今日は太宰治について勉強していきます。太宰治とは「走れメロス」や「人間失格」などで有名な日本の小説家ですが、全体的に作風は暗く、また小説家という点から堅い人物像を想像するでしょう。

しかしあくまでそれはイメージにしか過ぎず、イメージと現実には大きなギャップがあるものです。そこで、今回は太宰治の一生について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から太宰治の一生をわかりやすくまとめた。

誕生から高校進学まで

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それでは早速、太宰治の生涯を順にみていきましょう。

文学を好み、読書で育つ

一人黙々と小説を書いて過ごしていた姿が目に浮かぶ太宰治ですが、実は2度の結婚と2人の愛人を作った恋多きモテる男性です。これだけで堅いイメージが崩れたと感じる人もいるかもしれませんが、ここから彼の一生を振り返ってみるとしましょう。

太宰治の本名は島津修治、生まれは1909年6月19日に青森にて。祖父は青森で新興商人地主として成功をおさめ、それを継いだ父がその事業をさらに拡大、言わば太宰治はお金持ちの裕福な家に生まれました。そんな太宰治は幼い頃からすでに文学への興味を持ち、5歳の時点で文字を教わって読書を覚えます。

最も、これは太宰治の育った環境が関係しており、母は太宰治を産むと体調を壊してしまい、そのため母に代わって乳母が彼を育てていました。しかし、乳母は結婚が決まると家を出て、今度は伯母が彼を育てるようになります。その伯母の女中として島津家に入ったのが近村タケ、彼女は太宰治に道徳・文学を教えていたのです。

生活を一変させた芥川龍之介の自殺

小学校に入学すると秀才ぶりを発揮、勉強一筋ではなく明るい一面も持っていたようで、クラスの人気者となっていました。ただ、兄は中学校の勉強で苦労して落第、太宰治に同じ思いをさせてはならないと考えた父は、彼を中学入学前に高等小学校に入学させて学力向上を図ります。

このような事情から1年遅れて中学へと進んだ太宰治、小学校の同級生が先輩として振る舞う態度は彼にとって屈辱で、それをバネにして勉強に励んでいたようです。もちろん読書の趣味は健在、芥川龍之介などの難しい本も好んで読む太宰治は、この頃から小説家としての道を目指すようになりました。

成績優秀、小説家の夢……希望に満ちあふれた太宰治の将来でしたが、高校に進学すると思わぬ知らせを聞いたことで生活が一変。その知らせとは、尊敬すべき芥川龍之介の自殺でした。ショックのためか、太宰治はそれ以来勉強を完全に放棄、その一方で芸者や遊女と遊ぶ生活を送るようになってしまったのです。

太宰治の生活の変化

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芥川龍之介の自殺がきっかけで変化した太宰治の生活を見ていきましょう。

\次のページで「自殺未遂」を解説!/

自殺未遂

学業を放棄しても文学への興味は依然深く、当時の文学界で広まっていたプロレタリア文学に沿った作品を執筆して同人誌に掲載します。プロレタリア文学とは虐げられた労働者の厳しい現実を描いたもので、この時に発行した同人誌での縁で社会主義者と親しくなりました。

その影響で校内で左翼活動を始める太宰治。最も、この時代においては治安維持法によって過激な社会主義運動を取り締まっていましたから、太宰治が行っていた左翼活動はその対象になるでしょう。ともあれ、芸者遊びと小説の執筆の毎日が中心でしたが、高校3年の時に突然自殺未遂を起こします。

自殺を試みた理由にはいくつか説があり、「親がお金持ちの一方でプロレタリア文学の思想を持っている」、「学業放棄による成績低下」などの悩みが理由ではないかと言われていますね。一命を取りとめた太宰治は高校を卒業すると東京大学へと進学、学業放棄したとは言え、東京大学に合格したのはさすが秀才と言ったところでしょう。

小山初代との出会い

大学に進学してまず起こったことは、同人誌にこれまで連載してきた作品の中止です。太宰治は権力者・島津家の人間、しかし彼の作品は島津家を告白するものだとして、兄に止められてしまいました。また、左翼活動も内密に継続しており、左翼活動家とはすでに切っても切れない関係になっていたのでしょう。

同人誌での連載が止められたことは太宰治にとってショックでしたが、一方でかねてから計画していた小説家・井伏鱒二への訪問は実現。これは太宰治が「会ってくれないと死ぬ」と過激な手紙を送った効果であり、念願の井伏鱒二の門下生となる夢を果たし、小説家の夢に向けてまた一歩前進したのでした。

さてその頃、ある女性が太宰治の元へと向かっており、それがちょっとした騒ぎとなります。その女性の名前は小山初代。彼女は紅子の名前で芸者として働いており、彼女と出会った太宰治は「東京で一緒に暮らそう」と持ち掛け、そのため小山初代は店を逃げだして太宰治の元へと向かったのです。

再びの自殺未遂

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太宰治はここから2度目3度目の自殺を試みます。

絶縁への悲しみによる自殺未遂

太宰治は、自分のところにやってきた小山初代と同棲を始めます。その頃、兄は2つの事実を知らされました。1つは弟が小山初代と同棲していること、もう1つは弟が左翼活動を行っていること、特に問題だったのは後者……なぜなら左翼活動の禁止は父の代から散々言われてきたからです。

そこで兄は太宰治の元を訪れると、小山初代との結婚を許可する代わりとしていくつかの条件を出した契約書を提示しました。その中で、太宰治にとってショックだったのは「分家除籍を行う」と記されていたことで、それは島津家から外れるという絶縁を意味するものです。

彼は仕方なく契約書に署名しますが、絶縁された悲しみは計り知れず、いざ除籍の戸籍謄本を手にするとその悲しさをなお実感するのでした。絶望の淵に立たされた太宰治は、カフェのホステスでお金に悩んでいた田部シメ子とともに、再びの自殺を図ったのです。

大学を卒業できない悩みによる自殺未遂

2度目の自殺の試み、またしても太宰治は命を取りとめて田部シメ子だけが死亡しました。もちろん結婚を約束した小山初代にとってそれは不愉快な知らせであり、そのため太宰治は小山初代から散々な罵声を浴びせられ、事件の影響で県会議員を務めていた兄も謹慎することになったのです。

そして、太宰治が未だ関係を絶ち切れない左翼活動家、とうとう警察の捜査も迫ってきました。これは議員を務める兄にとっても大問題で、弟の違法行為が発覚すれば自らの政治生命も絶たれてしまいます。兄は生活費の援助の継続を条件に警察に出頭するよう太宰治に要求、援助なければ生活できなくなるため、兄に従うしかありませんでした。

こうして左翼活動家との関係を絶ち切った太宰治、一方で井伏鱒二の元での小説家活動には熱心に励みます。しかし、そうなると疎かになるのは学業、大学卒業を兄と約束していたもののそれを守るのはすでに難しく、生活費の援助が得られなくなることに悲観して3度目の自殺を図り、これもまた未遂に終わりました。

\次のページで「不倫された太宰治、不倫した太宰治」を解説!/

不倫された太宰治、不倫した太宰治

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太宰治4度目の自殺未遂のきっかけは、妻の不倫でした。

妻の不倫による4度目の自殺未遂

青森へ帰った太宰治は盲腸炎を起こして入院、鎮痛に使用した薬物への依存から薬物中毒になってしまいます。次第に異常な言動も目立つようになり、一時期は精神病院にも移されました。何とか薬物を断ち切った太宰治、とうとう小説家としての才能が開花する未来が訪れます。

昭和10年のこと、芥川龍之介の名を冠した新人賞となる芥川賞が制定されると、第一回最終候補に太宰治の「逆光」が残りました。嬉しさのあまり興奮するものの残念ながら落選、さらに翌年の芥川賞にも「晩年」が候補に挙げられますが、新人の枠に当てはまらないとして除外。

怒る太宰治に対して師・井伏鱒二は薬物治療を理由に彼を強制入院させました。入院中は妻の小山初代が見舞いに訪れていましたが、その過程で妻は不倫を行ってしまい、しかもその相手は小舘善四郎という太宰治にとっての義理の弟だったのです。これによって太宰治は4度目となる自殺を図りました

再婚によって立ち直った太宰治の不倫

4度目の自殺も未遂に終わった太宰治は小山初代と離婚、小説の出版をする一方で私生活はすさんでいきました。心配した井伏鱒二は太宰治の再婚を考え、その末に太宰治は高校教師を務める石原美知子と再婚、これをきっかけに彼は立ち直り、それは作風の変化としてもあらわれました。

「走れメロス」はその代表とも言え、人間の善意の心が描かれていますね。また作品の数も増えていき、小説家として完全に立ち直ることができました。しかし、ここで太宰治の女好きの悪い癖が出てしまい、不倫に走った末に子供まで生まれてしまいます

ちなみに、不倫相手である太田静子の日記を用いて太宰治が発表した作品があり、それが「斜陽」と呼ばれるヒット作です。また、不倫相手との間に産まれた子供は「治子」と名付けて認知、太田治子は現在日本の作家として活躍しています

人生の結末

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太宰治の人生はどのように幕を下ろしたのでしょうか。

\次のページで「2度目の離婚と2人目の愛人」を解説!/

2度目の離婚と2人目の愛人

1947年、太宰治の「斜陽」が発表されるとこれが大ヒット、「斜陽族」の言葉が誕生するほどの社会現象となりました。上記でも少し触れましたが、「斜陽」は太宰治が不倫相手の女性の日記から用いた作品です。しかし、不倫の報いだったのでしょうか……結核を患うようになった太宰治は入院してしまいます。

この時執筆した小説「人間失格」は遺書とも言われ、やがて妻と離婚してしまい、彼にとってはこれが2度目の離婚でした。そんな太宰治は再び愛人を作ります。それはちょうど「斜陽」を執筆していた頃に出会った女性で、つまり不倫しているさなかに別の女性とも出会ったのです。

愛人の女性の名前は山崎富栄、彼女は結婚していましたが、太平洋戦争で夫を亡くしていました。太宰治を心から愛した山崎富栄、しかし彼女の心は満たされず、なぜなら太宰治の愛情を感じられなかったからです。全てを捨てて太宰治を選んだ彼女にとって、それは不安と同時に許せないことだったのかもしれません。

本当に愛した女性の名は

1948年6月23日のこと、山崎富栄は太宰治の愛人・太田静子に向けて一通の手書きを書いて投函します。「私は彼が好きなので一緒に死にます」……手紙にはそう書かれており、その日の深夜に太宰治と山崎富栄は自殺を図って2人とも死亡しました

遺体が発見されたのは皮肉にも太宰治の誕生日。2人の女性と結婚して2人の女性を愛人にした太宰治、小説家としての才能は言うまでもないですが、気になるのは太宰治の本心……果たして彼は、本当は誰を愛していたのでしょうか。それとも誰も愛していなかったのでしょうか。

愛していたとすれば、それは最初に結婚した小山初代なのか、再婚した石原美知子なのか、1人目の愛人である太田静子なのか、2人目の愛人である山崎富栄なのか。時は流れて1998年、太宰治の遺族が当時彼が残した遺書の一部を公開、そこには「美知子様、誰よりもお前を愛していました」と書かれていました。

太宰治の人生を知ることから始めよう!

太宰治を覚えるには、まず彼の人生を辿ってみてください。要所を絞って覚えるのが基本の歴史にとって、その覚え方はいささか遠回りに思えるかもしれません。

しかし太宰治の人生は波乱万丈、また彼の作品はその時の心境に大きく影響されており、「走れメロス」や「人間失格」はまさにそのとおりでしょう。ですから、彼の人生を辿って太宰治という人間を知ることから始めてください。

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大正日本史昭和歴史

簡単にわかる「太宰治」の生涯!2度の結婚、2人の愛人、4度の自殺未遂を元塾講師がわかりやすく解説

今日は太宰治について勉強していきます。太宰治とは「走れメロス」や「人間失格」などで有名な日本の小説家ですが、全体的に作風は暗く、また小説家という点から堅い人物像を想像するでしょう。

しかしあくまでそれはイメージにしか過ぎず、イメージと現実には大きなギャップがあるものです。そこで、今回は太宰治の一生について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から太宰治の一生をわかりやすくまとめた。

誕生から高校進学まで

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それでは早速、太宰治の生涯を順にみていきましょう。

文学を好み、読書で育つ

一人黙々と小説を書いて過ごしていた姿が目に浮かぶ太宰治ですが、実は2度の結婚と2人の愛人を作った恋多きモテる男性です。これだけで堅いイメージが崩れたと感じる人もいるかもしれませんが、ここから彼の一生を振り返ってみるとしましょう。

太宰治の本名は島津修治、生まれは1909年6月19日に青森にて。祖父は青森で新興商人地主として成功をおさめ、それを継いだ父がその事業をさらに拡大、言わば太宰治はお金持ちの裕福な家に生まれました。そんな太宰治は幼い頃からすでに文学への興味を持ち、5歳の時点で文字を教わって読書を覚えます。

最も、これは太宰治の育った環境が関係しており、母は太宰治を産むと体調を壊してしまい、そのため母に代わって乳母が彼を育てていました。しかし、乳母は結婚が決まると家を出て、今度は伯母が彼を育てるようになります。その伯母の女中として島津家に入ったのが近村タケ、彼女は太宰治に道徳・文学を教えていたのです。

生活を一変させた芥川龍之介の自殺

小学校に入学すると秀才ぶりを発揮、勉強一筋ではなく明るい一面も持っていたようで、クラスの人気者となっていました。ただ、兄は中学校の勉強で苦労して落第、太宰治に同じ思いをさせてはならないと考えた父は、彼を中学入学前に高等小学校に入学させて学力向上を図ります。

このような事情から1年遅れて中学へと進んだ太宰治、小学校の同級生が先輩として振る舞う態度は彼にとって屈辱で、それをバネにして勉強に励んでいたようです。もちろん読書の趣味は健在、芥川龍之介などの難しい本も好んで読む太宰治は、この頃から小説家としての道を目指すようになりました。

成績優秀、小説家の夢……希望に満ちあふれた太宰治の将来でしたが、高校に進学すると思わぬ知らせを聞いたことで生活が一変。その知らせとは、尊敬すべき芥川龍之介の自殺でした。ショックのためか、太宰治はそれ以来勉強を完全に放棄、その一方で芸者や遊女と遊ぶ生活を送るようになってしまったのです。

太宰治の生活の変化

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芥川龍之介の自殺がきっかけで変化した太宰治の生活を見ていきましょう。

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