今回はウェストファリア条約についてです。この条約は17世紀に起こった最大で最後の宗教戦争と呼ばれている三十年戦争が終結した後に締結されたもの。

しかしなぜ三十年戦争が起こったのか?またウェストファリア条約はどんな条約だったのかを歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

歴史が大好きなアラサー女子。特にハプスブルク家に関する歴史関連書を愛読中!そこで今回はオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家が戦争に参戦した三十年戦争やウェストファリア条約について解説していく。

1 ウェストファリア条約のきっかけとなった三十年戦争とは?

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オーストリア・ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝マティアスによって引き起こされた三十年戦争。マティアスとは兄ルドルフ2世から皇帝の座を奪い、更に兄を幽閉して皇帝に就いた人物。かなりの野心家だったことが伺えますね。しかしなぜマティアスは三十年戦争を引き起こしたのでしょうか。そのきっかけを詳しく見ていきましょう。

1-1 三十年戦争のきっかけ

Defenestration-prague-1618.jpg
Johann Philipp Abelinus, パブリック・ドメイン, リンクによる

さて、三十年戦争が起こったきっかけは一体何だったのでしょうか。それは神聖ローマ皇帝のマティアスがボヘミアにカトリックの国王を任命しようとしたため。これに反発したボヘミアのプロテスタントたちが反乱を起こしたことから宗教戦争へ発展することに。この反乱の最中で有名な事件はプラハ窓外放出事件。これは神聖ローマ皇帝の代わりにカトリックの者を国王に立てようとしたため、反発したプロテスタントたちがこの皇帝の代行者を窓から突き落としたというものでした。こうしてボヘミアの反乱が次第に拡大していくことに。

1-2 ボヘミア・プファルツ戦争

当初マティアスは内戦となることを恐れて対応をこまねいていました。そしてボヘミアの反乱を収束させるめどがつかない中、マティアスは死去。こうして次の皇帝となったのがフェルディナント2世。彼はマティアスと違い、プロテスタントらと刃を交えることを厭いませんでした。

一方プロテスタント側も対立姿勢を見せることに。彼らはフェルディナントを廃位宣告し、自分たちで皇帝を立てることに。ちなみにこの時に担ぎ出されたのは、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世。更に「ボヘミア連合」を組織してフェルディナントと戦うことに。しかしプロテスタント側は内部分裂や外部からの援助をうまく得ることができず苦戦。フェルディナントはカトリック勢力、スペインから援助を受けることができたため、戦いを優勢に進めることができました。ビーラー・ホラの戦いでカトリック側が大勝したことでこの戦争は終わりを迎えました。新皇帝に担がれたフリードリヒ5世は廃位され、廃位を宣告されたフェルディナントは復位を果たすことに。そして反乱の首謀者27名を処刑しました。

2 三十年戦争の経過

三十年戦争は当初は神聖ローマ帝国内の内紛でした。ところが次第に各国が参戦して大きな戦争となることに。ちなみにこの戦争の間は大まかに4つに分けることができ(ボヘミア・プファルツ戦争、デンマーク・ニーダーザクセン戦争、スウェーデン戦争、フランス・スウェーデン戦争)、大きな戦争が13も起こった上、それに対する和平が10も結ばれる事態となることに。それではボヘミア・プファルツ戦争後に起こった三十年戦争の経緯を見ていきましょう。

2-1 デンマーク戦争

1625年から4年間の間の戦争はデンマーク戦争と呼ばれています。ボヘミア・プファルツ戦争に勝利したフェルディナントが更にカトリック勢力拡大を目指して北ドイツに侵攻したことからデンマーク戦争が始まることに。デンマーク王のクリスチャン4世はルター派のプロテスタント。北ドイツは多くのプロテスタントがいるため、彼らを保護することを目的にフェルディナントに戦いを挑みました。デンマークの裏にはハプスブルク家の勢力拡大を警戒するフランスとオランダがいたと言われています。フェルディナント側には傭兵隊長のヴァレンシュタインティリー率いる旧教徒同盟軍がデンマークを撃退。こうしてこの戦いもフェルディナントの勝利に終わりました。

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2-2 スウェーデン戦争

Battle of Lutzen.jpg
Carl Wahlbom - Swedish wikipedia, パブリック・ドメイン, リンクによる

デンマーク戦争において自信をつけたフェルディナントが1629年に出した復旧勅令によって事態は悪化の一途を辿ることに。この復旧勅令とはアウクスブルクの宗教和議の内容を反故にするもの。当然プロテスタントらは反発し、戦争が更に長期化する原因になりました。

宗派を超えてフェルディナントに撤回を求め、更にヴァレンシュタインの罷免までも求められることに。フェルディナントは後者の願いを聞き、ヴァレンシュタインを罷免。ところがこれで収束を図ることができませんでした。野心家のスウェーデン国王のグスタフ・アドルフがフランスの援助を受けて参戦したのです。こうしてプロテスタント勢は次々にカトリック側を圧倒。更にドイツのミュンヘンを陥落させました。ここで劣勢となったフェルディナントは再びヴァレンシュタインを起用することに。ヴァレンシュタインとスウェーデン軍は激しく戦い、ミュンヘンよりも更に北上した位置にあるリュッツェンでスウェーデン国王は命を落としました。この戦争ではプロテスタント側が勝利を収めましたが、国王を失ったプロテスタント側はうまくまとまることができずその後は敗戦することに。

2-3 皇帝に疑われたヴァレンシュタイン

スウェーデン軍が国王の死によって統制を失っている頃、フェルディナント側にも動きが。なんとヴァレンシュタインが皇帝に疑われることになったのです。ヴァレンシュタインは多くの財を築いており、更にフェルディナントを無視して勝手にプロテスタント側に和平交渉を持ちかけることに。ところがこれに対してプロテスタント側が不審がり、それがやがて皇帝の耳にも届くことに。こうしてフェルディナントは彼を処刑しました。

2-4 旧教フランス参戦

ひそかにカトリック国でありながらプロテスタント側を応援していたフランスのルイ13世と宰相リシュリュー。そしてついにフランスが表舞台へ登場することに。

ようやく長きにわたって繰り広げられた三十年戦争に終わりが見え始めた頃にフランスがスペインに対して宣戦布告。神聖ローマ皇帝側は1635年をプラハの講和を結ぶ直前のことでした。こうして戦いはブルボン家とハプスブルク家のヨーロッパの覇権をかけたものとなることに。

長い間戦っていた神聖ローマ皇帝側でしたが、長期間の戦争による疲弊が出てきました。こうして最後に参戦したフランスに敗戦を喫したことで三十年戦争が終結することに。

3 三十年戦争が終結

当初は神聖ローマ皇帝が支配するボヘミアでのプロテスタントの反乱がいつしか多くの国が次々と参戦し、宗教戦争が次第にヨーロッパの覇権をかけた戦争となりました。しかしようやく終戦を迎え、条約を結ぶために調整していくことに。それでは詳しく見ていきましょう。

3-1 合意するまで長い時間をかけたウェストファリア条約

Westfaelischer Friede in Muenster (Gerard Terborch 1648).jpg
ヘラルト・テル・ボルフ - www.geheugenvannederland.nl : Home : Info : Pic, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウェストファリア条約を結ぶまでには8年もの歳月が流れ、やっと締結することになりました。ちなみにその間も戦争が続き、被害は更に拡大していくことに。三十年戦争ではドイツが主に戦場となり、人口が1600万人から600万まで激減。これは戦争で亡くなっただけではなく、ペストが流行したためここまでの被害となったと言われています。

さて締結されたウェストファリア条約ですが、これはオーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝がフランスと結んだミュンスター条約とスウェーデンと結んだオスナブリュック条約の2つからなるもの。ちなみにスペインは講和会議に参加していたものの、フランスとの交渉がうまくいかなかったため、両者はウェストファリア条約が締結後も戦うことになりました

3-2 条約の内容

三十年戦争の後に結ばれることになったウェストファリア条約。さてその中身はどんなものだったのでしょうか。

簡単に見ていくと4つのことが決まった条約。まず1つ目が宗教の信仰に関するものです。この条約においてカトリック、ルター派、そして新たにカルヴァン派も認められることに。そして信仰が自由となり、個人がそれぞれの信仰をすることが認められることになりました。ちなみになぜこのような寛大な措置が取られることになったのかというと、宗教戦争の再発を防止するため。2つ目は皇帝の権利が制限されたことです。神聖ローマ帝国内の統治などに関する重要な案件は帝国議会にかけて承認を得ることが義務付けられることに。更に諸侯らに領邦主権が認められました。3つ目はスイスとオランダの独立が認められたこと。そして最後に戦勝国フランスにはアルザスが、スウェーデンには西ポンメルンが割譲されることになりました

\次のページで「3-3 ウェストファリア条約は神聖ローマ帝国の死亡診断書?」を解説!/

3-3 ウェストファリア条約は神聖ローマ帝国の死亡診断書?

ウェストファリア条約といえば、よく神聖ローマ帝国の死亡診断書と言われていますね。なぜそのように言われているのでしょうか。それは条約の内容に、ドイツ諸侯が領邦主権を確立があるため。その結果神聖ローマ皇帝は名ばかりのものと言われていました。ところが最近の研究では、実際はそうではないとする見方が一般的となるように。ウェストファリア条約後少なくとも100年間は神聖ローマ皇帝は機能していたことが研究結果で明らかになっているのです。

そしてこの条約の意義は、1カトリックとプロテスタントの勢力の均衡を図ったこと、2ドイツ国内で領邦国家が誕生したことで、中世の封建国家から主権国家へと確立されたことが挙げられています。

3-4 覇権を握ることになったフランスブルボン家

ウェストファリア条約を結んだ後もスペイン・ハプスブルク家と戦いを続けたフランス。そして最後にはスペインの敗北で終戦。この両者の間ではピレネー条約が結ばれることになりました。ちなみにこの条約によってフランスはスペインからスペイン王女、マリア・テレサを妃として手にすることに。

ハプスブルク家とのヨーロッパの覇権をかけて戦いに参戦したフランスのブルボン家。もともとはカトリックのプロテスタントの紛争からカトリック国でありながらプロテスタントに援助をしていたとはかなりの策士ですね。裏を返せばそこまでハプスブルク家を脅威に感じていたのかもしれません。しかしこの戦いが決定的となり、ゆっくりとハプスブルク家は傾いていくことに。そしてブルボン家は絶頂期に向かって驀進していきました。

多くの敵と立ち向かったハプスブルク家

当初は領土内の宗教紛争だったものが次第に各国が参戦することでいつしかヨーロッパの覇権をかけたものとなった三十年戦争。

オーストリア・ハプスブルク家は自領のプロテスタントらには勝利を収めましたが、国際戦争では覇権を握ることができずに敗北することに。代わりに最後まで戦況の様子を見ていたフランスブルボン家が勝利を収めることとなりました。

ウェストファリア条約では神聖ローマ皇帝の権力に制限が加えられたため、ハプスブルク家権力は弱体化することに。しかしこれまで言われていたウェストファリア条約は神聖ローマ帝国の死亡診断書というわけではなく、その後も神聖ローマ皇帝が君臨していたことが分かっています。

またウェストファリア条約の意義はこれまでのカトリックとプロテスタントの宗教対立を解決し勢力均衡を図り、これまでの中世封建国家から主権国家へと変化を遂げたことが挙げられるのです。

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ドイツヨーロッパの歴史世界史歴史神聖ローマ帝国

三十年戦争後に締結「ウェストファリア条約」の意義とは?ヨーロッパ史に詳しい歴女が5分でわかりやすく解説!

今回はウェストファリア条約についてです。この条約は17世紀に起こった最大で最後の宗教戦争と呼ばれている三十年戦争が終結した後に締結されたもの。

しかしなぜ三十年戦争が起こったのか?またウェストファリア条約はどんな条約だったのかを歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

歴史が大好きなアラサー女子。特にハプスブルク家に関する歴史関連書を愛読中!そこで今回はオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家が戦争に参戦した三十年戦争やウェストファリア条約について解説していく。

1 ウェストファリア条約のきっかけとなった三十年戦争とは?

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オーストリア・ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝マティアスによって引き起こされた三十年戦争。マティアスとは兄ルドルフ2世から皇帝の座を奪い、更に兄を幽閉して皇帝に就いた人物。かなりの野心家だったことが伺えますね。しかしなぜマティアスは三十年戦争を引き起こしたのでしょうか。そのきっかけを詳しく見ていきましょう。

1-1 三十年戦争のきっかけ

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Johann Philipp Abelinus, パブリック・ドメイン, リンクによる

さて、三十年戦争が起こったきっかけは一体何だったのでしょうか。それは神聖ローマ皇帝のマティアスがボヘミアにカトリックの国王を任命しようとしたため。これに反発したボヘミアのプロテスタントたちが反乱を起こしたことから宗教戦争へ発展することに。この反乱の最中で有名な事件はプラハ窓外放出事件。これは神聖ローマ皇帝の代わりにカトリックの者を国王に立てようとしたため、反発したプロテスタントたちがこの皇帝の代行者を窓から突き落としたというものでした。こうしてボヘミアの反乱が次第に拡大していくことに。

1-2 ボヘミア・プファルツ戦争

当初マティアスは内戦となることを恐れて対応をこまねいていました。そしてボヘミアの反乱を収束させるめどがつかない中、マティアスは死去。こうして次の皇帝となったのがフェルディナント2世。彼はマティアスと違い、プロテスタントらと刃を交えることを厭いませんでした。

一方プロテスタント側も対立姿勢を見せることに。彼らはフェルディナントを廃位宣告し、自分たちで皇帝を立てることに。ちなみにこの時に担ぎ出されたのは、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世。更に「ボヘミア連合」を組織してフェルディナントと戦うことに。しかしプロテスタント側は内部分裂や外部からの援助をうまく得ることができず苦戦。フェルディナントはカトリック勢力、スペインから援助を受けることができたため、戦いを優勢に進めることができました。ビーラー・ホラの戦いでカトリック側が大勝したことでこの戦争は終わりを迎えました。新皇帝に担がれたフリードリヒ5世は廃位され、廃位を宣告されたフェルディナントは復位を果たすことに。そして反乱の首謀者27名を処刑しました。

2 三十年戦争の経過

三十年戦争は当初は神聖ローマ帝国内の内紛でした。ところが次第に各国が参戦して大きな戦争となることに。ちなみにこの戦争の間は大まかに4つに分けることができ(ボヘミア・プファルツ戦争、デンマーク・ニーダーザクセン戦争、スウェーデン戦争、フランス・スウェーデン戦争)、大きな戦争が13も起こった上、それに対する和平が10も結ばれる事態となることに。それではボヘミア・プファルツ戦争後に起こった三十年戦争の経緯を見ていきましょう。

2-1 デンマーク戦争

1625年から4年間の間の戦争はデンマーク戦争と呼ばれています。ボヘミア・プファルツ戦争に勝利したフェルディナントが更にカトリック勢力拡大を目指して北ドイツに侵攻したことからデンマーク戦争が始まることに。デンマーク王のクリスチャン4世はルター派のプロテスタント。北ドイツは多くのプロテスタントがいるため、彼らを保護することを目的にフェルディナントに戦いを挑みました。デンマークの裏にはハプスブルク家の勢力拡大を警戒するフランスとオランダがいたと言われています。フェルディナント側には傭兵隊長のヴァレンシュタインティリー率いる旧教徒同盟軍がデンマークを撃退。こうしてこの戦いもフェルディナントの勝利に終わりました。

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