日本史昭和歴史

日本が奇襲を仕掛けた太平洋戦争の初戦「真珠湾攻撃」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

真珠湾攻撃の開始

1941年11月26日、日本海軍機動部隊が択捉島へと集結。6隻の空母を主力にしてハワイに向けて出撃しました。アメリカに発見されないよう、通常では困難な北方航路を使ってハワイに向かいます。12月1日、天皇を含めた御前会議にてアメリカに宣戦布告することが決まりました。

さらにその翌日には、機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二○八」の電文が送られます。これはアメリカに情報が洩れないための暗号になっており、「ニイタカヤマノボレ」は台湾の日本領にある山の名前で「作戦決行」を意味する暗号として使われました。

「一二○八」とは「12月8日」、すなわち「12月8日に真珠湾攻撃の作戦を決行する」という意味になります。そして運命の日となる12月8日、機動部隊から攻撃隊は次々と発進していき、その2時間後に真珠湾攻撃が開始されたのです。ハワイの時間では、それは12月7日の朝のことでした。

奇襲成功

こうして始まった真珠湾攻撃、言い換えるならそれは日本による奇襲攻撃でしょう。攻撃隊が機動艦隊へ「トラ・トラ・トラ」の電文を送り、これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を暗号化したもので、つまり山本五十六の考えた奇襲作戦は見事成功したのです。

アメリカにとってこの奇襲は全くの想定外、日本軍の攻撃に真珠湾はたちまち混乱に陥ってしまい、2000人以上もの戦死者を出す惨事となりました。一方の日本は戦死者64名で主力の空母は6隻全て失っておらず、戦果として比較すれば日本の勝利は明らかでしょう。

さてその頃、ヨーロッパではドイツがイギリスに激しい攻撃を行っていました。アメリカの立場からすればイギリスの救援をするため参加したいところでしたが、それを行動に移さなかったのは、アメリカの世論は日本と真逆で戦争を望まない意見が多数だったためです。しかし、その世論は真珠湾攻撃をきっかけに一変することになります。

リメンバー・パールハーバー

image by PIXTA / 40778362

遅れた宣戦布告

アメリカからすれば、日本の真珠湾攻撃は奇襲ではなくだまし討ちに思えたに違いありません。本来戦争は宣戦布告を行ってから開戦するという暗黙の了解があり、それは残酷な戦争の中に存在するマナーのようなもので、もちろん日本もそれを破るつもりはありませんでした。

しかし、外交官の不手際によってアメリカの宣戦布告が遅れてしまったのです。日本の作戦では宣戦布告を行って30分後に真珠湾攻撃を開始するつもりが、結果的に宣戦布告がなされたのは真珠湾攻撃が始まった後、それも40分過ぎてからのタイミングになってしまいました。

つまり、真珠湾にいたアメリカの軍人達は戦争が始まったことすら知らない状態で総攻撃を受けたのです。非戦争を望むアメリカの世論が真珠湾攻撃をきっかけに一変した理由はそこにあり、卑怯なだまし討ちをした日本に対して徹底抗戦を望むようになりました。

士気が高まるアメリカ

「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に日本と戦うことを決意したアメリカ。例えそれが日本の同盟国・ドイツと戦うことになろうとも日本と戦う気持ちが高まります。太平洋戦争の結果は言うまでもないですが、思えばこの時点で日本はもう敗北が決まっていたのかもしれません。

山本五十六が奇襲を提案したのは、長期戦になればアメリカに勝利することは不可能なため。奇襲による先制攻撃でアメリカを戦意喪失させるのが元々の狙いでしたが、宣戦布告の遅れによってアメリカは戦意喪失するどころか逆に士気が高まってしまったのですからね。

真珠湾攻撃で膨大な被害を受けたアメリカ、ただ戦艦修理のための施設や補給施設はほとんど被害がなく、そのため航空機で攻撃された戦艦も修理して再び戦場に赴きます。また、空母に至ってはそもそも真珠湾にいなかったため、攻撃されることはありませんでした。そして、日本はこのアメリカの空母によって反撃されることになるのです

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