イギリス外交官・パークスの思わぬ圧力
新政府側の人間全てが西郷隆盛のように人情に厚いわけではなく、また江戸総攻撃に抵抗を感じない者も少なくありませんでした。そのため、西郷隆盛が旧幕府側と交渉する一方で新政府軍は侵攻を止めることなく江戸へと近づいてきたのです。
そんな時、新政府側の江戸総攻撃の計画に対して意外な人物が批判してきました。その人物とはイギリスの外交官・パークス、パークスは新政府側に圧力をかけて江戸総攻撃の中止を要求、無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃するのは違法だと激怒したそうです。
イギリスを怒らせてしまえばどうなるのかは明白、江戸総攻撃は江戸を火の海にするだけでなく外国も敵に回す事態になってしまうかもしれません。これまで江戸総攻撃を肯定していた新政府側の者達も、イギリスの外交官の意見となってはさすがに無視するわけにはいかなかったでしょう。
こちらの記事もおすすめ

幕末に活躍した凄腕イギリス公使「ハリー・パークス」について歴女がわかりやすく解説
西郷隆盛と勝海舟の会談
そんな折となる3月14日、再び旧幕府側と新政府側が会談することになりました。この時の新政府側の代表は前回と同じで西郷隆盛、一方旧幕府側の代表は勝海舟、これは江戸総攻撃の結論を出すための運命の会談で、新政府側の西郷隆盛は旧幕府側に譲歩した提案を示します。
「1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎」、「2.徳川慶喜を助けた諸
徳川家の嫁であることを誇った篤姫
江戸無血開城にて、新政府側にその存在感だけでなく権威の高さを強く見せつけた者がいました。その者とは亡き第13代将軍・徳川家定の妻である篤姫、江戸総攻撃を巡って西郷隆盛に手紙を書いた女性です。江戸城の大奥に住む篤姫は、明け渡しの際に見事な様を見せました。
御休息、御化粧の間に飾り付けてある物は全てのそのまま、そこには掛け軸や金銀の飾り物、古今和歌集や千載和歌集まで置いてあったとされています。戊辰戦争の戦況の流れから分かるとおり、代々将軍を務めてきた徳川家の栄光はもはや失われつつありました。
新政府側の官軍からすれば、それは落ちぶれた存在に思えるかもしれません。しかし篤姫は徳川家の嫁として生きてきたことにプライドを持っており、その生活の様を官軍に見せつけることで「これが徳川家の嫁なのだぞ」と権威を知らしめるための篤姫ならではの心意気でした。
こちらの記事もおすすめ

愛憎渦巻く「大奥」ー知るための3つのポイントを歴史マニアがわかりやすく解説
西郷隆盛の人情と交渉力
江戸無血開城はイギリスの外交官・パークスの介入があってこそ実現したと捉える意見がありますし、西郷隆盛はパークスの怒りによって江戸総攻撃を中止したとも言われていました。しかし、実際には総攻撃中止の決断は西郷隆盛の独断だったようです。
西郷隆盛が山岡鉄舟と会談した際、窮地に陥っているにも関わらず山岡鉄船は徳川慶喜の引き渡しを断固たる姿勢で拒否しました。西郷隆盛がこれに感動したのは事実ですし、運命と会談となった交渉相手の勝海舟は、西郷隆盛にとってお互い認め合うほどの信頼関係を築いてします。
また篤姫や和宮からの手紙でも心を動かされており、その一面からは西郷隆盛の人情の厚さが伺えますね。確かに、パークスが新政府側に影響を与えたのは事実でしょう。しかし、江戸無血開城はやはり西郷隆盛の人情の厚さ、そして優れた交渉力によって実現したものと考えられています。
\次のページで「戊辰戦争の結末」を解説!/













