メルメ・ド・カションとは
ウジェーヌ・エマニュエル・メルメ・カションカションは、ジラール神父、ルイ・テオドル・フューレ神父と共に、安政2年(1855年)1月、フランス商船で琉球王国の首里に到着して上陸を許され、聖現寺のちに那覇の中心部へ移んでしばらく在住、厳重な監視のもとにいたせいか洗礼を受けた人はひとりだけだが、日本語を習得したということ。その後はいったん香港へ戻り、安政5年(1858年)5月、日仏修好通商条約締結のフランス特命全権使節として日本に派遣される予定のグロ男爵に、通訳として採用され条約の調印に立ち会い、グロ男爵とは不和でまた香港へ。
安政6年(1859年)11月、礼拝堂建設のため箱館に到着してフランス語を教え始め、また箱館奉行竹内保徳の協力で元町付近に仮聖堂を建てたということ。さらに病院の建設にも着手したが、ロシア正教会司祭団が先に建てたため実現せず。カションは箱館で、竹内や栗本鋤雲と親しく付き合うようになり、「英仏和辞典」「宣教師用会話書」「アイヌ語小辞典」などを編集。のち清国在住特命全権公使となった塩田三郎や文久遣欧使節の通訳となった立広作は、カションと同居してフランス語を勉強していたということ。
カションは文久3年(1863年)春頃に箱館を離れて、初代駐日フランス公使ド・ベルクールの通訳として、江戸のフランス公使館に居住。7月頃に家庭の事情でフランスに向けて日本を離れ、フランス外国宣教会から除名。文久4年(1864年)4月に日本に戻り、レオン・ロッシュの通訳に。
カションは日本語がペラペラで、幕府とフランスの関係強化に大きな役割を果たしたが、西郷隆盛からは「奸物」、勝海舟からは「妖僧」と言われ、カトリック宣教師で結婚できないはずがお梶という日本人女性と事実婚関係にあったなど、あまり評判がよろしくないところもあり。
2-4、ロッシュ、外交団のトップに
四国艦隊下関砲撃事件は結果的には成功だったが、実行後にイギリス本国から許可しない通達が届いたため、イギリス公使オールコックは辞任となり、外相ラッセルの命令で帰国させられることに。また慶応元年(1865年)4月にはアメリカ公使プリュインが帰国したために、ロッシュが列強の外交団中、先任首席公使の地位になったということで、ロッシュはメルメ・カションの旧知の外国奉行栗本鋤雲から小栗上野介といった幕臣たちと急速に接近していくことに。
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2-5、ロッシュ、第一次長州征伐に援助
幕府のほうもロッシュに大いに信頼を寄せるようになり、第一次長州征伐に対しても物心両面の援助を要請。ロッシュも幕府の長州征伐成功を考えて、四国や九州の大名が長州と同調する前にはやく進軍すべきとアドバイスし、このときのイギリス公使はウィンチェスター代理公使だったので、ロッシュは優位に立っていたせいもあり、幕府にイギリス公使は優遇して警戒するように忠告したということ。
2-6、ロッシュ、幕府の軍事作戦顧問に
幕府の長州征伐の準備は将軍家茂の命で進められたが、なにしろ寛永14年(1837年)の島原の乱以来、戦乱の経験がなかったこと、幕臣の中に戦略に通じたものがいなかったため、アフリカのアルジェリア従軍の経験のあるロッシェに老中が意見を求めたということ。
ロッシュは喜んで老中に対して、戦争の準備や、武器、軍隊、編成、兵站食糧について、野戦、攻城の戦術から戦場では人道的であるべきことまで説諭。ロッシュはこれをさらに文書にするために横浜のフランス公使館に栗本を招いて、ロッシュが口述しカションが日本語に訳し栗本が筆記して「覚書」として幕府に提出するという念の入れようで、戦争に負けると必ず殺されるとなれば、死に物狂いに反抗してくるため、寛容を旨にして敵愾心を失わせた方が良いとし、そのための方法をあれこれと教示して戦わずして勝つ心理作戦まで説いたそう。
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2-7、ロッシュ、イギリス代理公使に工作
ロッシュは幕府に戦略を説く一方で、長州に肩入れする諸外国が武器弾薬等の軍需品を供給してはいかんと考え、イギリス代理公使ウィンチェスターに、表面的に中立としながらも、長州藩の砲台再武装をさせないためのイギリス軍艦派遣を要請。ロッシュは長州藩への軍需品密売禁止が本音で、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ外交団は内乱不干渉、軍需品密売禁止の共同決議という結果になり、ロッシュは外交手腕が発揮できたということ。
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