後醍醐天皇、再びの倒幕計画
1331年、後醍醐天皇は再び倒幕計画を立てました。元弘の変とは後醍醐天皇を中心として起こった鎌倉幕府倒幕運動で、実際に鎌倉幕府が滅亡した1333年までの一連の戦いまでを含めています。つまり、後醍醐天皇は正中の変と元弘の変、二度の倒幕計画を立てた末に倒幕を実現したのです。
正中の変で倒幕に失敗した後醍醐天皇は、懲りることなく再び倒幕を計画。ただ正中の変の反省点を踏まえ、今度は武士よりも寺社の力に頼ろうと考え、息子の護良親王を天台宗のトップに立てると、自らも東大寺や興福寺などを回って倒幕への協力を要請していきました。
しかし、そんな後醍醐天皇の綿密な倒幕計画はまたしても内部密告によって幕府に洩れてしまいます。密告したのは吉田定房、後醍醐天皇の側近を務める人物でした。一度は穏便に済ませた幕府でしたが、二度目の倒幕計画発覚となると今度は厳しい処罰を行います。
隠岐島への流罪と脱出
正中の変にて島流しとなった日野資朝を斬首刑に、無罪となっていた日野俊基も捕えて処刑しました。そして後醍醐天皇も処罰の対象となりますが、それを察知して京都御所から逃亡した末に挙兵、楠木正成が後醍醐天皇に加勢して戦いますが敗北。後醍醐天皇は隠岐島へと流罪に処されてしまいました。
現役の天皇が島流しにされるという非常事態、天皇不在となったことでひとまず光厳天皇に皇位が移されます。これで二度目の倒幕計画となる元弘の変も収まった……ように思えました。しかし後醍醐天皇は島流しにされても倒幕を諦めておらず、姿を隠していた楠木正成も再び倒幕を掲げて戦場に現れます。
幕府にとって特に厄介だったのが楠木正成、元々彼は戦術に長けており、幕府と長期間戦い続けたことで幕府の武力低下を世に知らしめてしまったのです。そんな幕府の姿を見て「幕府は倒せる!」と呼応する倒幕派の人々、そして島流しにされた後醍醐天皇も自力で隠岐島を脱出したのでした。
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後醍醐天皇の挙兵とそれを支持した足利尊氏
隠岐島を脱出した後醍醐天皇は鳥取の船上山にて挙兵、本当の天皇は光厳天皇ではなく自分であると示すかのように、倒幕の綸旨(天皇の命令文書)を発して世間を倒幕のために動かします。もちろん幕府はそんな後醍醐天皇を捨て置けず、幕府もまた挙兵して後醍醐天皇の討伐を命じました。
戦場へと向かったのは足利尊氏だったことから、幕府も後醍醐天皇の挙兵を鎮圧させられると安堵したかもしれません。しかし足利尊氏は反旗を翻して後醍醐天皇を支持、そのまま京都で六波羅探題を滅ぼします。切り札が寝返ってしまったことは幕府にとって致命的な誤算だったでしょう。
さらに、関東で挙兵していた新田義貞が鎌倉に攻め入るとそのまま幕府を滅ぼしてしまい、こうしておよそ150年続いた鎌倉幕府の時代は終わりを告げたのです。それは1333年のことで、正中の変が起こるさらに前から倒幕を望んでいた後醍醐天皇はついにそれを実現させました。
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期待外れに終わった建武の新政
鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が始まります。平清盛の台頭をきっかけに始まりこれまで長く続いてきた武家政権、それが再び朝廷の天皇によって政治を行う時代が到来したのです。その意味でまさに待望の始まりとなった建武の新政でしたが、現実は厳しいものでした。
これまで政治を行っていなかったためか後醍醐天皇の政治能力はお世辞にも高いとは言えず、非現実的な政治政策を次々と打ち出して、たちまち人々の不満を高めてしまいます。見切りをつけたのか、倒幕で後醍醐天皇を味方した足利尊氏にも見放されてしまい、建武の新政はわずか3年ほどで終わりとなりました。
以後、足利尊氏が再び武家政権を築くものの後醍醐天皇はこれに納得できず、最終的には退位を認めない後醍醐天皇は自ら朝廷を作ってしまいます。その結果2つの朝廷と2人の天皇、何とも奇妙な状況が完成してしまい、時代は南北朝時代へと突入していくのでした。
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正中の変は鎌倉幕府滅亡につながる事件!
解説した流れから分かるとおり、正中の変は鎌倉幕府滅亡につながる事件です。正中の変が起こった原因は後醍醐天皇の幕府に対する不満、そして事件は未遂に終わったことから、正中の変自体は大した出来事ではありません。
しかし、正中の変が起きたために元弘の変が起こり、元弘の変の結末として鎌倉幕府が滅亡したのです。つまり正中の変は鎌倉幕府滅亡において重要な事件であり、何よりそのことを覚えておきましょう。