幕末日本史歴史江戸時代

黒船を率いて日本にやってきたアメリカ海軍提督「ペリー」を歴女が解説

2-1、ペリー、日本開国を目指す

ペリーは同じ海軍にいるせいか、伝説化した兄オリバーの業績が常に頭にあったらしく、順調に昇進しているようにみえるが、あまり実戦での業績には恵まれていないと兄を超える実績を求めていたよう。

当時のアメリカは、産業革命が起こり工業化が進むなかで、照明、機械の潤滑油として大量に鯨油が利用されていたということ。なのでアメリカは、鯨が多くいた日本近海を含む世界各地で捕鯨を盛んに行っていたのですね。そのために、日本が開国して港に寄れるようになれば、薪や水や食料の補給も出来、貿易で多くの工業製品の輸出も可能だということで、中国を始めとした他のアジア諸国への進出ももくろんでいたそう。ということで、ペリーはだんだん盛り上がってきていた日本開国要求を成し遂げて、兄オリバーを超えたいと思ったということ。

ID: ↑パーツ内本文:345文字

2-2、ペリー、日本の研究を行い、用意周到な開国計画をたてる

黒船ミシシッピ号.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

” target=”_blank”>

ペリーは日本開国任務が与えられる2年近く前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していたそう。

ペリーは日本を開国させるための計画を立て、徹底的に日本の研究を行い、当時の数少ない日本に関して書かれたあらゆる書物を収集して研究したそうで、シーボルトの大著「日本」が特に高価だったということですが、シーボルト本人がペリーに同行したいと申し出たときは、シーボルトが追放処分になったことを知っていたせいか、断ったということ。

そしてペリーは日本についてじっくり研究した結果、基本的な開国交渉の姿勢として、返答期限ははっきり定める、簡単に引き下がらない、大統領書簡は重役に手渡すこととし、任務を成功させるための条件としては、戦艦4隻が必要ということに。なぜかというと日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、実物を見せることで近代国家の軍事力をはっきりと認識させる必要があるとして、そのうちの3隻は蒸気船をもって、いわば日本人の恐怖に訴えた方が交渉が有利に運ぶと砲艦外交を行う計画。また日本と外交関係を持っているオランダの妨害があるかもしれないと、長崎で交渉は行わないなどと記しているそう。

日本開国任務が与えられると、計画はさらに具体的になり、東インド艦隊所属のサスケハナ、サラトガ(帆走スループ)、プリマスに加えて本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻のうち、使用できるのはミシシッピのみ。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲートポーハタン号が加わることに。

また、日本の家屋が紙と木でできていることを知っていたため、炸裂弾を標準装備、これを見た江戸幕府は江戸湾から攻撃されれば火の海になると震え上がったということ。

ID: ↑パーツ内本文:823文字

2-3、オーリックに代わってペリーが特使に

1851年5月29日、アメリカ大統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶために、最初は東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使に任命し、6月8日に蒸気フリゲートサスケハナ号は、東インド艦隊の旗艦となるために東アジアに向かって出航。しかしオーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任となり、1852年2月、ペリーが代わってその任務に就くことになったということ。

ID: ↑パーツ内本文:194文字
no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

へえ、2年前から計画書を提出してたのに、最初から任命じゃなかったのかい

ID: ↑パーツ内本文:35文字

3-1、ペリーの黒船来航

image by PIXTA / 47769745

1852年11月に、58歳のペリーは東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けての交渉を依頼する大統領親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島、ケープタウンを超えてモーリシャス諸島、セイロン島を通り、シンガポール、マカオ、香港、上海、琉球(沖縄)を経由して、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀に入港。

ペリーは7月14日(6月9日)には幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、このときは戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡しただけで、具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみ。ペリーは浦賀湾を何日か測量し、幕府から翌年までの猶予を求められて了承。

そしてわずか半年後の嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ぺリーは再び旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて横浜沖にあらわれて、幕府に対して早期の条約締結を求めて、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印。またその後那覇に寄港、7月11日には琉球王国とも琉米修好条約を締結したということ。

ペリーは日本開港の後には体調不良に悩まされていたため、香港で本国政府に帰国を申請し許可を得、艦隊の指揮権を譲ってミシシッピ号を去ったということ。そして9月11日にイギリス船に便乗し、西回りの航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に。インド洋、紅海、地中海からヨーロッパ大陸で保養をし、大西洋を航海して翌年1月12日にニューヨークに帰着。1月22日にニューヨークへ帰着したミシシッピ号の艦上で1月24日にペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行。

ID: ↑パーツ内本文:695文字

3-2、ペリーの実像

Commodore Matthew Calbraith Perry.png
マシュー・ブレイディmetmuseum.org, パブリック・ドメイン, リンクによる

ペリーは写真を見ても想像できる通り、無口で愛想がなく仕事熱心な真面目一方の軍人。恐妻家で妻一筋。家を空ける軍人らしく、兄弟喧嘩をしないよう子供たちを戒める手紙を書き残したということで、息子たちは全員が海軍軍人に。また、鬘着用だったと複数の関係者の証言も残っているそう。

そして海軍の水兵や海兵隊員からは、190㎝越えの大柄な体格で、たまに大声を出すせいか、「熊おやじ(old bruin)」と仇名されていたそう。しかし意外にも部下には寛大で、人事にはかなり綿密な配慮をしていたことが、記録に残っているということ。

ID: ↑パーツ内本文:257文字
次のページを読む
1 2 3
Share:
angelica