室町時代から封じられ守護大名としての地位を座っていた諸将達から己の力で自身の支配地域を広げていき地位を確立し始めていったのが戦国時代です。戦国時代では力がものをいう時代であったため守護大名と戦っていたようです。中には家臣として仕えながらも主君に牙を向き主君の家や領土を自分のものにしていく下剋上を行い頭角を現す武将もいたな。

今回は下剋上の代名詞ともいえる斎藤道三を歴史マニアでもあり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

文献によって様々な名前がある斎藤道三の人物像を解説していく。

僧侶そして商人からの武士へ

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現在の知られる斎藤道三の人物像は江戸時代に書かれた文献よって確立されていったようです。

道三の出生

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生まれは1494年の明桜3年に畿内にある山城乙郡西岡で誕生したとされていますが、1504年に誕生したとする説もあるようです。道三の先祖達は上皇近辺警護を主に担っていたようで父だった松波左近将監基宗は事情によって牢獄に入れられていたようで道三の幼少期に関しては詳しい記録が残されておらずどのようにして育ったか不明とでした。

十一歳になった際に妙覚寺に入り僧侶として剃髪し法を守る誓いを立てていき僧名を法蓮房と名を決め僧の道へと進んでいきます。そして妙覚寺で修行を積んでいくと同じ弟子として妙覚寺に入門していた日護房が美濃国にある常在寺に住職になっていきました。

日護房が住職なったことで、道三は自身に僧は向いていないとおもったのか還俗して松波庄五郎へと名前を帰っていき油売りの商人をしていた奈良屋又兵衛の娘と婚姻していきます。奈良屋又兵衛とはどこで知り合ったかは定かではありませんが、僧として修行をしていた時に物の買い出しに行っていた時に出会っていたのかもしれません。

商人として名が知れ渡っていく

商人の娘と婚姻したことでゆくゆくは商人として生きていくことになった道三は、奈良屋又兵衛から油商人を学んでいき道行く人達に売っていきました。また道三が油を売り始めていくとたちまち繁盛していき民だけでなく大名にまで売れるようになっていきます。

どのようにして売れるようにしたかというと、現在でいう大道芸のような売り方をして売り上げを伸ばしていきました。その売り方はこの時代の貨幣だった寛永通宝銭の空いた穴に漏斗を使わずに油を通すことが出来るといい、お客を集め通せなかった場合は全て無料で見物客に上げるといいます。

そして見事穴に通し見物客を驚かせ、油を売っていきあっという間に油を空にさせていきました。どれだけ凄いかという寛永通宝銭の穴は直径で2.4センチメートルしか空いていないところに通し成功させていきます。奈良屋又兵衛はこれを聞いたことで大喜びし道三に山崎屋を継がせていきました。

武士から誘い

夫婦仲が悪くなかったとされていますが子供は出来なかったようです。店を継ぎ順調になってきたある日に土岐家に仕える者が道三の噂を聞きつけ油を買いに来ると、道三は寛永通宝銭の空いた穴に漏斗を使わずに油を通し喜ばれた後に商人であることが惜しいなといわれました。

それだけの技を持つならば弓矢で遠くの的を射ることも容易く、敵を討ち取ることも出来るであろうなといわれます。武士であれば戦場で活躍出来る力があるだろうといった後に堺の商人にも引けを取らない存在にもなり得るだとうといいその場から立ち去っていきました。

この言葉を受けた道三は突然、商人で生きる道を諦め武士として生きる道を選んでいきます。しかし武士になりたくとも仕える先が無ければ意味がなかったため、僧時代の同弟子だった常在寺住職の日護房にどこか仕える先はないかといい縁があった土岐氏小守護代の長井氏に頼み仕官していきました。

道三の秘めたる力

守護代に仕えた道三はここで信頼をされていていき頭角を現していきました。

\次のページで「名を改める」を解説!/

名を改める

武士になった同時期に名前を松波庄五郎から西村勘九郎正利へと変えていき長井氏の下で自身の力を発揮していきました。西村へと名を変えたのはその時期に仕えた直属の西村氏から名をいただき変更したと思われます。

武芸に関しては日々鍛錬をしていき弓矢の扱いから鉄砲の扱いまでしっかりと身に着けていくと同時に、頭の回転が早く物事を見極める力も持ち合わせていました。これによって土岐守護の次男だった土岐頼芸の信頼を勝ち取ります。頼芸は父政房から気に入られていて次男だったにも係わらず土岐氏の次期当主への後継ぎ候補となっていました。

長男だった頼武は政房により廃嫡される予定となり頼武は不満を持ち始め、土岐家中で内部分裂が発生していきます。関係が悪化していくと戦が始まる寸前となり頼芸には政房と長井氏が頼武には守護代だった斎藤氏が擁護する形となりました。

土岐頼芸へ力を貸していく

土岐氏は頼武と頼芸は争い永正14年の1517年に合戦が起きると、頼芸は敗北してしまい頼武が優勢になっていきましたが翌年の大永5年に再び兵を整えて頼武に戦を挑んでいきました。この戦いで頼芸が勝利すると頼武を越前国へと追放していきます。

しかし頼武は朝倉氏の助力を得て頼芸の居る美濃国へ侵攻してくると、頼芸は大敗を期してしまい土岐当主の座を頼武によって奪われることで決着がつきました。ところがこのままではいられなかった頼芸は、三回目の挙兵をし美濃守護代が拠点としていた福光館を制圧し頼武を越前国へ二度目の追放をしていきます。

これによって濃州太守になっていきましたが、頼芸の支持していた斎藤長弘と長井新左衛門尉が続いて亡くなりました。その後は道三を重用していき政権を強化していきます。

主君だった長井氏を謀略する

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美濃国全土に渡って戦火に包まれていましたが、土岐氏の基盤が安定したことで戦の数が減っていきました。頼武を越前国へと追放させるに至ったのは、道三が革手城を強襲したことがきっかけとなり頼芸のために大きく貢献していきこれを機に長井氏を1533年に謀略によって暗殺していき長井新九郎規秀と名乗ります。

1538年になると守護代だった斎藤氏が亡くなり道三は斎藤家を継ぎ、斎藤新九郎利政と名乗っていき1201年に築かれていた稲葉山城を新たに作り変えていきました。稲葉山城は改修され金華山山頂に後の岐阜城を建城していきます。

家臣から美濃守護へと成り上がる

長年仕えていた土岐氏の下で出世していくと、家臣で納まる器では無いと判断し土岐氏と対立していきます。

土岐氏と対立

1541年になると土岐氏と関係が悪化していき頼芸の弟だった土岐頼満を毒殺しようとしていき更に頼芸と対立する関係になっていきました。勢力に差があった道三は一時的に追い込まれていきましたが、1542年に頼芸に戦を仕掛けていき土岐氏の居城だった大桑城を攻め落とし頼芸と頼次を尾張国へ追放していきます。

尾張国へ追放されて頼芸親子は織田信秀の下に逃げ込み再起を図っていきました。土岐氏の跡を継ぐ形で美濃国へ支配していきましたが、織田氏と朝倉氏の支援を得た頼芸と頼純は連携し美濃国へ侵攻していきます。

頼芸は揖斐北方城に頼純は革手城へと復帰し道三と対立の溝を深めていき、土岐氏を支援していた信秀が五千から二万六千の大軍を率いて稲葉山城へと攻め込んでいきました。

織田・朝倉・土岐の国人衆から総攻撃を受ける

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織田・朝倉・土岐軍と道三が戦った戦を井ノ口の戦いとも加納口の戦いともいい、両軍で激しい戦いが行われました。この戦いの年号には二つ説があり記されている文献によって戦をした年に違いがあります。

信長公記では1544年に行われたと記されている一方で美濃国諸国日記では1547年となっていてどちらが正しいのかは未だに分かっておりません。また年だけでなく戦った内容までも違っていて1544年では信秀が尾張国の兵を招集し稲葉山城に攻め入り、城下を放火し町の入り口まで迫っていきました。

ところが信秀は突如として、率いてきた兵の半分を尾張国へと引き返していき五千兵から一万兵をそのまま配置させていきます。兵が減ったところを見逃さなかった道三は攻撃を仕掛けていき信秀の重臣を討ち取り織田軍を潰走させていきました。

美濃国諸国日記の加納口

美濃国諸国日記の加納口の戦いは信秀だけでなく朝倉孝景を呼応させて、稲葉山城を包囲していくと道三は和睦の申し入れを両軍に使者を遣って行われました。しかし信秀と孝景は逆心があるだろうと思っていたことで、この和睦を拒否し稲葉山城を更に圧迫させるために頼芸と頼純を大桑城から出陣するよう促していきます。

しかし兵の準備を整えていた大桑城に、道三は先手攻撃を仕掛け頼純を討ち取り頼芸は密かに脱出し朝倉領まで逃げていきました。この戦いで土岐氏は領土を失い土岐氏の領土は道三が収め、織田軍は二千五百から三千兵を失い道三と和睦を結んでいき孝景も織田氏と同じく和睦を結んでいきます。

\次のページで「戦国大名になり隠居していく」を解説!/

戦国大名になり隠居していく

織田家と和睦する頃には道三は五十代になっていて隠居を考える時期でもありました。

信秀の子だった信長に娘を嫁がせる

織田家との和睦をする際に自身の娘だった濃姫を信秀の子だった織田信長に嫁がせていきました。濃姫の母は幕府の奉行衆をしていた土岐氏一族の明智氏で明智光継の娘との間に儲けられた娘です。

商人をしていた時の奈良屋又兵衛の娘とは西村氏に仕えた頃に離縁していたとされ1532年に道三と婚姻していきました。既に信長の噂は道三の耳にも届いていましたが、隣国大名と何度も戦える力が無かったため条件として娘を差し出したと思われます。

信長の本質を垣間見る

濃姫と婚姻した後に道三と正徳寺で会見をすることになった信長。道三は信長がうつけ者だという情報は当然知っていてまともな服装をしておらず礼節なども欠けている人物だと思っていました。これを確かめるべく信長に会見の申し入れをしたようです。

そして会見の日となる天文22年の1553年に兵を八百ほど率いて正徳寺に到着。率いてきた者達の身なりは上品な恰好をしていてお堂縁に並ばせ信長の肝を抜かしてみせようと思っていました。

程なくして信長が正徳寺に到着すると、肝を抜かせるつもりが逆に肝を抜かされてしまった道三。信長は信秀の葬式で見せたような恰好で茶せんに、湯帷子に大刀や脇差そして瓢箪をいくつもぶら下げてきました。更に兵達の装備が整っており朱槍を五百本に鉄砲を五百挺を持たせてお堂を歩いていきます。

これによって道三は信長が他の大名とは違う異質な存在であることを思い知らされることになりました。

嫡男義龍の反抗

信長との会見が終わった後年1554年に道三は自身の引き際と感じ、家督を嫡男の義龍に引き継がせていきました。ところが道三は義龍のことをあまり評価しておらず無能な将であるといい、次男の斎藤孫四郎と三男斎藤喜平次を寵愛していて義龍を排除し二人のどちらかに斎藤家の当主にしようと考えていきます。

道三の行動に不信を抱いた義龍は弟達を排除するための計略を考えていきました。義龍は病を装い稲葉山城の奥の間で休んでいるところに呼び出し暗殺していきます。この時の二人は既にお酒によって酔わされていて何も出来ずに義龍重臣だった日根野弘就首をはねられてしまいました。

自身の存在を脅かす二人を始末したことで道三に対して挙兵していきます。

長良川の戦い

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道三と義龍は長良川で対峙していきました。しかし道三の兵力は二千五百ほどで義龍は一万七千と兵力に差が大きく生じており土岐氏が滅んだ後に道三に吸収される形で従っていた土岐旧臣団のほとんどが義龍側についていきます。

ここに来て大きく飛躍してきた道三でしたが、自身の悪行によって家臣達の信頼を損なっていました。1556年4月に長良川を渡ってきた義龍軍の攻撃によって戦が始まっていきます。

戦開始の頃は一騎討ちで勝利を収め幸先がよかった道三軍ではありましたが、兵力差が表れ義龍が道三の本陣まで迫っていきました。道三軍はほぼ壊滅状態となり義龍軍の長井忠左衛門道勝が生け捕りにすべく道三ともみ合っていきます。

\次のページで「戦国梟雄道三の最後」を解説!/

戦国梟雄道三の最後

道三と道勝がもみ合っていたところに幼少期から道三に仕えていた、馬廻りの小牧源太が二人もろ共斬り伏せようとしたところ道勝をかすめ道三の脛を斬った後に首を刎ねました。道勝は道三と戦った証として鼻を削ぎ落して懐に入れ持ち帰ったとされています。

道三が討たれたことで戦いは終りを向かえ義龍軍の勝利となりました。更に義龍は救援に来ていた織田軍に攻撃を仕掛けていき森可成隊と戦い勝利すると勢いついていきます。この時に信長は道三が討たれたことを知り全軍を退却させる指示をした後に織田家主君の信長が殿を行っていきました。

長良川で舟一艘で残っていると義龍軍が川端まで迫ってきたところに鉄砲を撃ちつけ、義龍軍は信長に恐怖を感じその場から退いていきます。これで追撃を断った信長は自力で尾張国まで戻っていきました。

首塚とその後の美濃国

道三の死は信長の居た尾張国まで影響していて岩倉織田家と勝幡織田家が、義龍の力を借りて信長と敵対していくも岩倉織田家の領地に攻め込み制圧していきます。勝幡織田家は信長の弟を擁していきました。

しかし義龍の当主時代は長く続かず道三の死から五年たった1561年に急死してしまい嫡男の斎藤龍興が後を継ぐも信長の猛攻に合い討死してしまいます。これによって美濃国は信長の手で制圧し養父の仇を取っていきました。

己一人の力で飛躍した道三

下剋上の代名詞として後世に名を広めていった道三でしたが、一介の名もなき平民から商人となり武士そして国人へと成長したことは道三が非凡の持ち主であることが分かりました。しかし成り上がり方に問題があったことは、当時に記されている書状から分かる通りで悪事に手を染めすぎていたように思えます。

少しでも家臣との協力し信頼関係を構築していけたなら、長良川で義龍側に多く回らずに勝利を掴めていたかも知れません。それでも首を刎ねられた後にさらし首となり、行き交う人の見世物となる予定でしたが小牧源太によって首が回収され長良川付近に手厚く埋葬されたようです。

悪事に働いていた道三ではあったものの一部の旧臣達には、慕われていた存在だったように思えました。

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室町時代戦国時代日本史歴史

下剋上大名として名を挙げた「斎藤道三」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説

室町時代から封じられ守護大名としての地位を座っていた諸将達から己の力で自身の支配地域を広げていき地位を確立し始めていったのが戦国時代です。戦国時代では力がものをいう時代であったため守護大名と戦っていたようです。中には家臣として仕えながらも主君に牙を向き主君の家や領土を自分のものにしていく下剋上を行い頭角を現す武将もいたな。

今回は下剋上の代名詞ともいえる斎藤道三を歴史マニアでもあり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

文献によって様々な名前がある斎藤道三の人物像を解説していく。

僧侶そして商人からの武士へ

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現在の知られる斎藤道三の人物像は江戸時代に書かれた文献よって確立されていったようです。

道三の出生

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生まれは1494年の明桜3年に畿内にある山城乙郡西岡で誕生したとされていますが、1504年に誕生したとする説もあるようです。道三の先祖達は上皇近辺警護を主に担っていたようで父だった松波左近将監基宗は事情によって牢獄に入れられていたようで道三の幼少期に関しては詳しい記録が残されておらずどのようにして育ったか不明とでした。

十一歳になった際に妙覚寺に入り僧侶として剃髪し法を守る誓いを立てていき僧名を法蓮房と名を決め僧の道へと進んでいきます。そして妙覚寺で修行を積んでいくと同じ弟子として妙覚寺に入門していた日護房が美濃国にある常在寺に住職になっていきました。

日護房が住職なったことで、道三は自身に僧は向いていないとおもったのか還俗して松波庄五郎へと名前を帰っていき油売りの商人をしていた奈良屋又兵衛の娘と婚姻していきます。奈良屋又兵衛とはどこで知り合ったかは定かではありませんが、僧として修行をしていた時に物の買い出しに行っていた時に出会っていたのかもしれません。

商人として名が知れ渡っていく

商人の娘と婚姻したことでゆくゆくは商人として生きていくことになった道三は、奈良屋又兵衛から油商人を学んでいき道行く人達に売っていきました。また道三が油を売り始めていくとたちまち繁盛していき民だけでなく大名にまで売れるようになっていきます。

どのようにして売れるようにしたかというと、現在でいう大道芸のような売り方をして売り上げを伸ばしていきました。その売り方はこの時代の貨幣だった寛永通宝銭の空いた穴に漏斗を使わずに油を通すことが出来るといい、お客を集め通せなかった場合は全て無料で見物客に上げるといいます。

そして見事穴に通し見物客を驚かせ、油を売っていきあっという間に油を空にさせていきました。どれだけ凄いかという寛永通宝銭の穴は直径で2.4センチメートルしか空いていないところに通し成功させていきます。奈良屋又兵衛はこれを聞いたことで大喜びし道三に山崎屋を継がせていきました。

武士から誘い

夫婦仲が悪くなかったとされていますが子供は出来なかったようです。店を継ぎ順調になってきたある日に土岐家に仕える者が道三の噂を聞きつけ油を買いに来ると、道三は寛永通宝銭の空いた穴に漏斗を使わずに油を通し喜ばれた後に商人であることが惜しいなといわれました。

それだけの技を持つならば弓矢で遠くの的を射ることも容易く、敵を討ち取ることも出来るであろうなといわれます。武士であれば戦場で活躍出来る力があるだろうといった後に堺の商人にも引けを取らない存在にもなり得るだとうといいその場から立ち去っていきました。

この言葉を受けた道三は突然、商人で生きる道を諦め武士として生きる道を選んでいきます。しかし武士になりたくとも仕える先が無ければ意味がなかったため、僧時代の同弟子だった常在寺住職の日護房にどこか仕える先はないかといい縁があった土岐氏小守護代の長井氏に頼み仕官していきました。

道三の秘めたる力

守護代に仕えた道三はここで信頼をされていていき頭角を現していきました。

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