今日は太平洋戦争について勉強していきます。太平洋戦争とは、1941年に日本がアメリカ・イギリスなど連合国を相手に戦った戦争で、この戦争は第二次世界大戦にも含まれている。

最も、1941年は日本は日中戦争の真っ最中、そんな時期にアメリカやイギリスと戦争を起こしたのはなぜでしょうか。そこで今回は太平洋戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から太平洋戦争をわかりやすくまとめた。

日中戦争での日本の問題行動

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資源確保の企て

1937年に始まった日中戦争、開戦直後の日本はすさまじい勢いで中国攻略を進めていき、戦況は明らかに優勢でした。しかし中国の抵抗に日本は苦戦、戦争は長引いていき1940年になっても決着つかずの泥沼状態が続きます。長引く戦争で日本に資源不足の問題が発生、そこで日本は強引な手段を用いて資源の確保を企てました。

日本が目をつけたのはインドネシアやインドシナ半島、なぜならそこは資源地帯として名が知れていたからです。同じ1940年、フランスがドイツに降伏したため、日本はこれを機会にフランスの植民地であるフランス領インドシナに進駐しました。進駐とは、軍隊が他国の領土内に進軍して留まることを意味する言葉です。

こうして日本はインドシナ半島を支配下に置くことに成功、この一連の動きを仏印進駐と呼び、日本は日中戦争を続けるためさらに南へと侵攻していきます。それにしてもあまりにも目に余る日本の行動、これに対して強く批判したのがイギリスやアメリカやオランダなどの国でした。

日本を苦しめるアメリカの経済制裁

日本を批判した国々は協力して日本に対する経済制裁を実行、日本にとってこれが痛手だったのはアメリカが日本に石油を輸出しなくなってしまったことでしょう。と言うのも、当時日本は石油のほとんどをアメリカ頼りにしており、それが不可能となるともはや生活すら成り立たなくなってしまうからです。

困った日本はひとまずアメリカと話し合おうと考え、当時の首相だった近衛文麿は日本の昭和天皇とアメリカのルーズベルト大統領の会談を希望。話し合いによって経済制裁の解除を試みますがこれは失敗、それどころかアメリカは経済制裁を解除するための条件を突き付けてきました。

アメリカの要求した条件とは「1.日本の中国からの全面撤退」、「日独伊三国同盟の破棄」、「満州国の解体」の3つです。アメリカはこれらを文書で通知してきましたが、当時のアメリカ国務長官がコーデル・ハルという名前だったため、この文書はハルノートと呼ばれました。

アメリカ・イギリスとの戦争を決意した日本

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御前会議での決定

仮に現在アメリカが日本に対して何らかの条件を突き付けてきたとしたら、日本は慎重にそれを検討するでしょう。しかし当時の日本はそうではなく、「アメリカがこんな条件を突き付けてくるなら、戦争をしてアメリカを倒してしまえばいい!」と強気の意見が挙がりました。

何しろ、明治時代になってからの日本は外国との戦争で敗戦知らずの快進撃を続けており、日清戦争でも日露戦争でも勝利してきたのです。ですから、多くの国民や軍は戦争を主張、1940年12月の天皇を含めた御前会議にて、アメリカ・イギリスと戦争することが正式に決まります。

こうして開戦が決定、太平洋戦争の幕開けとなりました。現在でこそアメリカの強さを知る日本ですが、それは戦争に負けて初めて実感できたことで、負け知らずの当時の日本は例え相手がアメリカでも勝算があったのでしょう。最も、日本軍の中にはアメリカの強さを分かっている者もいました。

奇襲の作戦

「最初の1年や2年は暴れてみせますが、それ以降は保証しません」……これは連合艦隊艦長・山本五十六の言葉です。この言葉が意味するのは「アメリカは強い、奇襲を行わなければアメリカには勝てず、例え奇襲が成功しても最終的に勝利できるかは分からない」ということでしょう。

つまり勝利するためには奇襲が絶対条件、そこで海軍は作戦としてアメリカ海軍の太平洋における最大の海軍基地である真珠湾への攻撃を提案します。真珠湾を潰せばアメリカの重要拠点を制圧できますし、そうなればアメリカの戦意を低下させることになるかもしれません。

アメリカの戦意喪失が実現すれば、日本に有利な条件で講和を提案することもできますからね。誰もが納得したこの作戦は採用され、作戦実行のため日本の連合艦隊は真珠湾に向けて出撃します。後はアメリカに宣戦布告をするのみ、しかしここで大きな問題が起こってしまうのでした。

1941年 太平洋戦争の始まり

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最悪の開戦

殺戮と破壊を繰り返す戦争にも、最低限のマナーがあります。本来、戦争をする場合はまず相手の国に最後通知を送り、そして宣戦布告をして戦争を始めるのがマナーです。いきなり相手の国を攻撃するのは人の道に外れた行為、それはもう作戦とは呼べないものになってしまいます。

ですから、いくら奇襲とは言え、日本もこれに従ってアメリカに宣戦布告した後に真珠湾攻撃を行う手筈になっていました。しかし、日本の計画では「宣戦布告→30分経過→真珠湾攻撃」のはずが、駐米大使館が最後通知を送ることに手間取り、真珠湾攻撃の後に宣戦布告する形になってしまったのです。

「真珠湾攻撃→40分経過→宣戦布告」となったことは戦争におけるマナー違反。故意ではないもののアメリカを激しく怒らせてしまい、アメリカは「リメンバーパールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉として、日本と徹底的に戦うことを誓ったのでした。

日本優勢の中にたちこめる暗雲

1941年、こうして日本のマナー違反で始まった太平洋戦争。とは言え、真珠湾攻撃は奇襲としての成果は上げ、アメリカの戦艦を沈めることに成功しました。その意味では作戦成功、さらに日本はフィリピンやインドネシアやマレー半島へと侵攻して奇襲をかけた勢いに乗っていきます。

マレー沖海戦ではイギリスの艦隊を沈めた日本、シンガポールを含めた太平洋の重要拠点を次々と占領することに成功しました。まさに「最初の1年や2年は暴れてみせる」の山本五十六の言葉どおり、開戦直後は日本が有利に戦争を進めていったのです。

しかし、そもそも日本が奇襲をかけたのはアメリカの戦意低下が目的。その上で有利な条件を絡めた講和に持ちこむのが日本が描いた戦争の結末でした。そんな日本にとって計算外だったのは、アメリカが一向に講和に転じる姿勢を見せないこと……戦争の継続は日本に暗雲をもたらすことになります。

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日本敗戦の秒読み段階

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形勢逆転

日本優勢の戦況が変わったのは1942年6月のことです。日本はアメリカが支配下に置くミッドウェー島の占領を計画、そのため連合艦隊を向かわせますが、アメリカはそんな日本の動きを掴んでいました。今度はアメリカ軍の奇襲によって日本の戦闘機が撃墜され、太平洋での制空権をアメリカに奪われてしまいます。

さらに日本は8月のガタルカナル島の戦いでも敗北、次々と勃発する戦闘で日本の敗北が目立つようになってきました。1944年6月、日本を追い詰めたアメリカはサイパン島を標的にして上陸、配置されていた日本の守備隊を全滅させてサイパン島の占領に成功します。

ここは日本の主要都市に空爆可能なことから、日本にとっては絶対に死守しなければならない重要拠点。それを占領されて失ったため、政府として責任を取る意味で首相は辞任しました。日本の被害はそれだけに止まらず、今度はマリアナ沖海戦にて戦いの末に連合艦隊が敗北してしまいます。

日本の本土まで迫るアメリカ

こうなると日本の敗戦は濃厚、しかしアメリカはそれでも手を緩めない体制で攻撃を続けます。次にアメリカが狙ったのは日本に奪われたフィリピン奪還、レイテ沖海戦が勃発して日米の艦隊で戦闘が始まると、日本が誇る戦艦武蔵を沈められ、連合艦隊は壊滅となりました。

占領したフィリピンは奪還され、さらにアメリカ軍は硫黄島へと上陸、摺鉢山での戦いによって日本の陸軍は壊滅。最も、この戦いではアメリカ軍も多くの兵を犠牲にしており、摺鉢山での戦いはそれほどの激戦地でした。そして1945年の3月、とうとう日本の本土まで迫ったアメリカ軍が沖縄へと上陸します

10万人の兵を準備していたアメリカ軍に対して日本軍ができる術は特攻……既にその点から勝敗が分かるとおり日本軍は敗北、沖縄本島まで占領されてしまったのです。アメリカ軍は爆撃機・B29での空襲によって日本の本土を次々と炎上させ、国民や産業を壊滅状態にまで追い込みます。

太平洋戦争の結末

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\次のページで「原爆の被害と日本の降伏」を解説!/

原爆の被害と日本の降伏

1945年の7月、同盟国であるドイツが降伏した3か月後のことです。ドイツのポツダムにてポツダム宣言が出されると、そこには日本の無条件降伏に関わることが記されていました。簡単に言えば、ポツダム宣言とはアメリカ・イギリス・中国による日本に対する最終降伏要求です。

そして、ポツダム宣言には「降伏を受け入れないのであればさらに日本を攻撃する」とも記されていました。判断を迫られる政府でしたが結論は黙殺、そのためアメリカは原子爆弾……すなわち原爆を同年の8月6日に広島へと投下、さらに8月9日には長崎へと投下したのです。

50万人近くの死傷者を出した原爆の被害、とうとう政府は8月15日にポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏の要求を承諾しました。この降伏は日中戦争の降伏も認めることになり、9月2日にはアメリカにも降伏して日本はGHQ(連合国最高司令部)の占領下に置かれたのです。

補足・太平洋戦争と第二次世界大戦の違いとは

さて、太平洋戦争の解説を読む中で、「これは第二次世界大戦ではないのか?」と思った人も多いのではないでしょうか。そこで最後に太平洋戦争と第二次世界大戦の違いを解説しておきます。まず太平洋戦争ですが、これは1941年から1945年にかけて行われた「日本とアメリカを含む連合国との戦争」です。

一方、第二次世界大戦とは1939年から1945年にかけた行われた「日本・ドイツ・イタリアなどから構成された枢軸国とアメリカ・イギリスを中心とする連合国が、世界の多くの国を巻き込んで戦った戦争」になります。ポツダム宣言による日本の降伏で第二次世界大戦が終わったのは、たまたま日本が枢軸国の中で最後まで戦争を続けていたためです。

太平洋戦争とは第二次世界大戦におけるアジア太平洋での連合国と日本の戦争。要するに、太平洋戦争は第二次世界大戦の中で起こった戦争の一つという位置付けであり、第二次世界大戦の別の呼び方が太平洋戦争だと解釈する……つまり「第二次世界大戦=太平洋戦争」と解釈してしまうのは間違いです。

太平洋戦争と第二次世界大戦を区別できるようにしよう!

真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ポツダム宣言など太平洋戦争は覚えるポイントは多々ありますが、実は最も悩みやすいのは太平洋戦争と第二次世界大戦の区別だと思います。

原爆投下は第二次世界大戦の結末として扱われることが多く、そのため「じゃあ太平洋戦争とは何なのか?」となってしまうのです。このため、今回は最後に解説した補足が最も重要なポイントになるでしょう。

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日本史昭和歴史

第二次世界大戦との区別もわかりやすく解説!「太平洋戦争」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は太平洋戦争について勉強していきます。太平洋戦争とは、1941年に日本がアメリカ・イギリスなど連合国を相手に戦った戦争で、この戦争は第二次世界大戦にも含まれている。

最も、1941年は日本は日中戦争の真っ最中、そんな時期にアメリカやイギリスと戦争を起こしたのはなぜでしょうか。そこで今回は太平洋戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から太平洋戦争をわかりやすくまとめた。

日中戦争での日本の問題行動

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資源確保の企て

1937年に始まった日中戦争、開戦直後の日本はすさまじい勢いで中国攻略を進めていき、戦況は明らかに優勢でした。しかし中国の抵抗に日本は苦戦、戦争は長引いていき1940年になっても決着つかずの泥沼状態が続きます。長引く戦争で日本に資源不足の問題が発生、そこで日本は強引な手段を用いて資源の確保を企てました。

日本が目をつけたのはインドネシアやインドシナ半島、なぜならそこは資源地帯として名が知れていたからです。同じ1940年、フランスがドイツに降伏したため、日本はこれを機会にフランスの植民地であるフランス領インドシナに進駐しました。進駐とは、軍隊が他国の領土内に進軍して留まることを意味する言葉です。

こうして日本はインドシナ半島を支配下に置くことに成功、この一連の動きを仏印進駐と呼び、日本は日中戦争を続けるためさらに南へと侵攻していきます。それにしてもあまりにも目に余る日本の行動、これに対して強く批判したのがイギリスやアメリカやオランダなどの国でした。

日本を苦しめるアメリカの経済制裁

日本を批判した国々は協力して日本に対する経済制裁を実行、日本にとってこれが痛手だったのはアメリカが日本に石油を輸出しなくなってしまったことでしょう。と言うのも、当時日本は石油のほとんどをアメリカ頼りにしており、それが不可能となるともはや生活すら成り立たなくなってしまうからです。

困った日本はひとまずアメリカと話し合おうと考え、当時の首相だった近衛文麿は日本の昭和天皇とアメリカのルーズベルト大統領の会談を希望。話し合いによって経済制裁の解除を試みますがこれは失敗、それどころかアメリカは経済制裁を解除するための条件を突き付けてきました。

アメリカの要求した条件とは「1.日本の中国からの全面撤退」、「日独伊三国同盟の破棄」、「満州国の解体」の3つです。アメリカはこれらを文書で通知してきましたが、当時のアメリカ国務長官がコーデル・ハルという名前だったため、この文書はハルノートと呼ばれました。

アメリカ・イギリスとの戦争を決意した日本

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