篤姫と和宮の懇願
当時の江戸の人口は100万人以上、ここで戦いが起これば日本の中心地は火の海に包まれてしまうでしょう。抵抗を感じつつも、新政府軍は京都を出発して江戸へと向かいます。江戸への総攻撃は3月16日と決まっており、惨劇を避けるためにはそれまでに総攻撃の中止に至らなければなりません。
そこで行動を起こしたのが旧幕府側の篤姫と和宮の2人の女性。篤姫は第13代将軍・徳川家定の妻、和宮は第14代将軍・徳川家茂の妻であり、夫の死後も依然徳川家に身を置いていたのです。しかも2人の故郷は薩摩藩と朝廷ですから、新政府側も知らない仲ではありません。
そこで篤姫と和宮は新政府側に対して徳川家の存続を願い出ますが、既に朝敵とみなされた徳川家に対してそれは不可能と否定されてしまいます。嘆く篤姫と和宮、ここで篤姫は西郷隆盛に総攻撃中止を嘆願する手紙を書き、それを受け取った西郷隆盛は涙して新政府軍の侵攻を遅らせるよう努めました。
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西郷隆盛と山岡鉄船の交渉
それでも迫る新政府軍の江戸総攻撃の時、旧幕府側の勝海舟と山岡鉄舟は新政府側との交渉を計画して実現、旧幕府側と新政府側が話し合う場を設けることに成功しました。この時、会談することになったのは旧幕府側が山岡鉄舟、新政府側が西郷隆盛です。
3月13日の会談にて、西郷隆盛は山岡鉄舟に対して「1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける」、「2.江戸城を明け渡す」、「3.軍艦をすべて引き渡す」、「4.武器をすべて引き渡す」、「5.城内の家臣は向島に移って謹慎する」、「6.徳川慶喜の暴挙を補佐した者を調査して処罰する」、「7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する」……これら7つを要求します。
これに対して山岡鉄舟はほぼ全てを受け入れる姿勢を見せつつも、「1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける」だけは強く反対。主を売る真似はできないその忠誠心に心を動かされた西郷隆盛、交渉相手の山岡鉄舟に徳川慶喜の身の安全を約束したと言われています。
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