その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、レオン・ロッシュはグルノーブルの生まれ
- 1-2、ロッシュ、アルジェリアの父を訪ねる
- 1-3、ロッシュ、アフリカ軍通訳官に
- 1-4、ロッシュ、外交官に
- 2-1、ロッシュ公使来日
- 2-2、ロッシュ、四国艦隊下関砲撃事件に参加
- 2-3、ロッシュ、通訳を雇う
- 2-4、ロッシュ、外交団のトップに
- 2-5、ロッシュ、第一次長州征伐に援助
- 2-6、ロッシュ、幕府の軍事作戦顧問に
- 2-7、ロッシュ、イギリス代理公使に工作
- 3-1、ロッシュが行った功績
- 3-2、横須賀製鉄所の建設
- 3-2、フランス語学校を設立
- 3-3、フランス式陸軍編成を導入
- 4-1、イギリス公使、ハリー・パークスが着任
- 4-2、ロッシュ、15代将軍慶喜に入れ込むように
- 4-3、ロッシュ、幕府瓦解後に失意の離日
- 幕府に入れあげすぎてキャリアを失ったが、日本の近代化には貢献
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新の頃に来日した外国人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、レオン・ロッシュ公使について5分でわかるようにまとめた。
1-1、レオン・ロッシュはグルノーブルの生まれ
ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュは1809年9月27日、フランスのグルノーブルで誕生。ロッシュの大伯父はフランス革命後、ジロンド党から選ばれて、2度内務大臣をつとめたロラン・ド・ラ・プラティエールで、大伯母はフランス革命の大立者ローラン夫人。ロッシュは、ローラン夫妻の娘ウードーフ・ローランの所領で育ったということ。
ロッシュはグルノーブル中学からトゥルノンの高校を最優秀の成績で卒業し、1828年に大学入学資格試験であるバカロレアに合格後、グルノーブル大学法科に入学。しかし、わずか半年で退学。
こちらの記事もおすすめ
5分でわかる「フランス革命」!歴女が大まかな流れをわかりやすく解説!
大伯母ロラン夫人とは
ロラン夫人(1754年3月17日 – 1793年11月8日)は、本名マリー=ジャンヌ・フィリポン・ロラン、ラ・プラティエール子爵夫人で、フランス革命のジロンド派の指導者の1人。ジロンド派の黒幕的存在で、ジロンド派の女王と呼ばれたそう。そして「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した後、ギロチンで処刑。
1-2、ロッシュ、アルジェリアの父を訪ねる
ロッシュの父はアルジェ遠征軍に同行した御用商人で、戦後、アルジェ近郊のブフアム・レイスで大規模な農園を経営し成功していたので、ロッシュをアルジェリアに呼んだそう。ロッシュは父の住むブフアム・レイスの村を中心に、奥地まで歩き回ってアラビア人の友だちを作り、アラビア語にも堪能に。
1-3、ロッシュ、アフリカ軍通訳官に
1836年、アルジェリアの総督にクロ―ゼル将軍が新たに任命され、25歳のロッシュをアフリカ軍通訳官に任じ、自分の右腕にしたということ。ロッシュは叛乱軍鎮圧のための作戦に加わり、危険を犯して負傷した兵を救出して殊勲をあらわしたそう。そしてロッシュは、アルジェリアを支配する大首長が異教徒には憎悪を持っていたが、改宗してイスラム教徒になると寛大になることを知り、カトリックを捨ててイスラム教に改宗、シ・オマル・ベン・ルーシュと改名。
ロッシュはその後、フランス軍に戻って通訳官として勤務、新総督ビュジョー元帥のアルジェリア政策に尽力した結果、首席通訳官に昇進、1842年から翌年までメッカ巡礼として潜行、メッカの首長に働きかけを行い、フランスと密約を結ぶ交渉を行ったということ。そして賜暇休暇を利用してローマへ行きカ卜リックに再改宗しようとしたが、ビュジョー元帥の親書で謁見したローマ教皇から思いとどまるべきと説諭されたそう。
1-4、ロッシュ、外交官に
1849年、ビュジョー元帥が亡くなった後、ロッシュは軍籍を離れたが、40歳でタンジェの総領事に任命。タンジェではサルタン・サドクの信任を得て、皇帝ナポレオン3世とサドクとの親善会見が実現、両元首間の密約成立につながったそう。また1857年、チュニス総領事、代理公使としてチュニス占領に外交面で協力も。そしてアルジェリアでの勲功により、フランス政府はロッシュを駐日全権公使に任じて極東に送ることに。
2-1、ロッシュ公使来日
安政5年(1858年)フランスは、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダと前後して江戸幕府と修好通商条約を締結。このときの特命全権公使はグロ男爵、2年後の万延元年(1860年)9月にデュシェーヌ・ド・ベルクール代理公使が信任状を徳川将軍の大君に奉呈してフランス日本間に正式な外交関係が成立、最初の駐日フランス公使館は芝(現在の港区三田)の済海寺だったということ。当時は、安政6年(1859年)5月に着任したイギリス総領事でのちに公使になったラザフォード・オールコックが近くの東禅寺がイギリス公使館で、イギリスとフランス両国の対日政策は協調的に、同じように進められていたということです。
ロッシュの来日は元治元年(1864年)4月で55歳のとき、デュシェーヌ・ド・ベルクールの跡の2代目駐日公使として着任。イギリス公使のオールコックは賜暇休暇で一時帰国後、1月に帰任していたので、ロッシュはオールコックと協調しつつ日本の情勢判断を行なったが、ロッシュが取り組んだ最初の課題は、下関海峡の自由通航問題だったということ。
こちらの記事もおすすめ
最初の駐日イギリス公使「ラザフォード・オールコック」について歴女がわかりやすく解説
2-2、ロッシュ、四国艦隊下関砲撃事件に参加
長州藩が外国商船に対して攘夷を実行し、下関を通過できず長崎港がマヒ状態に。そしてイギリス公使オールコックは長州に対して武力行使を行うため、本国イギリスに許可を求めたそう。しかしオールコック公使はその返事を待たずにアメリカ、オランダ、フランス公使らにも参加を呼び掛けたということ。
ロッシュは、幕府の意向を外国奉行竹本隼人正(竹明)に確かめたが、幕府には長州藩を制圧する力を持たず、また外国が武力行使で勝利したとき、日本でのイギリスの影響力が優勢となるのを恐れていると判明。そこで、ロッシュは東洋分遣艦隊司令官ジョーレス少将からイギリス艦隊司令官キューパー中将にイギリス側の真意を打診して局地的戦闘であると確かめた後にオールコックに同意することに。ジョーレス少将もロッシュがイギリス側の真意を確かめたことで、納得して攻撃に参加できたということ。
2-3、ロッシュ、通訳を雇う
ロッシュはアラビア語には堪能でしたが、日本語は出来なかったので、日本語に通じたカトリックのジェズイット宣教師のメルメ・ド・カションを通訳として起用、幕府との接触に当ったということ。そしてカションのコネクションで幕府と繋がっていくことに。
\次のページで「2-4、ロッシュ、外交団のトップに」を解説!/