというものでした。

また、「顕教」が何度も輪廻転生して長い時間をかけなければ悟りを開けないとされるのに対して、「密教」では生きたまま今世で悟りが開けるとしています。これは「即身成仏」といって、正しい学びと実践をすれば誰でも悟りを開けるという思想でした。あっ、別に生きたままミイラになるということじゃないですよ!

修行者が悟りに至るまで

仏教にはさまざまな宗派がありますが、ほとんどすべての宗派の最終的な目標は悟りを開くことでした。そうして輪廻転生という苦しみから解放されるのです。

空海の著した『十住心論』では、修行者の心が低い次元から高い次元に登っていく過程を10の段階に分けていました。

一番最初は、煩悩にまみれ、本能のままに生きている段階から始まります。そうして、修行を重ねることによって10段階目の「秘密荘厳心」に至る、つまり、真言密教の境地へ至り「即身成仏」がなされるのです。

鎮護国家の仏法へ

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現在でもお寺で加持祈祷をしてもらうことがありますよね。加持祈祷によってお坊さんに除災招福を祈ってもらうのです。真言宗では病魔退散や雨乞いなどさまざまな祈祷が行われていました。これを「修法」といいます。

嵯峨天皇の勅命により、空海は奈良の東大寺に修法を行う真言院を建て、京都の東寺を真言密教の道場として「教王護国寺」と改めました。さらには、宮中にも真言院をつくって修法を正月の行事とします。

仏教には国家を守護し、安定させる力があるとする「鎮護国家」の思想が信じられていた日本で、その鎮護国家の中心だった東大寺、そして、都の東寺と宮中に真言院が設立されたのです。これは朝廷が密教を新たに鎮護国家の仏法としたという、大きなニュースでした。

最澄と空海の交流

同じ時代に、同じく開祖として登場した最澄と空海。このふたりはよく比較されますね。似た境遇のふたりでしたから、交流もあったんですよ。

最澄の留学期間は一年と定められ、彼は天台宗を中心に学びましたが、同時に禅や密教についても勉強しています。しかし、密教の勉強は十分に時間が取れませんでした。そこで、最澄は帰国した空海に教えを乞い、弟子としての礼をとります。

しかし、その後に最澄の弟子の泰範を空海のもとに派遣すると、これが何度呼び戻しても比叡山に帰って来なくなり、終いには真言宗へと宗旨替えしてしまいました。さらに、経典の貸し借りに関する意見や、仏教観の相違によって10年におよんだ交流が終わりを迎えたのです。

ただし、天台宗も「天台密教」、あるいは「台密」といわれています。これは最澄の弟子・円仁と円珍が唐に行って密教を学び直し、天台宗に密教の要素を取り入れたからです。

日本仏教を改めた平安二宗

唐へ行き、新たな宗派をつくりあげた最澄と空海。ふたりが作った別々の宗派は桓武天皇の思惑通り奈良仏教に対抗する宗派となり、最終的に国家の護国鎮護を担う役割を持つようになりました。そして、皇族や貴族の仏教として栄えます。

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平安時代日本史歴史

奈良仏教から豹変「平安仏教(天台宗・真言宗)」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

奈良の都から京都へと遷都して、歴史は平安時代に移った。ところで、この遷都には当時の宗教事情が関わってくるのを知っているか?現代だと「政教分離」の原則があるから、想像しにくいかもしれませんね。

今回はその宗教事情を契機にして平安時代に起こったふたつの宗教を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.奈良から京都へ逃げるように遷都

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奈良時代から平安時代へと移り変わったのは今から1200年前の794年。語呂合わせだと「鳴(7)く(9)よ(4)ウグイス平安京」ですね。

孝謙上皇と道鏡の出世

奈良時代の終わり近く、孝謙上皇は病気を祈祷で治した「道鏡」という僧侶を寵愛していました。道鏡は孝謙上皇に信頼されたのをいいことに、僧侶にもかかわらず「太政大臣禅師」という朝廷最高の役職に任じられて政治家になってしまうんですね。さらに翌年には日本仏教の最高指導者「法王」にもなります。

最高の地位を手に入れた道鏡は自分の一族や腹心の僧侶たちを次々と役人に登用して勢力を拡大する、というこれまでの蘇我氏や藤原氏と同じ道を辿りました。

日本史上最も異様な「宇佐八幡宮信託事件」

しかし、これは日本史上異様な事件の幕開けだったのです。

孝謙上皇に子どもはなく、また、皇位継承権者たちは先の「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」で亡くなったり追放されたりして、皇太子になれる親王がいなくなってしまいました。

他に皇族がいないわけではありませんが、さて、どうしたものか。奈良時代の歴史書『続日本紀』によると、八幡神社の神官が道鏡に媚びて「道鏡が皇位につけば天下は泰平になる」と八幡神のお告げを偽ったとされています。真偽を確認するために派遣された和気清麻呂は、これを虚偽のお告げだとして報告したため、道鏡が天皇になることはありませんでした。

皇族以外が天皇になろうとした事件は日本史上これだけです。この異様な事件を「宇佐八幡宮信託事件」、あるいは「道鏡事件」といいます。

光仁天皇と桓武天皇の改革

孝謙上皇崩御のあと、道鏡は捉えられて下野薬師寺(栃木県下野市)の別当として都から追い出されました。「別当」とは責任者のことですから、犯罪者として追放されたわけではないんですね。

そして、朝廷に残された人々にとってはここからが踏ん張りどころでした。生前の孝謙上皇は自らも出家して尼僧になり、仏教を重視した政策をとっていましたから、まずはここにメスを入れていかなければなりません。

新しく即位した光仁天皇はさかんに行われていた法会をとりやめたりと仏教を少し遠ざけることにしました。ただし、遠ざけたからといって仏教を蔑ろにしたわけではありません。仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想はやはり尊重していましたから、これは第二、第三の道鏡を出現させないための策だったのです。

その方針は息子の桓武天皇にも受け継がれ、国庫の節約を促した「冗官整理の詔」によって寺院の造営を廃止しました。

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