今日は正中の変(しょうちゅうのへん)について勉強していきます。日本の歴史の教科書の中には、大切な事件の割にあまり解説されていないものがあり、正中の変もその一つでしょう。

確かに正中の変は未遂に終わっているため大きな事件を言えないかもしれないが、鎌倉幕府滅亡に関係する点で大変重要です。そこで今回は正中の変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から正中の変をわかりやすくまとめた。

元寇の影響

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御恩と奉公の主従関係の崩壊

1185年に開いた鎌倉幕府は、ある事件をきっかけに多くの御家人から不満を抱かれることになりました。その事件とは元寇、1274年の文永の役と1281年の弘安の役、二度ものモンゴル帝国襲来となる元寇に勝利した日本でしたが、これが武士の主従関係を崩壊させることになったのです。

当時、日本は御恩と奉公で武士の主従関係を成立させており、家臣は主君のために奉公して働き、主君はその恩賞として家臣に領地を与えていました。元寇は外国との戦い、これが国内の戦いだったとすれば、勝者に敗者の領地を与えることで御恩と奉公が成り立つでしょう。

しかし、モンゴル帝国に勝利したところで新たな領地は得られず、そのため元寇では戦った御家人に恩賞を与えることができなかったのです。御家人からすれば、例えるなら命を懸けたタダ働きに等しく、それどころか戦争にかかった費用によってむしろ生活が圧迫されてしまいました。

不満の解消には至らなかった永仁の徳政令

こうして恩賞不足によって借金で苦しむ御家人、その不満と怒りの矛先は奉公しても御恩のなかった幕府に対して向けられます。最も、そんな御家人の心境を幕府も理解して警戒しました。そこで1297年、第9代執権・北条貞時は御家人を救済するために永仁の徳政令を打ち出します。

御家人が売り払った土地、質に入れた土地を買主から無償で取り戻せる永仁の徳政令。確かに、これで御家人の不満と怒りはある程度解消できたかもしれませんが、今度は土地を買った側やお金を貸した側となる商人からの不満が続出。商売する側からすれば、永仁の徳政令は理不尽極まりないと感じたのでしょう。

さらに、モンゴル帝国のさらなる襲来に備えるため北条一族は権力を集中させ、それもまた御家人の不満を招いたとされています。もはや日本の統治どころか御家人や商人の不満すら解消できない幕府、当然信頼も低下して衰退の道を辿っていくことになったのです。

倒幕を考えていた後醍醐天皇

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\次のページで「皇位継承の事実を知った後醍醐天皇の怒り」を解説!/

皇位継承の事実を知った後醍醐天皇の怒り

思えば、日本の政治はそもそも朝廷の天皇が中心となって行っていましたが、平清盛が武家政権を確立して以降、いつしか政治は武士が中心となって行われるようになりました。幕府が誕生すると武士の力はさらに強まり、朝廷の皇位継承にまで口を挟むほどの権限を手にしたのです。

1318年のこと、31歳の若さで即位した後醍醐天皇は将来自分の子孫への皇位継承を望みますが、父の遺言状によってそれが不可能なことを知らされます。後醍醐天皇には兄がいましたが、本来兄は遺児である皇太子・邦良親王への皇位継承を考えており、ただ邦良親王がまだ幼かったため、後醍醐天皇はその間の繋ぎ役としての存在だったのです。

要するに、邦良親王が元服して皇位につくまでの中継ぎ。しかも、そのことを幕府も承諾していたと聞かされた後醍醐天皇は幕府に対して怒ります。その頃からでしょうか……後醍醐天皇は密かに倒幕を目指すようになり、鎌倉幕府の衰退した現状は後醍醐天皇にとって絶好のチャンスとなったのです。

倒幕のチャンス到来

後醍醐天皇は政治に意欲を見せていました。例えば、かつて朝廷に存在した荘園の調査機関である記録所を再興しましたし、人々の意見にも耳を傾けました。また、悪徳商人の取り締まりも行っていましたから、自らが中心となって政治を行う日を望んでいたに違いありません。

しかし、そんな後醍醐天皇の前に立ちはだかっていたのが幕府です。皇位継承は大覚寺統と持明院統の両統迭立を原則とするなど、朝廷の問題……それも皇位継承まで関わってくる幕府。その権力は実質天皇を上回っており、後醍醐天皇は倒幕によって今一度朝廷に権力を取り戻すことを考えていたのでしょう。

後醍醐天皇は幕府の衰退をきっかけに、そんな秘めた倒幕の思いを実行に移そうとしました。後醍醐天皇によるこの倒幕計画、それが1324年の正中の変と呼ばれる事件で、正中という名は当時の元号が由来となっています。ただ、この計画は結果的に失敗に終わってしまうのでした。

1324年 正中の変

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密告で幕府に発覚した倒幕計画

1324年の正中の変、それはここから始まります。後醍醐天皇の側近である日野資朝日野俊基は、公家の宴の中で何やら密談をしていました。密談の内容は倒幕計画の相談で、まずは仲間を増やすため、幕府に不満を持つ武士らに声をかけて倒幕計画の協力者を集めます。

倒幕決行の予定日は1324年の9月23日、この日は北野神社の祭礼の日となっており、そのための警備によって幕府の本拠地・鎌倉の警備が手薄になるだろうと読んだからです。しかし、計画を実行する前にこのことが幕府に洩れてしまい、それは内部密告によるものでした。

密告した人物は土岐頼員、彼の妻は六波羅探題の役人の娘で、六波羅探題とは幕府が朝廷監視を目的に設置した機関です。つまり、倒幕計画の協力者の一人だった土岐頼員は妻が幕府とつながっており、その幕府を倒すと聞いたため計画実行前に密告したのでした。

穏便に対応した幕府

密告を受けて倒幕の計画を知った幕府は、日野資朝と日野俊基を捕えます。厳しい取り調べの末に日野資朝は佐渡へと流罪(島流しの刑)、ただ日野俊基は無罪となって謹慎しました。倒幕計画の発覚で側近が捕らえられた後醍醐天皇は、早速当時の執権・北条高時に対して釈明書を送ります。

最も、幕府もここは穏便に済ませようと考えていたのか、倒幕を計画した後醍醐天皇に対しては特に処分はなく、釈明書を受け入れるだけで事件を解決させました。この一連の事件、すなわち後醍醐天皇による倒幕計画の未遂事件こそ1324年の正中の変なのです。さて、この倒幕計画未遂事件はなぜ日本の歴史において重要なのでしょうか。

それはこの先の流れで解説していきますが、正中の変を終えてもなお後醍醐天皇は倒幕を諦めていなかったのです。近い将来に後醍醐天皇は再び倒幕を計画、それは元弘の変と呼ばれる倒幕運動で、とうとうその末に鎌倉幕府は滅亡することになるのでした。

\次のページで「1331年 元弘の変」を解説!/

1331年 元弘の変

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後醍醐天皇、再びの倒幕計画

1331年、後醍醐天皇は再び倒幕計画を立てました。元弘の変とは後醍醐天皇を中心として起こった鎌倉幕府倒幕運動で、実際に鎌倉幕府が滅亡した1333年までの一連の戦いまでを含めています。つまり、後醍醐天皇は正中の変と元弘の変、二度の倒幕計画を立てた末に倒幕を実現したのです。

正中の変で倒幕に失敗した後醍醐天皇は、懲りることなく再び倒幕を計画。ただ正中の変の反省点を踏まえ、今度は武士よりも寺社の力に頼ろうと考え、息子の護良親王を天台宗のトップに立てると、自らも東大寺や興福寺などを回って倒幕への協力を要請していきました。

しかし、そんな後醍醐天皇の綿密な倒幕計画はまたしても内部密告によって幕府に洩れてしまいます。密告したのは吉田定房、後醍醐天皇の側近を務める人物でした。一度は穏便に済ませた幕府でしたが、二度目の倒幕計画発覚となると今度は厳しい処罰を行います。

隠岐島への流罪と脱出

正中の変にて島流しとなった日野資朝を斬首刑に、無罪となっていた日野俊基も捕えて処刑しました。そして後醍醐天皇も処罰の対象となりますが、それを察知して京都御所から逃亡した末に挙兵、楠木正成が後醍醐天皇に加勢して戦いますが敗北。後醍醐天皇は隠岐島へと流罪に処されてしまいました。

現役の天皇が島流しにされるという非常事態、天皇不在となったことでひとまず光厳天皇に皇位が移されます。これで二度目の倒幕計画となる元弘の変も収まった……ように思えました。しかし後醍醐天皇は島流しにされても倒幕を諦めておらず、姿を隠していた楠木正成も再び倒幕を掲げて戦場に現れます。

幕府にとって特に厄介だったのが楠木正成、元々彼は戦術に長けており、幕府と長期間戦い続けたことで幕府の武力低下を世に知らしめてしまったのです。そんな幕府の姿を見て「幕府は倒せる!」と呼応する倒幕派の人々、そして島流しにされた後醍醐天皇も自力で隠岐島を脱出したのでした。

鎌倉幕府滅亡と建武の新政の始まり

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後醍醐天皇の挙兵とそれを支持した足利尊氏

隠岐島を脱出した後醍醐天皇は鳥取の船上山にて挙兵、本当の天皇は光厳天皇ではなく自分であると示すかのように、倒幕の綸旨(天皇の命令文書)を発して世間を倒幕のために動かします。もちろん幕府はそんな後醍醐天皇を捨て置けず、幕府もまた挙兵して後醍醐天皇の討伐を命じました。

戦場へと向かったのは足利尊氏だったことから、幕府も後醍醐天皇の挙兵を鎮圧させられると安堵したかもしれません。しかし足利尊氏は反旗を翻して後醍醐天皇を支持、そのまま京都で六波羅探題を滅ぼします。切り札が寝返ってしまったことは幕府にとって致命的な誤算だったでしょう。

さらに、関東で挙兵していた新田義貞が鎌倉に攻め入るとそのまま幕府を滅ぼしてしまい、こうしておよそ150年続いた鎌倉幕府の時代は終わりを告げたのです。それは1333年のことで、正中の変が起こるさらに前から倒幕を望んでいた後醍醐天皇はついにそれを実現させました。

期待外れに終わった建武の新政

鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が始まります。平清盛の台頭をきっかけに始まりこれまで長く続いてきた武家政権、それが再び朝廷の天皇によって政治を行う時代が到来したのです。その意味でまさに待望の始まりとなった建武の新政でしたが、現実は厳しいものでした。

これまで政治を行っていなかったためか後醍醐天皇の政治能力はお世辞にも高いとは言えず、非現実的な政治政策を次々と打ち出して、たちまち人々の不満を高めてしまいます。見切りをつけたのか、倒幕で後醍醐天皇を味方した足利尊氏にも見放されてしまい、建武の新政はわずか3年ほどで終わりとなりました

以後、足利尊氏が再び武家政権を築くものの後醍醐天皇はこれに納得できず、最終的には退位を認めない後醍醐天皇は自ら朝廷を作ってしまいます。その結果2つの朝廷と2人の天皇、何とも奇妙な状況が完成してしまい、時代は南北朝時代へと突入していくのでした。

正中の変は鎌倉幕府滅亡につながる事件!

解説した流れから分かるとおり、正中の変は鎌倉幕府滅亡につながる事件です。正中の変が起こった原因は後醍醐天皇の幕府に対する不満、そして事件は未遂に終わったことから、正中の変自体は大した出来事ではありません。

しかし、正中の変が起きたために元弘の変が起こり、元弘の変の結末として鎌倉幕府が滅亡したのです。つまり正中の変は鎌倉幕府滅亡において重要な事件であり、何よりそのことを覚えておきましょう。

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日本史歴史鎌倉時代

鎌倉幕府滅亡に繋がる最初の倒幕計画「正中の変」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は正中の変(しょうちゅうのへん)について勉強していきます。日本の歴史の教科書の中には、大切な事件の割にあまり解説されていないものがあり、正中の変もその一つでしょう。

確かに正中の変は未遂に終わっているため大きな事件を言えないかもしれないが、鎌倉幕府滅亡に関係する点で大変重要です。そこで今回は正中の変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から正中の変をわかりやすくまとめた。

元寇の影響

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御恩と奉公の主従関係の崩壊

1185年に開いた鎌倉幕府は、ある事件をきっかけに多くの御家人から不満を抱かれることになりました。その事件とは元寇、1274年の文永の役と1281年の弘安の役、二度ものモンゴル帝国襲来となる元寇に勝利した日本でしたが、これが武士の主従関係を崩壊させることになったのです。

当時、日本は御恩と奉公で武士の主従関係を成立させており、家臣は主君のために奉公して働き、主君はその恩賞として家臣に領地を与えていました。元寇は外国との戦い、これが国内の戦いだったとすれば、勝者に敗者の領地を与えることで御恩と奉公が成り立つでしょう。

しかし、モンゴル帝国に勝利したところで新たな領地は得られず、そのため元寇では戦った御家人に恩賞を与えることができなかったのです。御家人からすれば、例えるなら命を懸けたタダ働きに等しく、それどころか戦争にかかった費用によってむしろ生活が圧迫されてしまいました。

不満の解消には至らなかった永仁の徳政令

こうして恩賞不足によって借金で苦しむ御家人、その不満と怒りの矛先は奉公しても御恩のなかった幕府に対して向けられます。最も、そんな御家人の心境を幕府も理解して警戒しました。そこで1297年、第9代執権・北条貞時は御家人を救済するために永仁の徳政令を打ち出します。

御家人が売り払った土地、質に入れた土地を買主から無償で取り戻せる永仁の徳政令。確かに、これで御家人の不満と怒りはある程度解消できたかもしれませんが、今度は土地を買った側やお金を貸した側となる商人からの不満が続出。商売する側からすれば、永仁の徳政令は理不尽極まりないと感じたのでしょう。

さらに、モンゴル帝国のさらなる襲来に備えるため北条一族は権力を集中させ、それもまた御家人の不満を招いたとされています。もはや日本の統治どころか御家人や商人の不満すら解消できない幕府、当然信頼も低下して衰退の道を辿っていくことになったのです。

倒幕を考えていた後醍醐天皇

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