今日は江戸無血開城について勉強していきます。新政府軍と旧幕府軍が戦った1868年の戊辰戦争、1年以上続いたその激しい戦いの中で多くの人々が犠牲になっていった。

しかし、その中で江戸城においては西郷隆盛の活躍で一切の犠牲者を出すことなく旧幕府軍から新政府軍へと明け渡された。今回、江戸無血開城について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から江戸無血開城をわかりやすくまとめた。

戊辰戦争の始まり

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徳川慶喜の真意

江戸時代の幕末、幕府の権威が失墜して討幕も時間の問題とされたその矢先、第15代将軍・徳川慶喜は1867年に大政奉還を行って自ら政権を朝廷に返上。こうして江戸幕府はもちろん、鎌倉幕府から始まりこれまで700年近く続いた幕府の歴史は終わり、同時にそれは武家政治の終わりも意味しました。

追い詰められた徳川慶喜の大政奉還は一見降伏に思えますが実は策略、政権掌握の争いにおいて幕府が新政府に比べて明らかに勝っていたのはこれまで政治を行ってきた経験……すなわちノウハウです。つまり、徳川慶喜は例え朝廷に政権を返上しようとも経験の浅い天皇では政治は不可能、必ず自身が政治に携われると読んだのでした。

徳川慶喜のこの読みは見事的中、依然政治に携わるその姿は討幕派からすれば歯がゆく、そのためあらゆる手を使って徳川慶喜の排除を目指します。それが王政復古の大号令、しかしそれでも徳川慶喜の権限はなお残り、政治力においては一枚上手の徳川慶喜に対して新政府側は別の手を試みました。

鳥羽伏見の戦いから江戸への侵攻へ

別の手と言ってもそれは特別なものではなく、新政府側の西郷隆盛は徳川慶喜に対して再三の挑発行為を繰り返しました。江戸での強盗、略奪、さらには警備屯所に銃弾を打ち込むことも行い、とにかく徳川慶喜を怒らせて戦争を起こしてしまえば良いと考えていたのです。

討幕派からすれば戦争は望むところ。むしろ戦争する理由がなくて足止めされていたくらいですから、徳川慶喜が旧幕府軍として新政府軍に戦争を仕掛けるのは大歓迎でした。そしてとうとう挑発に乗った徳川慶喜、こうして1868年に旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が起こります

戊辰戦争の始まりとなった鳥羽伏見の戦い、新政府軍はこの戦いに勝利しますが追い詰められた徳川慶喜は江戸へと逃亡、新政府軍は徳川慶喜討伐のため追って江戸への侵攻を計画しました。ただ、新政府軍の中にも旧幕府軍の中にも、戦いで江戸を火の海にすることには抵抗を感じる者がいたのです。

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江戸総攻撃中止に向けた尽力

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篤姫と和宮の懇願

当時の江戸の人口は100万人以上、ここで戦いが起これば日本の中心地は火の海に包まれてしまうでしょう。抵抗を感じつつも、新政府軍は京都を出発して江戸へと向かいます。江戸への総攻撃は3月16日と決まっており、惨劇を避けるためにはそれまでに総攻撃の中止に至らなければなりません。

そこで行動を起こしたのが旧幕府側の篤姫和宮の2人の女性。篤姫は第13代将軍・徳川家定の妻、和宮は第14代将軍・徳川家茂の妻であり、夫の死後も依然徳川家に身を置いていたのです。しかも2人の故郷は薩摩藩と朝廷ですから、新政府側も知らない仲ではありません。

そこで篤姫と和宮は新政府側に対して徳川家の存続を願い出ますが、既に朝敵とみなされた徳川家に対してそれは不可能と否定されてしまいます。嘆く篤姫と和宮、ここで篤姫は西郷隆盛に総攻撃中止を嘆願する手紙を書き、それを受け取った西郷隆盛は涙して新政府軍の侵攻を遅らせるよう努めました。

西郷隆盛と山岡鉄船の交渉

それでも迫る新政府軍の江戸総攻撃の時、旧幕府側の勝海舟山岡鉄舟は新政府側との交渉を計画して実現、旧幕府側と新政府側が話し合う場を設けることに成功しました。この時、会談することになったのは旧幕府側が山岡鉄舟、新政府側が西郷隆盛です。

3月13日の会談にて、西郷隆盛は山岡鉄舟に対して「1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける」、「2.江戸城を明け渡す」、「3.軍艦をすべて引き渡す」、「4.武器をすべて引き渡す」、「5.城内の家臣は向島に移って謹慎する」、「6.徳川慶喜の暴挙を補佐した者を調査して処罰する」、「7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する」……これら7つを要求します。

これに対して山岡鉄舟はほぼ全てを受け入れる姿勢を見せつつも、「1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける」だけは強く反対。主を売る真似はできないその忠誠心に心を動かされた西郷隆盛、交渉相手の山岡鉄舟に徳川慶喜の身の安全を約束したと言われています。

江戸無血開城の実現

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イギリス外交官・パークスの思わぬ圧力

新政府側の人間全てが西郷隆盛のように人情に厚いわけではなく、また江戸総攻撃に抵抗を感じない者も少なくありませんでした。そのため、西郷隆盛が旧幕府側と交渉する一方で新政府軍は侵攻を止めることなく江戸へと近づいてきたのです。

そんな時、新政府側の江戸総攻撃の計画に対して意外な人物が批判してきました。その人物とはイギリスの外交官・パークス、パークスは新政府側に圧力をかけて江戸総攻撃の中止を要求、無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃するのは違法だと激怒したそうです。

イギリスを怒らせてしまえばどうなるのかは明白、江戸総攻撃は江戸を火の海にするだけでなく外国も敵に回す事態になってしまうかもしれません。これまで江戸総攻撃を肯定していた新政府側の者達も、イギリスの外交官の意見となってはさすがに無視するわけにはいかなかったでしょう。

西郷隆盛と勝海舟の会談

そんな折となる3月14日、再び旧幕府側と新政府側が会談することになりました。この時の新政府側の代表は前回と同じで西郷隆盛、一方旧幕府側の代表は勝海舟、これは江戸総攻撃の結論を出すための運命の会談で、新政府側の西郷隆盛は旧幕府側に譲歩した提案を示します。

「1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎」、「2.徳川慶喜を助けた諸

江戸無血開城のエピソード

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徳川家の嫁であることを誇った篤姫

江戸無血開城にて、新政府側にその存在感だけでなく権威の高さを強く見せつけた者がいました。その者とは亡き第13代将軍・徳川家定の妻である篤姫、江戸総攻撃を巡って西郷隆盛に手紙を書いた女性です。江戸城の大奥に住む篤姫は、明け渡しの際に見事な様を見せました

御休息、御化粧の間に飾り付けてある物は全てのそのまま、そこには掛け軸や金銀の飾り物、古今和歌集や千載和歌集まで置いてあったとされています。戊辰戦争の戦況の流れから分かるとおり、代々将軍を務めてきた徳川家の栄光はもはや失われつつありました

新政府側の官軍からすれば、それは落ちぶれた存在に思えるかもしれません。しかし篤姫は徳川家の嫁として生きてきたことにプライドを持っており、その生活の様を官軍に見せつけることで「これが徳川家の嫁なのだぞ」と権威を知らしめるための篤姫ならではの心意気でした。

西郷隆盛の人情と交渉力

江戸無血開城はイギリスの外交官・パークスの介入があってこそ実現したと捉える意見がありますし、西郷隆盛はパークスの怒りによって江戸総攻撃を中止したとも言われていました。しかし、実際には総攻撃中止の決断は西郷隆盛の独断だったようです。

西郷隆盛が山岡鉄舟と会談した際、窮地に陥っているにも関わらず山岡鉄船は徳川慶喜の引き渡しを断固たる姿勢で拒否しました。西郷隆盛がこれに感動したのは事実ですし、運命と会談となった交渉相手の勝海舟は、西郷隆盛にとってお互い認め合うほどの信頼関係を築いてします。

また篤姫や和宮からの手紙でも心を動かされており、その一面からは西郷隆盛の人情の厚さが伺えますね。確かに、パークスが新政府側に影響を与えたのは事実でしょう。しかし、江戸無血開城はやはり西郷隆盛の人情の厚さ、そして優れた交渉力によって実現したものと考えられています。

戊辰戦争の結末と明治時代の日本

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戊辰戦争の結末

江戸無血開城が行われた後も戊辰戦争は続きます。いくつもの戦いを経て、最後の舞台となったのは北海道の箱館。江戸無血開城の結末から分かるとおり、既に徳川慶喜には新政府軍と争う意思などありませんでしたが、旧幕府軍の家臣達はそれでも新政府軍に抵抗して戦いを続けました。

そして決戦の舞台となる箱館の五稜郭、幕末においてその名を知らしめた新選組の土方歳三も戦場に立ちますが、新政府軍の総攻撃を受けたことで戦死。旧幕府軍はとうとう抵抗する術がなくなり、1年以上続いた戊辰戦争はこの箱館戦争によって決着がつきました

戊辰戦争は幕末に不満を持つ人々が立ち上がり、天皇による新たな政治の実現のために起こった戦争です。戊辰戦争で勝利した新政府軍は明治政府として新たに明治時代を作っていきますが、果たしてそれは討幕を志した武士達にとって望むべき時代になったのでしょうか。

明治時代の日本

明治時代になると、多くの武士が失望することになります。明治政府が目指したのは外国と対等な関係を築けるほどの近代国家であり、そのため武士はこれまでの特権が失われ、たちまち明治政府に不満を持つようになり、そんな武士達を不平士族と呼びました。

明治時代当初は戊辰戦争の功績で得ていた収入も得られなくなり、明治政府の打ち出した政治政策によって最終的には刀まで奪われてしまいます。このため、日本の各地で明治政府に不満を持つ不平士族による反乱が立て続けに起こるようになりました。

その反乱はやがて西南戦争と呼ばれる大きな戦争に発展。江戸無血開城で功績を残し、明治維新で明治政府に尽力した西郷隆盛が反乱軍のリーダーとなって巨大な明治政府に戦いを挑むことになります。しかしそれはまだ少し先のこと、江戸無血開城を実現した西郷隆盛はこの時確かに英雄だったのです。

西郷隆盛だけに注目してしまうと江戸無血開城は理解できない!

江戸無血開城は西郷隆盛の活躍によって実現しましたが、それは西郷隆盛にとって心を動かされる出来事が起こったためです。そして、その出来事を知るには旧幕府側の動向を知らなければなりません。

つまり、西郷隆盛だけに注目してしまうと江戸無血開城は理解できないのです。つまりポイントは西郷隆盛に的を絞らないことで、特に篤姫や勝海舟は絶対に抑えておかなければならない人物でしょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

江戸の町と人々を救った土壇場の決断「江戸無血開城」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

戊辰戦争の結末

江戸無血開城が行われた後も戊辰戦争は続きます。いくつもの戦いを経て、最後の舞台となったのは北海道の箱館。江戸無血開城の結末から分かるとおり、既に徳川慶喜には新政府軍と争う意思などありませんでしたが、旧幕府軍の家臣達はそれでも新政府軍に抵抗して戦いを続けました。

そして決戦の舞台となる箱館の五稜郭、幕末においてその名を知らしめた新選組の土方歳三も戦場に立ちますが、新政府軍の総攻撃を受けたことで戦死。旧幕府軍はとうとう抵抗する術がなくなり、1年以上続いた戊辰戦争はこの箱館戦争によって決着がつきました

戊辰戦争は幕末に不満を持つ人々が立ち上がり、天皇による新たな政治の実現のために起こった戦争です。戊辰戦争で勝利した新政府軍は明治政府として新たに明治時代を作っていきますが、果たしてそれは討幕を志した武士達にとって望むべき時代になったのでしょうか。

明治時代の日本

明治時代になると、多くの武士が失望することになります。明治政府が目指したのは外国と対等な関係を築けるほどの近代国家であり、そのため武士はこれまでの特権が失われ、たちまち明治政府に不満を持つようになり、そんな武士達を不平士族と呼びました。

明治時代当初は戊辰戦争の功績で得ていた収入も得られなくなり、明治政府の打ち出した政治政策によって最終的には刀まで奪われてしまいます。このため、日本の各地で明治政府に不満を持つ不平士族による反乱が立て続けに起こるようになりました。

その反乱はやがて西南戦争と呼ばれる大きな戦争に発展。江戸無血開城で功績を残し、明治維新で明治政府に尽力した西郷隆盛が反乱軍のリーダーとなって巨大な明治政府に戦いを挑むことになります。しかしそれはまだ少し先のこと、江戸無血開城を実現した西郷隆盛はこの時確かに英雄だったのです。

西郷隆盛だけに注目してしまうと江戸無血開城は理解できない!

江戸無血開城は西郷隆盛の活躍によって実現しましたが、それは西郷隆盛にとって心を動かされる出来事が起こったためです。そして、その出来事を知るには旧幕府側の動向を知らなければなりません。

つまり、西郷隆盛だけに注目してしまうと江戸無血開城は理解できないのです。つまりポイントは西郷隆盛に的を絞らないことで、特に篤姫や勝海舟は絶対に抑えておかなければならない人物でしょう。

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