今回はペリーを取り上げるぞ。黒船で開国を迫った海軍軍人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを日本に来た外国人や明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新の頃に来日した外国人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ペリーについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ペリーはアメリカのロードアイランド州の生まれ

マシュー・カルブレイス・ペリー(Mattew Calbraith Perry)は、1794年4月10日に、アメリカ東北部ロードアイランド州ニューポートで誕生。父のクリストファー・レイモンド・ペリーは、アメリカ独立戦争の際、民兵として入隊、私掠船(政府から敵国の船を攻撃して、船や積み荷を奪う許可を得た個人の船のことで、いわば公認の海賊船)の船長、米海軍大尉、そしてロードアイランド州民事訴訟裁判所の主席裁判官も務めたということ。

マシューは、8人兄弟の4番目で5人の男兄弟はすべて海軍将校に。

1-2、ペリー、14歳で海軍に

Captain Oliver Hazard Perry, Portrait in oils by Edward L. Mooney.jpg
Edward L. Mooney - http://www.history.navy.mil/photos/hi-res/KN%2000001/KN-2783.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

ペリーは14歳のときに士官候補生の辞令を受け、1812年、18歳になると2人の兄とともにアメリカ第二次独立戦争と言われる米英戦争に参加。

ペリーは日本では歴史上の偉人となったが、実はアメリカ本国でそうではなく、今日も教科書に記され英雄として讃えられているのは、兄のオリバー・ハザード・ペリーの方で、オリバーはエリー湖の戦いから6年後、ベネズエラ遠征中に疾病にかかって36歳で病死したため、当時からアメリカでは伝説的存在に。

1-3、ペリー、20歳で結婚

ペリーは海軍中尉となった1814年に、20歳で、ニューヨークの裕福な商人ジョン・スライデルの娘で17歳のジェーンと結婚。後に10人の子供が生まれることに。

ジェーンの兄は父と同じジョン・スライデルで、コロンビア大学出身の弁護士で、後に民主党の上院議員になったということで、ジェーンの弟のアレクサンダーは海軍に入隊し、ペリーと親友となり、ペリーの兄のオリバーの伝記作家となったということ。

1-4、若き日のペリーの功績

アメリカでは独立戦争の以前から、奴隷としてアメリカに連れて来られたアフリカ人を助けて、アフリカへ送還するアフリカ移民協会の運動があり、ペリーは1819年、25歳のときアフリカ行きを志願、サイアンというコルヴェット艦の副長に任命されて、男女合計100人弱のアフリカ人を乗せた商船エリザベス号をアフリカの北西海岸まで護送したうえに、ギニアの海岸一帯を巡航し、奴隷密貿易業者の摘発、捕獲された人たちを故郷に送り返すという仕事を行ったということ。

しかしながらこのときは悪天候のせいもあり、護送の任務は果たせず。ペリーはその後も、1843年から1845年にかけて、アフリカ派遣艦隊の司令官となったとき、再度リベリアを訪問して色々尽力したなどで、現在もペリーはリベリアでは恩人として有名だということ。

1-5、ペリー、海軍で順調に昇進

ペリーはエンジニアとしての才能を持っていたせいか、当時最先端の蒸気船の研究をして1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にはアメリカ海軍で2隻目の蒸気船フリゲートフルトン号を建造して海軍大佐に昇進。1840年6月、ブルックリン海軍工廠の司令官となり、代将の地位にまで到達。

そして1846年に米墨(アメリカ対メキシコ)戦争が勃発、ペリーは後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加して、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮したということで、後に本国艦隊の司令官に昇進。ぺリーは蒸気船が主力となってきたアメリカ海軍の強化策を進めると共に、海軍士官の教育にも従事し、蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、海軍教育の先駆者とされているということ。

\次のページで「2-1、ペリー、日本開国を目指す」を解説!/

2-1、ペリー、日本開国を目指す

ペリーは同じ海軍にいるせいか、伝説化した兄オリバーの業績が常に頭にあったらしく、順調に昇進しているようにみえるが、あまり実戦での業績には恵まれていないと兄を超える実績を求めていたよう。

当時のアメリカは、産業革命が起こり工業化が進むなかで、照明、機械の潤滑油として大量に鯨油が利用されていたということ。なのでアメリカは、鯨が多くいた日本近海を含む世界各地で捕鯨を盛んに行っていたのですね。そのために、日本が開国して港に寄れるようになれば、薪や水や食料の補給も出来、貿易で多くの工業製品の輸出も可能だということで、中国を始めとした他のアジア諸国への進出ももくろんでいたそう。ということで、ペリーはだんだん盛り上がってきていた日本開国要求を成し遂げて、兄オリバーを超えたいと思ったということ。

2-2、ペリー、日本の研究を行い、用意周到な開国計画をたてる

黒船ミシシッピ号.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

ペリーは日本開国任務が与えられる2年近く前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していたそう。

ペリーは日本を開国させるための計画を立て、徹底的に日本の研究を行い、当時の数少ない日本に関して書かれたあらゆる書物を収集して研究したそうで、シーボルトの大著「日本」が特に高価だったということですが、シーボルト本人がペリーに同行したいと申し出たときは、シーボルトが追放処分になったことを知っていたせいか、断ったということ。

そしてペリーは日本についてじっくり研究した結果、基本的な開国交渉の姿勢として、返答期限ははっきり定める、簡単に引き下がらない、大統領書簡は重役に手渡すこととし、任務を成功させるための条件としては、戦艦4隻が必要ということに。なぜかというと日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、実物を見せることで近代国家の軍事力をはっきりと認識させる必要があるとして、そのうちの3隻は蒸気船をもって、いわば日本人の恐怖に訴えた方が交渉が有利に運ぶと砲艦外交を行う計画。また日本と外交関係を持っているオランダの妨害があるかもしれないと、長崎で交渉は行わないなどと記しているそう。

日本開国任務が与えられると、計画はさらに具体的になり、東インド艦隊所属のサスケハナ、サラトガ(帆走スループ)、プリマスに加えて本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻のうち、使用できるのはミシシッピのみ。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲートポーハタン号が加わることに。

また、日本の家屋が紙と木でできていることを知っていたため、炸裂弾を標準装備、これを見た江戸幕府は江戸湾から攻撃されれば火の海になると震え上がったということ。

2-3、オーリックに代わってペリーが特使に

1851年5月29日、アメリカ大統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶために、最初は東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使に任命し、6月8日に蒸気フリゲートサスケハナ号は、東インド艦隊の旗艦となるために東アジアに向かって出航。しかしオーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任となり、1852年2月、ペリーが代わってその任務に就くことになったということ。

3-1、ペリーの黒船来航

image by PIXTA / 47769745

1852年11月に、58歳のペリーは東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けての交渉を依頼する大統領親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島、ケープタウンを超えてモーリシャス諸島、セイロン島を通り、シンガポール、マカオ、香港、上海、琉球(沖縄)を経由して、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀に入港。

ペリーは7月14日(6月9日)には幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、このときは戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡しただけで、具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみ。ペリーは浦賀湾を何日か測量し、幕府から翌年までの猶予を求められて了承。

そしてわずか半年後の嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ぺリーは再び旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて横浜沖にあらわれて、幕府に対して早期の条約締結を求めて、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印。またその後那覇に寄港、7月11日には琉球王国とも琉米修好条約を締結したということ。

ペリーは日本開港の後には体調不良に悩まされていたため、香港で本国政府に帰国を申請し許可を得、艦隊の指揮権を譲ってミシシッピ号を去ったということ。そして9月11日にイギリス船に便乗し、西回りの航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に。インド洋、紅海、地中海からヨーロッパ大陸で保養をし、大西洋を航海して翌年1月12日にニューヨークに帰着。1月22日にニューヨークへ帰着したミシシッピ号の艦上で1月24日にペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行。

3-2、ペリーの実像

Commodore Matthew Calbraith Perry.png
マシュー・ブレイディ - metmuseum.org, パブリック・ドメイン, リンクによる

ペリーは写真を見ても想像できる通り、無口で愛想がなく仕事熱心な真面目一方の軍人。恐妻家で妻一筋。家を空ける軍人らしく、兄弟喧嘩をしないよう子供たちを戒める手紙を書き残したということで、息子たちは全員が海軍軍人に。また、鬘着用だったと複数の関係者の証言も残っているそう。

そして海軍の水兵や海兵隊員からは、190㎝越えの大柄な体格で、たまに大声を出すせいか、「熊おやじ(old bruin)」と仇名されていたそう。しかし意外にも部下には寛大で、人事にはかなり綿密な配慮をしていたことが、記録に残っているということ。

\次のページで「3-3、ペリーの晩年」を解説!/

3-3、ペリーの晩年

アメリカでは日本開国直後に南北戦争が勃発し、アメリカ国内では日本に対する興味どころではない状況となってしまい、ペリーの偉業もかすみがちに。そしてペリーは退官後、「日本遠征記」などを執筆して出版。しかしアルコール使用障害、痛風、リウマチなどを患い、1858年3月4日ニューヨークで63歳で死去。

4-1、ペリーの子孫

image by PIXTA / 9466173

ペリーの子孫はアメリカ海軍の軍人が多いということで、また有名人も多数輩出。娘のキャロライン・スライデル・ペリーは、アメリカン・ジョッキー・クラブの会長を務めるなどアメリカ競馬界の重要人物のひとり、そしてアメリカ・クラシックのベルモント・ステークスに名を残すオーガスト・ベルモント1世の夫人で、ベルモント・パーク競馬場の創設者オーガスト・ベルモント2世はキャロラインの息子でペリーの孫になるということ。

また、兄オリバーの孫で慶應義塾大学英文学教師を務めたトーマス・サージェント・ペリー、そしてその娘のアリスは太平洋戦争前の駐日アメリカ大使のジョセフ・グルー夫人など。

イベントなどで招待された子孫の方が来日して、日本での先祖ペリーの評価の高さに感激して涙されるという話も。

4-2、海軍の艦名にも

兄のオリバーの名前は、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートなど、これまで6隻に使われたが、最近までアメリカ海軍にはマシュー・ペリーの名前を持つ艦はなし。しかし2010年に就役したルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦の9番艦がマシュー・ペリーと命名され、2011年の東北震災の救援活動に参加したそう。

アメリカでは兄が伝説の英雄、日本では弟が歴史を変えた偉人

マシュー・カルブレイス・ペリーは、アメリカの海軍軍人として米英戦争に従軍し、アメリカ海軍に蒸気船を取り入れたり、海軍軍人の養成などにも携わり、19世紀のアメリカ海軍発展のために尽くした人。

そして退役間近となった頃に、アメリカはヨーロッパ列強から少し遅れていた東アジア進出と捕鯨船の寄港地として、日本開国に乗り出すことに。ペリーは日本では黒船来航と呼ばれる4隻の艦隊の責任者として選ばれたのかと思いきや、自分でも大統領に意見書を出し、熱心に日本について書かれた本を調べ、どうすれば日本がすんなり開国するか研究を重ねてやってきたということ。その考え抜いたペリーの砲艦外交の結果、日本は開国、300年続いた江戸幕府は権威を喪失して明治維新へ突入、一挙に近代化路線へとなったのでした。

ペリーは今でもアメリカでは同じ海軍の英雄だった兄のオリバーの方が有名で、本人も兄を超えられなかったと考えていたということですが、ペリー来航が当時の日本に及ぼした影響は果てしなく大きく、歴史を変えちゃったことは、戦争の英雄の兄の比ではないほどの偉業だと思うんですよね。

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幕末日本史歴史江戸時代

黒船を率いて日本にやってきたアメリカ海軍提督「ペリー」を歴女がわかりやすく解説

2-1、ペリー、日本開国を目指す

ペリーは同じ海軍にいるせいか、伝説化した兄オリバーの業績が常に頭にあったらしく、順調に昇進しているようにみえるが、あまり実戦での業績には恵まれていないと兄を超える実績を求めていたよう。

当時のアメリカは、産業革命が起こり工業化が進むなかで、照明、機械の潤滑油として大量に鯨油が利用されていたということ。なのでアメリカは、鯨が多くいた日本近海を含む世界各地で捕鯨を盛んに行っていたのですね。そのために、日本が開国して港に寄れるようになれば、薪や水や食料の補給も出来、貿易で多くの工業製品の輸出も可能だということで、中国を始めとした他のアジア諸国への進出ももくろんでいたそう。ということで、ペリーはだんだん盛り上がってきていた日本開国要求を成し遂げて、兄オリバーを超えたいと思ったということ。

2-2、ペリー、日本の研究を行い、用意周到な開国計画をたてる

黒船ミシシッピ号.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

ペリーは日本開国任務が与えられる2年近く前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していたそう。

ペリーは日本を開国させるための計画を立て、徹底的に日本の研究を行い、当時の数少ない日本に関して書かれたあらゆる書物を収集して研究したそうで、シーボルトの大著「日本」が特に高価だったということですが、シーボルト本人がペリーに同行したいと申し出たときは、シーボルトが追放処分になったことを知っていたせいか、断ったということ。

そしてペリーは日本についてじっくり研究した結果、基本的な開国交渉の姿勢として、返答期限ははっきり定める、簡単に引き下がらない、大統領書簡は重役に手渡すこととし、任務を成功させるための条件としては、戦艦4隻が必要ということに。なぜかというと日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、実物を見せることで近代国家の軍事力をはっきりと認識させる必要があるとして、そのうちの3隻は蒸気船をもって、いわば日本人の恐怖に訴えた方が交渉が有利に運ぶと砲艦外交を行う計画。また日本と外交関係を持っているオランダの妨害があるかもしれないと、長崎で交渉は行わないなどと記しているそう。

日本開国任務が与えられると、計画はさらに具体的になり、東インド艦隊所属のサスケハナ、サラトガ(帆走スループ)、プリマスに加えて本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻のうち、使用できるのはミシシッピのみ。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲートポーハタン号が加わることに。

また、日本の家屋が紙と木でできていることを知っていたため、炸裂弾を標準装備、これを見た江戸幕府は江戸湾から攻撃されれば火の海になると震え上がったということ。

2-3、オーリックに代わってペリーが特使に

1851年5月29日、アメリカ大統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶために、最初は東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使に任命し、6月8日に蒸気フリゲートサスケハナ号は、東インド艦隊の旗艦となるために東アジアに向かって出航。しかしオーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任となり、1852年2月、ペリーが代わってその任務に就くことになったということ。

3-1、ペリーの黒船来航

image by PIXTA / 47769745

1852年11月に、58歳のペリーは東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けての交渉を依頼する大統領親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島、ケープタウンを超えてモーリシャス諸島、セイロン島を通り、シンガポール、マカオ、香港、上海、琉球(沖縄)を経由して、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀に入港。

ペリーは7月14日(6月9日)には幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、このときは戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡しただけで、具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみ。ペリーは浦賀湾を何日か測量し、幕府から翌年までの猶予を求められて了承。

そしてわずか半年後の嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ぺリーは再び旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて横浜沖にあらわれて、幕府に対して早期の条約締結を求めて、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印。またその後那覇に寄港、7月11日には琉球王国とも琉米修好条約を締結したということ。

ペリーは日本開港の後には体調不良に悩まされていたため、香港で本国政府に帰国を申請し許可を得、艦隊の指揮権を譲ってミシシッピ号を去ったということ。そして9月11日にイギリス船に便乗し、西回りの航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に。インド洋、紅海、地中海からヨーロッパ大陸で保養をし、大西洋を航海して翌年1月12日にニューヨークに帰着。1月22日にニューヨークへ帰着したミシシッピ号の艦上で1月24日にペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行。

3-2、ペリーの実像

Commodore Matthew Calbraith Perry.png
マシュー・ブレイディmetmuseum.org, パブリック・ドメイン, リンクによる

ペリーは写真を見ても想像できる通り、無口で愛想がなく仕事熱心な真面目一方の軍人。恐妻家で妻一筋。家を空ける軍人らしく、兄弟喧嘩をしないよう子供たちを戒める手紙を書き残したということで、息子たちは全員が海軍軍人に。また、鬘着用だったと複数の関係者の証言も残っているそう。

そして海軍の水兵や海兵隊員からは、190㎝越えの大柄な体格で、たまに大声を出すせいか、「熊おやじ(old bruin)」と仇名されていたそう。しかし意外にも部下には寛大で、人事にはかなり綿密な配慮をしていたことが、記録に残っているということ。

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