
3-1、ロッシュが行った功績
不明 – circa 1865 photograph. Reproduction in “Soie et Lumieres”, Christian Polak., パブリック・ドメイン, リンクによる
フランスは、1860年代にヨーロッパで発生した蚕の疫病で絹織物産業が苦境にあったので、健康な日本の蚕種をあてにして養蚕と絹織物産業を再興しようと考えたということ。なので本国の意向もあって、ロッシュは日本の生糸貿易の独占を狙っていたために、通訳のカションを通じて幕臣たちと接近して信頼を得ようとしたわけなのですが、日本側から見れば、結果的に幕府の近代化促進となったことをまとめてみました。
3-2、横須賀製鉄所の建設
この頃の日本にはまだ船の修繕や建設が出来る造船所がなかったが、元治元年(1864年)初めころに、軍艦翔鶴丸が損傷し、ロッシュの周旋で横浜に来航中のフランス軍艦ゲリエール号の乗組員であった技術士官や職工が修理したのがきっかけとなり、幕府から小規模の製鉄所建設の企画が栗本鋤雲を介して小栗上野介からロッシュに持ち込まれたということ。
ロッシュはチャンス到来として分遣艦隊司令官ジョーレス少将に相談、ジョーレス少将から、当時、中国寧波(ニンポー)で河用砲艦の建造に従事していたフランソア・レオンス・ヴェルニー海軍技師が推薦されて、ロッシュはフランス本国の海軍大臣に許可を求めたということ。尚、ヴェルニーの推薦は偶然中国にいたということと、ヴェルニーの夫人がロッシュの姪という関係もあったそう。
ヴェルニーはさっそく来日して候補地を視察後、フランスのツーロン軍港と酷似していると横須賀に決定。ツーロン港の3分の2の大きさの工廠の詳細な建設案を作成し、その年の11月には老中水野忠精と若年寄酒井忠比が一切の工事をフランスに托す約定書を交わしたということ。この件についてロッシュは、もし、この工廠建設をフランスが拒絶すれば他国が必ず受諾するので、政治や貿易上での我が国が受ける損害は甚大であること。そして日本の炭鉱は豊富で有望なのでフランス人技師の手で開発されたうえに、フランスの技術、学術の移入が行なわれることになれば、将来、諸国を凌いで日本での優位を占める可能性が大きい、とフランス政府に報告書を送ったそう。
尚、この横須賀海軍工廠は太平洋戦争時まで存在し多数の軍艦が建造され、現在は在日アメリカ軍基地内で船の修理に利用されているということ。
幕府がこの先どうなるかわからないのに作るのかと言われた小栗上野介が「幕府の運命には限りがあるが、日本の運命には限りがない。結局は幕府のしたことが長く日本のためになれば徳川家の名誉ではないか。同じ売り家にしても土蔵付売家の方がよい」と言ったのは有名。
また幕府はロッシュを通じてフランスに大砲を注文したため、慶応元年(1865年)6月に16門のカノン砲が横浜に到着して幕府に引き渡されたということ。
3-2、フランス語学校を設立
ロッシュは横須賀製鉄所が稼働するようになると、多くのフランス人技師、職工が働くようになると考えて、通訳養成のフランス語学校を横浜に作る必要があると判断。当時はメルメ・ド・カションが主催する少人数の学生にフランス語を教えるアカデミー・エトランジュールがあったが、ロッシュは幕府に正式のフランス語学校設立を申し出、若年寄酒井忠比、小栗上野介、栗本鋤雲らが中心になり、元治2年(1865年)3月6日横浜弁天通りに開校することに。
ロッシュは全面的に応援し、名もフランス語では(College franco‐japonai)日本訳では横浜仏語伝習所または横浜仏語学校と呼ばれたということ。メルメ・ド・カションが校長を務め、最初の入学生は14歳から20歳の57名で、かなり高度の教育で親仏的な外交官、軍人、通訳の養成を目的としたものだったということですが、慶応4年(1868年)、幕府の瓦解とロッシュの帰国で廃校に。
ロッシュはほかにもパリ万国博参加を勧めたということ。
3-3、フランス式陸軍編成を導入
ロッシュは幕府に依頼され、陸軍再編成のための軍事教官団派遣をフランス本国の陸軍省へ申し入れ、フランス側もこれを了承して参謀大尉シャノワーヌ、騎兵大尉デシャルム、砲兵大尉ブリューネら14名が、慶応3年(1867年)初頭に来日し、横浜で練兵を開始したということ。
また、勘定奉行小栗上野介が財政の基礎を固めるための計画にも援助、特に軍事費調達に600万ドルの借款契約成立のために画策したということで、代償として生糸に対する対日貿易独占を求めたということ。
尚、ライバル意識を燃やしたパークス公使が、海軍はイギリス式にとイギリス海軍を呼び、明治後も陸軍はフランス式からドイツ式に変更されたが、海軍はイギリス式となってライバル関係が続いたということ。
4-1、イギリス公使、ハリー・パークスが着任
パブリック・ドメイン, リンク
慶応3年(1865年)7月、37歳の新任イギリス公使ハリー・パークスが横浜に着任。パークスは13歳から中国で暮らした現地採用の叩き上げの外交官で、来日前は上海領事だった人。
パークスは上海から長崎に到着して日本国内の情勢を見分し、その後に下関で長州藩のイギリス留学経験のある伊藤博文と井上馨、木戸孝允らに会って情報を入手、事前調査をしたうえで着任したが、当時のイギリス公使館には、日本語ペラペラで情報通の有能過ぎる通訳官アーネスト・サトウ、貴族出身で半年で日本語が出来るようになったA・B・ミットフォード(パークスの1年後に着任)、医官でもあるウィリアム・ウィリスらが揃っていたわけです。パークスはスタッフに恵まれ、さらにスタッフに日本の文化や言葉の研究を奨励したこともあり、混迷する当時の日本に着任したにもかかわらず正確な状況判断が出来たということで、あくまで中立を保つ姿勢を持ちながら、薩摩や長州の志士たちを支援し、倒幕にも一役買うように。
尚、A・B・ミットフォードによれば、ロッシュとパークスはお互いに憎みあい、2人の女のように嫉妬しあっていたということ。
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4-2、ロッシュ、15代将軍慶喜に入れ込むように
14代将軍家茂の死後、慶応2年(1866年)12月、慶喜が15代将軍となったが、イギリスのパークス公使が薩摩藩と長州藩と手を結ぶ一方で、ロッシュは慶喜の人物に入れ込んでますます幕府を援助するように。さらに幕政改革の構想を建言し幕府中心の統一政権確立に努めたということで、これは慶応の改革として実現。
また慶喜は将軍就任したのちに各国の外交代表の謁見することになっていたが、ロッシュは将車慶喜の権威を発揮させる絶好の機会として大坂で慶喜に面会し、内外の政策への意見を述べたうえで兵庫開港の決行を勧告。また各国外交代表との謁見の際の典礼についても詳しく指示、とくにパークス公使の接待は慎重にと忠告。翌日、老中首席板倉勝静や、陸軍総裁松平乗謨がロッシュを訪ねて、さらに詳しく説明を聞き、慶喜の謁見はヨーロッパの宮廷の作法にのっとった儀式を参考に準備されたということ。
尚、このときの慶喜については、パークス公使やミットフォード書記官、サトウらもかなり好印象を持ち、サトウはパークス公使が幕府寄りにならないか心配したほどだったということですが、フランス料理の接待などの裏でロッシュとフランス公使館員が動いていたとは。
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4-3、ロッシュ、幕府瓦解後に失意の離日
慶応4年(1868年)王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れ、慶喜は江戸へ逃げ帰りと、幕府は瓦解へ一直線となったが、ロッシュはあくまでも慶喜サイド。江戸に帰った慶喜をロッシュは3度も訪問し、着任したばかりのフランス極東艦隊司令官オイエ提督を伴って再起を計るように勧告まで。しかし慶喜は関東直領の保全と名目上の隠居をするつもりと言い、ロッシュは新政府に調停の役を買って出たが、結果として工作は失敗。
そしてフランス本国では外相が更迭され、新しい外相には、ロッシュの極度の幕府への肩入れは本国の意向を無視した個人外交的とみなされ、対日政策に危惧を感じ始めたということで、ヨーロッパでのイギリスとフランスの関係も考慮されたため、フランス外務省はロッシュに帰国命令を出したが、帰国命令が届いたのは幕府崩壊後だったそう。尚、後任公使には穏健なマクシム・ウートレーが任命されたということ。
しかし帰国を前にしたロッシュは、イタリア公使ド・ラ・トゥールが新潟開港を主張したのに賛成し、全面的に支持、尚、パークスは真向から反対。明治元年(1868年)6月には横浜のフランス公使館で、新政府代表の神奈川裁判所総督東久世通禧らと各国代表と会談の席上で、ロッシュは法理論上正当な見解でパークスと東久世を論破したなど、最後までがんばったということ。
ロッシュは6月24日、日本を去り、帰国後は公的な地位につかず、フランス諸地方を旅行し、アフリカにおける32年の自叙伝(このなかでは日本でのことにまったく触れておらず、思い出したくもなかったか、または日本のことを書く前に亡くなったとも)を書くなど悠々自適の生活に。明治34年(1901年)ボルドー郊外で90歳で死去。
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幕府に入れあげすぎてキャリアを失ったが、日本の近代化には貢献
レオン・ロッシュはフランス革命の有名人の係累で、裕福な家の出身。父が農園を経営して成功したためにアルジェリアへ行きアラビア語を取得、軍の通訳として異民族との交渉を巧みに行う有能さを買われて外交官に抜擢され、幕末の日本へ派遣された人。
日本では通訳として雇ったメルメ・ド・カションが親しかった関係で、幕臣との付き合いが始まり、またイギリスのパークス公使との競争心もあって外交官の中立性を超えて幕府に入れあげてしまい、幕府瓦解と共に公使も解任。幕末のややこしい日本での正確な情報収集能力は、有能な逸材が多かったイギリスの後塵を拝したのですが、しかし幕府のために色々なアドバイスを行い、横須賀海軍工廠を設立したなど、ロッシュもまた日本の近代化に貢献した人物として忘れてはならない人であることは確かでしょう。