今日は真珠湾攻撃について勉強していきます。1941年、日本はアメリカとの間に太平洋戦争を引き起こし、その最初の戦いの舞台となったのがハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地だった。

その戦いは真珠湾攻撃と呼ばれており、ここで日本は奇襲をしかけて先制する。そのいきさつと戦争を流れを覚えるため、今回は真珠湾攻撃について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から真珠湾攻撃をわかりやすくまとめた。

アメリカとの関係悪化

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日中戦争でアメリカを怒らせた日本

日清戦争では清国に、日露戦争ではロシアに勝利した日本は、1937年には日中戦争で中国と戦います。開戦直後は日本が優勢でしたが戦争は思いのほか長引き、日本は戦争継続のために資源確保を図ろうとしました。そこで日本が目をつけたのがフランスの植民地であるフランス領インドシナ

この場所は豊富な資源地帯として知られており、またフランスはドイツとの戦いに敗れて降伏したため、そのタイミングを機に仏印進駐によってフランス領インドシナに日本軍を進駐させたのです。そしてさらなる資源を求めて南下する日本軍、ただその行動はアメリカを怒らせることになってしまいます。

目に余る行動をとった日本に対してアメリカは経済制裁を行うことを決定、石油を一切輸出しないと日本に通告しました。これは日本にとって非常事態、何しろ日本は石油の大半をアメリカから輸入していましたから、それができなくなると軍艦も飛行機も動かせなくなってしまうのです。

アメリカの経済制裁への対応

アメリカの経済制裁に対して日本の中では戦争を望む意見が多く挙がります。なぜなら、当時日本は外国との戦争に常に勝利していたため、国民も「アメリカがそんな対応をとってくるなら戦争でやっつけてしまえ!」と戦争に肯定的だったのが理由の一つでしょう。

また、冷静な意見としては「石油が不足した状態で戦争すれば勝ち目はない。石油がまだ残っている今のうちに戦争をするべき」との考えもありました。このように、日本ではアメリカとの戦争を望む声が多かったことから、政府もアメリカとの戦争を想定した準備に取りかかります。

もちろんまだ戦争になると決まったわけではなく、交渉によっては問題解決できるかもしれません。とは言え、戦争になる可能性がある以上日本に求められるのは必勝。日本海軍はアメリカと戦うことを想定して、その戦いに勝利するための作戦を練っていきました。

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アメリカとの戦争の決意

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山本五十六の作戦

仮に戦争が起こった場合、距離を考えるとアメリカはハワイから日本に攻めようとするはず。それなら日本海軍の潜水艦でアメリカの戦力を削いでおき、日本近海にて主力の戦艦を待機されておいて艦隊決戦で勝負すべき……これが日本の軍隊が考えた作戦でした。

実際、この作戦は日露戦争の日本海海戦でも成功しており、当時最強と謳われたロシア艦隊にも勝利した実績があります。しかし、連合艦隊司令長官の山本五十六はこれと全く違った作戦を考えていました。山本五十六の考えた作戦とは奇襲、開戦と同時にハワイを攻撃すべきというものです。

山本五十六はアメリカの強さを充分承知。戦争が日中戦争のように長期化すれば日本に到底勝ち目はなく、勝利するには奇襲による短期決戦しかないと考えました。奇襲を仕掛けてアメリカの主力艦隊を撃破させ、アメリカに戦意喪失を起こさせることが唯一の勝利への道だと確信していたのです。

交渉決裂

山本五十六の作戦は採用され、早速日本は真珠湾攻撃に向けた準備や訓練を進めていきます。そんな折、第三次近衛内閣の首相・近衛文麿は悪化したアメリカとの関係修復を図るための交渉を行おうとしますが、ただこれがなかなか上手くいきません。

アメリカの大統領、ルーズベルトと直接交渉を求めるものの叶わず、一向に進展のない状況が続いたことで近衛内閣は崩壊。陸軍大臣を務めた東條英機が次期内閣を作り、引き続きアメリカとの交渉に臨みます。しかしアメリカは自らの主張を一向に譲らず、日本に対してハルノートと呼ばれる条件を突きつけました。

ハルノートの条件とは「日本の中国からの全面撤退」、「日独伊三国同盟の破棄」、「満州国の解体」の3つ。当時アメリカの国務長官の名前がコーデル・ハルだったことから、これらを要求した通牒をハルノートと呼びます。どれも日本にとって受け入れがたい条件、交渉決裂となったことでいよいよ日本はアメリカとの戦争を決意しました。

太平洋戦争の始まり

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\次のページで「真珠湾攻撃の開始」を解説!/

真珠湾攻撃の開始

1941年11月26日、日本海軍機動部隊が択捉島へと集結。6隻の空母を主力にしてハワイに向けて出撃しました。アメリカに発見されないよう、通常では困難な北方航路を使ってハワイに向かいます。12月1日、天皇を含めた御前会議にてアメリカに宣戦布告することが決まりました。

さらにその翌日には、機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二○八」の電文が送られます。これはアメリカに情報が洩れないための暗号になっており、「ニイタカヤマノボレ」は台湾の日本領にある山の名前で「作戦決行」を意味する暗号として使われました。

「一二○八」とは「12月8日」、すなわち「12月8日に真珠湾攻撃の作戦を決行する」という意味になります。そして運命の日となる12月8日、機動部隊から攻撃隊は次々と発進していき、その2時間後に真珠湾攻撃が開始されたのです。ハワイの時間では、それは12月7日の朝のことでした。

奇襲成功

こうして始まった真珠湾攻撃、言い換えるならそれは日本による奇襲攻撃でしょう。攻撃隊が機動艦隊へ「トラ・トラ・トラ」の電文を送り、これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を暗号化したもので、つまり山本五十六の考えた奇襲作戦は見事成功したのです。

アメリカにとってこの奇襲は全くの想定外、日本軍の攻撃に真珠湾はたちまち混乱に陥ってしまい、2000人以上もの戦死者を出す惨事となりました。一方の日本は戦死者64名で主力の空母は6隻全て失っておらず、戦果として比較すれば日本の勝利は明らかでしょう。

さてその頃、ヨーロッパではドイツがイギリスに激しい攻撃を行っていました。アメリカの立場からすればイギリスの救援をするため参加したいところでしたが、それを行動に移さなかったのは、アメリカの世論は日本と真逆で戦争を望まない意見が多数だったためです。しかし、その世論は真珠湾攻撃をきっかけに一変することになります。

リメンバー・パールハーバー

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遅れた宣戦布告

アメリカからすれば、日本の真珠湾攻撃は奇襲ではなくだまし討ちに思えたに違いありません。本来戦争は宣戦布告を行ってから開戦するという暗黙の了解があり、それは残酷な戦争の中に存在するマナーのようなもので、もちろん日本もそれを破るつもりはありませんでした。

しかし、外交官の不手際によってアメリカの宣戦布告が遅れてしまったのです。日本の作戦では宣戦布告を行って30分後に真珠湾攻撃を開始するつもりが、結果的に宣戦布告がなされたのは真珠湾攻撃が始まった後、それも40分過ぎてからのタイミングになってしまいました。

つまり、真珠湾にいたアメリカの軍人達は戦争が始まったことすら知らない状態で総攻撃を受けたのです。非戦争を望むアメリカの世論が真珠湾攻撃をきっかけに一変した理由はそこにあり、卑怯なだまし討ちをした日本に対して徹底抗戦を望むようになりました。

士気が高まるアメリカ

「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に日本と戦うことを決意したアメリカ。例えそれが日本の同盟国・ドイツと戦うことになろうとも日本と戦う気持ちが高まります。太平洋戦争の結果は言うまでもないですが、思えばこの時点で日本はもう敗北が決まっていたのかもしれません。

山本五十六が奇襲を提案したのは、長期戦になればアメリカに勝利することは不可能なため。奇襲による先制攻撃でアメリカを戦意喪失させるのが元々の狙いでしたが、宣戦布告の遅れによってアメリカは戦意喪失するどころか逆に士気が高まってしまったのですからね。

真珠湾攻撃で膨大な被害を受けたアメリカ、ただ戦艦修理のための施設や補給施設はほとんど被害がなく、そのため航空機で攻撃された戦艦も修理して再び戦場に赴きます。また、空母に至ってはそもそも真珠湾にいなかったため、攻撃されることはありませんでした。そして、日本はこのアメリカの空母によって反撃されることになるのです

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太平洋戦争の結末

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ミッドウェー海戦での報復

アメリカにとって真珠湾攻撃の報復となったのは、太平洋戦争の中で起こった1942年のミッドウェー海戦でしょう。日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊が戦い、その場所がハワイ北西のミッドウェー島付近だったため、その名が付けられました。

太平洋戦争が始まると、真珠湾攻撃による奇襲から日本は半年以上もの間、戦況を有利に進めます。しかし形勢逆転されてたちまち劣勢となり、敗北に進むきっかけとになったのがこのミッドウェー海戦、しかも撃墜されたのは真珠湾攻撃で活躍した主力の空母でした。

真珠湾攻撃の時にいなかったアメリカの空母が、真珠湾攻撃で活躍した日本の空母を撃墜……アメリカにとってそれは報復に値する士気の向上となったでしょう。この戦いで主力の空母を失った日本は攻勢に出ることができなくなり、守勢に転じて敗北を続けていくことになります。

日本の敗北

真珠湾攻撃に勝利したとは言え、あくまでそれは太平洋戦争の緒戦です。4年続いた太平洋戦争の中で日本はアメリカに形勢逆転され、やがて敗北が続くようになりました。とうとう日本の本土まで迫ったアメリカは、爆撃機の空襲によって日本を火の海へと変えていきます。

日本の敗北が決定的となった頃、1945年7月にドイツのポツダムにてポツダム宣言が出され、アメリカらは日本に対して無条件降伏を要求しました。日本政府がこれを黙殺するとアメリカは広島と長崎に原爆を投下、戦後に至っても語られるその忌まわしい爆発で50万人近くの死傷者が出る惨事となったのです。

ようやく日本政府はポツダム宣言を受け入れて降伏、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は日本の敗北に終わり、またポツダム宣言の受諾は日中戦争の敗北も意味することになりました。第二次世界大戦の中で最後まで行われて太平洋戦争、すなわち太平洋戦争の終わりは第二次世界大戦の終わりにもなったのです。

日本の作戦の理解が真珠湾攻撃の理解となる!

真珠湾攻撃のポイントは、日本の作戦です。長期戦が不利とみた山本五十六は奇襲を提案、それは短期決戦で決着をつけるためでした。奇襲でアメリカの戦意を奪い、講和に持ちこむのが日本の思惑でした。

ではなぜ長期戦は不利なのか?……それはアメリカの軍事力が日本のそれを上回っていたからでしょう。この点を理解しておかないと、そもそも日本が突如攻撃を仕掛けた理由すら分からないですからね。

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日本史昭和歴史

日本が奇襲を仕掛けた太平洋戦争の初戦「真珠湾攻撃」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は真珠湾攻撃について勉強していきます。1941年、日本はアメリカとの間に太平洋戦争を引き起こし、その最初の戦いの舞台となったのがハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地だった。

その戦いは真珠湾攻撃と呼ばれており、ここで日本は奇襲をしかけて先制する。そのいきさつと戦争を流れを覚えるため、今回は真珠湾攻撃について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から真珠湾攻撃をわかりやすくまとめた。

アメリカとの関係悪化

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日中戦争でアメリカを怒らせた日本

日清戦争では清国に、日露戦争ではロシアに勝利した日本は、1937年には日中戦争で中国と戦います。開戦直後は日本が優勢でしたが戦争は思いのほか長引き、日本は戦争継続のために資源確保を図ろうとしました。そこで日本が目をつけたのがフランスの植民地であるフランス領インドシナ

この場所は豊富な資源地帯として知られており、またフランスはドイツとの戦いに敗れて降伏したため、そのタイミングを機に仏印進駐によってフランス領インドシナに日本軍を進駐させたのです。そしてさらなる資源を求めて南下する日本軍、ただその行動はアメリカを怒らせることになってしまいます。

目に余る行動をとった日本に対してアメリカは経済制裁を行うことを決定、石油を一切輸出しないと日本に通告しました。これは日本にとって非常事態、何しろ日本は石油の大半をアメリカから輸入していましたから、それができなくなると軍艦も飛行機も動かせなくなってしまうのです。

アメリカの経済制裁への対応

アメリカの経済制裁に対して日本の中では戦争を望む意見が多く挙がります。なぜなら、当時日本は外国との戦争に常に勝利していたため、国民も「アメリカがそんな対応をとってくるなら戦争でやっつけてしまえ!」と戦争に肯定的だったのが理由の一つでしょう。

また、冷静な意見としては「石油が不足した状態で戦争すれば勝ち目はない。石油がまだ残っている今のうちに戦争をするべき」との考えもありました。このように、日本ではアメリカとの戦争を望む声が多かったことから、政府もアメリカとの戦争を想定した準備に取りかかります。

もちろんまだ戦争になると決まったわけではなく、交渉によっては問題解決できるかもしれません。とは言え、戦争になる可能性がある以上日本に求められるのは必勝。日本海軍はアメリカと戦うことを想定して、その戦いに勝利するための作戦を練っていきました。

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