今回はレオン・ロッシュを取り上げるぞ。幕末の駐日フランス公使ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新の頃に来日した外国人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、レオン・ロッシュ公使について5分でわかるようにまとめた。

1-1、レオン・ロッシュはグルノーブルの生まれ

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ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュは1809年9月27日、フランスのグルノーブルで誕生。ロッシュの大伯父はフランス革命後、ジロンド党から選ばれて、2度内務大臣をつとめたロラン・ド・ラ・プラティエールで、大伯母はフランス革命の大立者ローラン夫人。ロッシュは、ローラン夫妻の娘ウードーフ・ローランの所領で育ったということ。

ロッシュはグルノーブル中学からトゥルノンの高校を最優秀の成績で卒業し、1828年に大学入学資格試験であるバカロレアに合格後、グルノーブル大学法科に入学。しかし、わずか半年で退学。

大伯母ロラン夫人とは
ロラン夫人(1754年3月17日 - 1793年11月8日)は、本名マリー=ジャンヌ・フィリポン・ロラン、ラ・プラティエール子爵夫人で、フランス革命のジロンド派の指導者の1人。ジロンド派の黒幕的存在で、ジロンド派の女王と呼ばれたそう。そして「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した後、ギロチンで処刑。

1-2、ロッシュ、アルジェリアの父を訪ねる

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ロッシュの父はアルジェ遠征軍に同行した御用商人で、戦後、アルジェ近郊のブフアム・レイスで大規模な農園を経営し成功していたので、ロッシュをアルジェリアに呼んだそう。ロッシュは父の住むブフアム・レイスの村を中心に、奥地まで歩き回ってアラビア人の友だちを作り、アラビア語にも堪能に。

1-3、ロッシュ、アフリカ軍通訳官に

1836年、アルジェリアの総督にクロ―ゼル将軍が新たに任命され、25歳のロッシュをアフリカ軍通訳官に任じ、自分の右腕にしたということ。ロッシュは叛乱軍鎮圧のための作戦に加わり、危険を犯して負傷した兵を救出して殊勲をあらわしたそう。そしてロッシュは、アルジェリアを支配する大首長が異教徒には憎悪を持っていたが、改宗してイスラム教徒になると寛大になることを知り、カトリックを捨ててイスラム教に改宗、シ・オマル・ベン・ルーシュと改名。

ロッシュはその後、フランス軍に戻って通訳官として勤務、新総督ビュジョー元帥のアルジェリア政策に尽力した結果、首席通訳官に昇進、1842年から翌年までメッカ巡礼として潜行、メッカの首長に働きかけを行い、フランスと密約を結ぶ交渉を行ったということ。そして賜暇休暇を利用してローマへ行きカ卜リックに再改宗しようとしたが、ビュジョー元帥の親書で謁見したローマ教皇から思いとどまるべきと説諭されたそう。

1-4、ロッシュ、外交官に

1849年、ビュジョー元帥が亡くなった後、ロッシュは軍籍を離れたが、40歳でタンジェの総領事に任命。タンジェではサルタン・サドクの信任を得て、皇帝ナポレオン3世とサドクとの親善会見が実現、両元首間の密約成立につながったそう。また1857年、チュニス総領事、代理公使としてチュニス占領に外交面で協力も。そしてアルジェリアでの勲功により、フランス政府はロッシュを駐日全権公使に任じて極東に送ることに。

2-1、ロッシュ公使来日

安政5年(1858年)フランスは、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダと前後して江戸幕府と修好通商条約を締結。このときの特命全権公使はグロ男爵、2年後の万延元年(1860年)9月にデュシェーヌ・ド・ベルクール代理公使が信任状を徳川将軍の大君に奉呈してフランス日本間に正式な外交関係が成立、最初の駐日フランス公使館は芝(現在の港区三田)の済海寺だったということ。当時は、安政6年(1859年)5月に着任したイギリス総領事でのちに公使になったラザフォード・オールコックが近くの東禅寺がイギリス公使館で、イギリスとフランス両国の対日政策は協調的に、同じように進められていたということです。

ロッシュの来日は元治元年(1864年)4月で55歳のとき、デュシェーヌ・ド・ベルクールの跡の2代目駐日公使として着任。イギリス公使のオールコックは賜暇休暇で一時帰国後、1月に帰任していたので、ロッシュはオールコックと協調しつつ日本の情勢判断を行なったが、ロッシュが取り組んだ最初の課題は、下関海峡の自由通航問題だったということ。

2-2、ロッシュ、四国艦隊下関砲撃事件に参加

長州藩が外国商船に対して攘夷を実行し、下関を通過できず長崎港がマヒ状態に。そしてイギリス公使オールコックは長州に対して武力行使を行うため、本国イギリスに許可を求めたそう。しかしオールコック公使はその返事を待たずにアメリカ、オランダ、フランス公使らにも参加を呼び掛けたということ。

ロッシュは、幕府の意向を外国奉行竹本隼人正(竹明)に確かめたが、幕府には長州藩を制圧する力を持たず、また外国が武力行使で勝利したとき、日本でのイギリスの影響力が優勢となるのを恐れていると判明。そこで、ロッシュは東洋分遣艦隊司令官ジョーレス少将からイギリス艦隊司令官キューパー中将にイギリス側の真意を打診して局地的戦闘であると確かめた後にオールコックに同意することに。ジョーレス少将もロッシュがイギリス側の真意を確かめたことで、納得して攻撃に参加できたということ。

2-3、ロッシュ、通訳を雇う

ロッシュはアラビア語には堪能でしたが、日本語は出来なかったので、日本語に通じたカトリックのジェズイット宣教師のメルメ・ド・カションを通訳として起用、幕府との接触に当ったということ。そしてカションのコネクションで幕府と繋がっていくことに。

\次のページで「2-4、ロッシュ、外交団のトップに」を解説!/

メルメ・ド・カションとは
ウジェーヌ・エマニュエル・メルメ・カションカションは、ジラール神父、ルイ・テオドル・フューレ神父と共に、安政2年(1855年)1月、フランス商船で琉球王国の首里に到着して上陸を許され、聖現寺のちに那覇の中心部へ移んでしばらく在住、厳重な監視のもとにいたせいか洗礼を受けた人はひとりだけだが、日本語を習得したということ。その後はいったん香港へ戻り、安政5年(1858年)5月、日仏修好通商条約締結のフランス特命全権使節として日本に派遣される予定のグロ男爵に、通訳として採用され条約の調印に立ち会い、グロ男爵とは不和でまた香港へ。

安政6年(1859年)11月、礼拝堂建設のため箱館に到着してフランス語を教え始め、また箱館奉行竹内保徳の協力で元町付近に仮聖堂を建てたということ。さらに病院の建設にも着手したが、ロシア正教会司祭団が先に建てたため実現せず。カションは箱館で、竹内や栗本鋤雲と親しく付き合うようになり、「英仏和辞典」「宣教師用会話書」「アイヌ語小辞典」などを編集。のち清国在住特命全権公使となった塩田三郎や文久遣欧使節の通訳となった立広作は、カションと同居してフランス語を勉強していたということ

カションは文久3年(1863年)春頃に箱館を離れて、初代駐日フランス公使ド・ベルクールの通訳として、江戸のフランス公使館に居住。7月頃に家庭の事情でフランスに向けて日本を離れ、フランス外国宣教会から除名。文久4年(1864年)4月に日本に戻り、レオン・ロッシュの通訳に。

カションは日本語がペラペラで、幕府とフランスの関係強化に大きな役割を果たしたが、西郷隆盛からは「奸物」、勝海舟からは「妖僧」と言われ、カトリック宣教師で結婚できないはずがお梶という日本人女性と事実婚関係にあったなど、あまり評判がよろしくないところもあり。

2-4、ロッシュ、外交団のトップに

四国艦隊下関砲撃事件は結果的には成功だったが、実行後にイギリス本国から許可しない通達が届いたため、イギリス公使オールコックは辞任となり、外相ラッセルの命令で帰国させられることに。また慶応元年(1865年)4月にはアメリカ公使プリュインが帰国したために、ロッシュが列強の外交団中、先任首席公使の地位になったということで、ロッシュはメルメ・カションの旧知の外国奉行栗本鋤雲から小栗上野介といった幕臣たちと急速に接近していくことに。

2-5、ロッシュ、第一次長州征伐に援助

幕府のほうもロッシュに大いに信頼を寄せるようになり、第一次長州征伐に対しても物心両面の援助を要請。ロッシュも幕府の長州征伐成功を考えて、四国や九州の大名が長州と同調する前にはやく進軍すべきとアドバイスし、このときのイギリス公使はウィンチェスター代理公使だったので、ロッシュは優位に立っていたせいもあり、幕府にイギリス公使は優遇して警戒するように忠告したということ。

2-6、ロッシュ、幕府の軍事作戦顧問に

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幕府の長州征伐の準備は将軍家茂の命で進められたが、なにしろ寛永14年(1837年)の島原の乱以来、戦乱の経験がなかったこと、幕臣の中に戦略に通じたものがいなかったため、アフリカのアルジェリア従軍の経験のあるロッシェに老中が意見を求めたということ。

ロッシュは喜んで老中に対して、戦争の準備や、武器、軍隊、編成、兵站食糧について、野戦、攻城の戦術から戦場では人道的であるべきことまで説諭。ロッシュはこれをさらに文書にするために横浜のフランス公使館に栗本を招いて、ロッシュが口述しカションが日本語に訳し栗本が筆記して「覚書」として幕府に提出するという念の入れようで、戦争に負けると必ず殺されるとなれば、死に物狂いに反抗してくるため、寛容を旨にして敵愾心を失わせた方が良いとし、そのための方法をあれこれと教示して戦わずして勝つ心理作戦まで説いたそう。

2-7、ロッシュ、イギリス代理公使に工作

ロッシュは幕府に戦略を説く一方で、長州に肩入れする諸外国が武器弾薬等の軍需品を供給してはいかんと考え、イギリス代理公使ウィンチェスターに、表面的に中立としながらも、長州藩の砲台再武装をさせないためのイギリス軍艦派遣を要請。ロッシュは長州藩への軍需品密売禁止が本音で、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ外交団は内乱不干渉、軍需品密売禁止の共同決議という結果になり、ロッシュは外交手腕が発揮できたということ。

\次のページで「3-1、ロッシュが行った功績」を解説!/

3-1、ロッシュが行った功績

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不明 - circa 1865 photograph. Reproduction in "Soie et Lumieres", Christian Polak., パブリック・ドメイン, リンクによる

フランスは、1860年代にヨーロッパで発生した蚕の疫病で絹織物産業が苦境にあったので、健康な日本の蚕種をあてにして養蚕と絹織物産業を再興しようと考えたということ。なので本国の意向もあって、ロッシュは日本の生糸貿易の独占を狙っていたために、通訳のカションを通じて幕臣たちと接近して信頼を得ようとしたわけなのですが、日本側から見れば、結果的に幕府の近代化促進となったことをまとめてみました。

3-2、横須賀製鉄所の建設

この頃の日本にはまだ船の修繕や建設が出来る造船所がなかったが、元治元年(1864年)初めころに、軍艦翔鶴丸が損傷し、ロッシュの周旋で横浜に来航中のフランス軍艦ゲリエール号の乗組員であった技術士官や職工が修理したのがきっかけとなり、幕府から小規模の製鉄所建設の企画が栗本鋤雲を介して小栗上野介からロッシュに持ち込まれたということ。

ロッシュはチャンス到来として分遣艦隊司令官ジョーレス少将に相談、ジョーレス少将から、当時、中国寧波(ニンポー)で河用砲艦の建造に従事していたフランソア・レオンス・ヴェルニー海軍技師が推薦されて、ロッシュはフランス本国の海軍大臣に許可を求めたということ。尚、ヴェルニーの推薦は偶然中国にいたということと、ヴェルニーの夫人がロッシュの姪という関係もあったそう。

ヴェルニーはさっそく来日して候補地を視察後、フランスのツーロン軍港と酷似していると横須賀に決定。ツーロン港の3分の2の大きさの工廠の詳細な建設案を作成し、その年の11月には老中水野忠精と若年寄酒井忠比が一切の工事をフランスに托す約定書を交わしたということ。この件についてロッシュは、もし、この工廠建設をフランスが拒絶すれば他国が必ず受諾するので、政治や貿易上での我が国が受ける損害は甚大であること。そして日本の炭鉱は豊富で有望なのでフランス人技師の手で開発されたうえに、フランスの技術、学術の移入が行なわれることになれば、将来、諸国を凌いで日本での優位を占める可能性が大きい、とフランス政府に報告書を送ったそう。

尚、この横須賀海軍工廠は太平洋戦争時まで存在し多数の軍艦が建造され、現在は在日アメリカ軍基地内で船の修理に利用されているということ。

幕府がこの先どうなるかわからないのに作るのかと言われた小栗上野介が「幕府の運命には限りがあるが、日本の運命には限りがない。結局は幕府のしたことが長く日本のためになれば徳川家の名誉ではないか。同じ売り家にしても土蔵付売家の方がよい」と言ったのは有名。

また幕府はロッシュを通じてフランスに大砲を注文したため、慶応元年(1865年)6月に16門のカノン砲が横浜に到着して幕府に引き渡されたということ。

3-2、フランス語学校を設立

ロッシュは横須賀製鉄所が稼働するようになると、多くのフランス人技師、職工が働くようになると考えて、通訳養成のフランス語学校を横浜に作る必要があると判断。当時はメルメ・ド・カションが主催する少人数の学生にフランス語を教えるアカデミー・エトランジュールがあったが、ロッシュは幕府に正式のフランス語学校設立を申し出、若年寄酒井忠比、小栗上野介、栗本鋤雲らが中心になり、元治2年(1865年)3月6日横浜弁天通りに開校することに。

ロッシュは全面的に応援し、名もフランス語では(College franco‐japonai)日本訳では横浜仏語伝習所または横浜仏語学校と呼ばれたということ。メルメ・ド・カションが校長を務め、最初の入学生は14歳から20歳の57名で、かなり高度の教育で親仏的な外交官、軍人、通訳の養成を目的としたものだったということですが、慶応4年(1868年)、幕府の瓦解とロッシュの帰国で廃校に。

ロッシュはほかにもパリ万国博参加を勧めたということ。

3-3、フランス式陸軍編成を導入

ロッシュは幕府に依頼され、陸軍再編成のための軍事教官団派遣をフランス本国の陸軍省へ申し入れ、フランス側もこれを了承して参謀大尉シャノワーヌ、騎兵大尉デシャルム、砲兵大尉ブリューネら14名が、慶応3年(1867年)初頭に来日し、横浜で練兵を開始したということ。

また、勘定奉行小栗上野介が財政の基礎を固めるための計画にも援助、特に軍事費調達に600万ドルの借款契約成立のために画策したということで、代償として生糸に対する対日貿易独占を求めたということ。

尚、ライバル意識を燃やしたパークス公使が、海軍はイギリス式にとイギリス海軍を呼び、明治後も陸軍はフランス式からドイツ式に変更されたが、海軍はイギリス式となってライバル関係が続いたということ。

4-1、イギリス公使、ハリー・パークスが着任

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パブリック・ドメイン, リンク

慶応3年(1865年)7月、37歳の新任イギリス公使ハリー・パークスが横浜に着任。パークスは13歳から中国で暮らした現地採用の叩き上げの外交官で、来日前は上海領事だった人。

パークスは上海から長崎に到着して日本国内の情勢を見分し、その後に下関で長州藩のイギリス留学経験のある伊藤博文と井上馨、木戸孝允らに会って情報を入手、事前調査をしたうえで着任したが、当時のイギリス公使館には、日本語ペラペラで情報通の有能過ぎる通訳官アーネスト・サトウ、貴族出身で半年で日本語が出来るようになったA・B・ミットフォード(パークスの1年後に着任)、医官でもあるウィリアム・ウィリスらが揃っていたわけです。パークスはスタッフに恵まれ、さらにスタッフに日本の文化や言葉の研究を奨励したこともあり、混迷する当時の日本に着任したにもかかわらず正確な状況判断が出来たということで、あくまで中立を保つ姿勢を持ちながら、薩摩や長州の志士たちを支援し、倒幕にも一役買うように。

尚、A・B・ミットフォードによれば、ロッシュとパークスはお互いに憎みあい、2人の女のように嫉妬しあっていたということ。

4-2、ロッシュ、15代将軍慶喜に入れ込むように

14代将軍家茂の死後、慶応2年(1866年)12月、慶喜が15代将軍となったが、イギリスのパークス公使が薩摩藩と長州藩と手を結ぶ一方で、ロッシュは慶喜の人物に入れ込んでますます幕府を援助するように。さらに幕政改革の構想を建言し幕府中心の統一政権確立に努めたということで、これは慶応の改革として実現。

また慶喜は将軍就任したのちに各国の外交代表の謁見することになっていたが、ロッシュは将車慶喜の権威を発揮させる絶好の機会として大坂で慶喜に面会し、内外の政策への意見を述べたうえで兵庫開港の決行を勧告。また各国外交代表との謁見の際の典礼についても詳しく指示、とくにパークス公使の接待は慎重にと忠告。翌日、老中首席板倉勝静や、陸軍総裁松平乗謨がロッシュを訪ねて、さらに詳しく説明を聞き、慶喜の謁見はヨーロッパの宮廷の作法にのっとった儀式を参考に準備されたということ。

尚、このときの慶喜については、パークス公使やミットフォード書記官、サトウらもかなり好印象を持ち、サトウはパークス公使が幕府寄りにならないか心配したほどだったということですが、フランス料理の接待などの裏でロッシュとフランス公使館員が動いていたとは。

4-3、ロッシュ、幕府瓦解後に失意の離日

慶応4年(1868年)王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れ、慶喜は江戸へ逃げ帰りと、幕府は瓦解へ一直線となったが、ロッシュはあくまでも慶喜サイド。江戸に帰った慶喜をロッシュは3度も訪問し、着任したばかりのフランス極東艦隊司令官オイエ提督を伴って再起を計るように勧告まで。しかし慶喜は関東直領の保全と名目上の隠居をするつもりと言い、ロッシュは新政府に調停の役を買って出たが、結果として工作は失敗。

そしてフランス本国では外相が更迭され、新しい外相には、ロッシュの極度の幕府への肩入れは本国の意向を無視した個人外交的とみなされ、対日政策に危惧を感じ始めたということで、ヨーロッパでのイギリスとフランスの関係も考慮されたため、フランス外務省はロッシュに帰国命令を出したが、帰国命令が届いたのは幕府崩壊後だったそう。尚、後任公使には穏健なマクシム・ウートレーが任命されたということ。

しかし帰国を前にしたロッシュは、イタリア公使ド・ラ・トゥールが新潟開港を主張したのに賛成し、全面的に支持、尚、パークスは真向から反対。明治元年(1868年)6月には横浜のフランス公使館で、新政府代表の神奈川裁判所総督東久世通禧らと各国代表と会談の席上で、ロッシュは法理論上正当な見解でパークスと東久世を論破したなど、最後までがんばったということ。

ロッシュは6月24日、日本を去り、帰国後は公的な地位につかず、フランス諸地方を旅行し、アフリカにおける32年の自叙伝(このなかでは日本でのことにまったく触れておらず、思い出したくもなかったか、または日本のことを書く前に亡くなったとも)を書くなど悠々自適の生活に。明治34年(1901年)ボルドー郊外で90歳で死去。

幕府に入れあげすぎてキャリアを失ったが、日本の近代化には貢献

レオン・ロッシュはフランス革命の有名人の係累で、裕福な家の出身。父が農園を経営して成功したためにアルジェリアへ行きアラビア語を取得、軍の通訳として異民族との交渉を巧みに行う有能さを買われて外交官に抜擢され、幕末の日本へ派遣された人。

日本では通訳として雇ったメルメ・ド・カションが親しかった関係で、幕臣との付き合いが始まり、またイギリスのパークス公使との競争心もあって外交官の中立性を超えて幕府に入れあげてしまい、幕府瓦解と共に公使も解任。幕末のややこしい日本での正確な情報収集能力は、有能な逸材が多かったイギリスの後塵を拝したのですが、しかし幕府のために色々なアドバイスを行い、横須賀海軍工廠を設立したなど、ロッシュもまた日本の近代化に貢献した人物として忘れてはならない人であることは確かでしょう。

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明治維新で幕府に入れ込んだ「レオン・ロッシュ」このフランス公使を歴女がわかりやすく解説

今回はレオン・ロッシュを取り上げるぞ。幕末の駐日フランス公使ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新の頃に来日した外国人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、レオン・ロッシュ公使について5分でわかるようにまとめた。

1-1、レオン・ロッシュはグルノーブルの生まれ

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ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュは1809年9月27日、フランスのグルノーブルで誕生。ロッシュの大伯父はフランス革命後、ジロンド党から選ばれて、2度内務大臣をつとめたロラン・ド・ラ・プラティエールで、大伯母はフランス革命の大立者ローラン夫人。ロッシュは、ローラン夫妻の娘ウードーフ・ローランの所領で育ったということ。

ロッシュはグルノーブル中学からトゥルノンの高校を最優秀の成績で卒業し、1828年に大学入学資格試験であるバカロレアに合格後、グルノーブル大学法科に入学。しかし、わずか半年で退学。

大伯母ロラン夫人とは
ロラン夫人(1754年3月17日 – 1793年11月8日)は、本名マリー=ジャンヌ・フィリポン・ロラン、ラ・プラティエール子爵夫人で、フランス革命のジロンド派の指導者の1人。ジロンド派の黒幕的存在で、ジロンド派の女王と呼ばれたそう。そして「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した後、ギロチンで処刑。

1-2、ロッシュ、アルジェリアの父を訪ねる

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ロッシュの父はアルジェ遠征軍に同行した御用商人で、戦後、アルジェ近郊のブフアム・レイスで大規模な農園を経営し成功していたので、ロッシュをアルジェリアに呼んだそう。ロッシュは父の住むブフアム・レイスの村を中心に、奥地まで歩き回ってアラビア人の友だちを作り、アラビア語にも堪能に。

1-3、ロッシュ、アフリカ軍通訳官に

1836年、アルジェリアの総督にクロ―ゼル将軍が新たに任命され、25歳のロッシュをアフリカ軍通訳官に任じ、自分の右腕にしたということ。ロッシュは叛乱軍鎮圧のための作戦に加わり、危険を犯して負傷した兵を救出して殊勲をあらわしたそう。そしてロッシュは、アルジェリアを支配する大首長が異教徒には憎悪を持っていたが、改宗してイスラム教徒になると寛大になることを知り、カトリックを捨ててイスラム教に改宗、シ・オマル・ベン・ルーシュと改名。

ロッシュはその後、フランス軍に戻って通訳官として勤務、新総督ビュジョー元帥のアルジェリア政策に尽力した結果、首席通訳官に昇進、1842年から翌年までメッカ巡礼として潜行、メッカの首長に働きかけを行い、フランスと密約を結ぶ交渉を行ったということ。そして賜暇休暇を利用してローマへ行きカ卜リックに再改宗しようとしたが、ビュジョー元帥の親書で謁見したローマ教皇から思いとどまるべきと説諭されたそう。

1-4、ロッシュ、外交官に

1849年、ビュジョー元帥が亡くなった後、ロッシュは軍籍を離れたが、40歳でタンジェの総領事に任命。タンジェではサルタン・サドクの信任を得て、皇帝ナポレオン3世とサドクとの親善会見が実現、両元首間の密約成立につながったそう。また1857年、チュニス総領事、代理公使としてチュニス占領に外交面で協力も。そしてアルジェリアでの勲功により、フランス政府はロッシュを駐日全権公使に任じて極東に送ることに。

2-1、ロッシュ公使来日

安政5年(1858年)フランスは、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダと前後して江戸幕府と修好通商条約を締結。このときの特命全権公使はグロ男爵、2年後の万延元年(1860年)9月にデュシェーヌ・ド・ベルクール代理公使が信任状を徳川将軍の大君に奉呈してフランス日本間に正式な外交関係が成立、最初の駐日フランス公使館は芝(現在の港区三田)の済海寺だったということ。当時は、安政6年(1859年)5月に着任したイギリス総領事でのちに公使になったラザフォード・オールコックが近くの東禅寺がイギリス公使館で、イギリスとフランス両国の対日政策は協調的に、同じように進められていたということです。

ロッシュの来日は元治元年(1864年)4月で55歳のとき、デュシェーヌ・ド・ベルクールの跡の2代目駐日公使として着任。イギリス公使のオールコックは賜暇休暇で一時帰国後、1月に帰任していたので、ロッシュはオールコックと協調しつつ日本の情勢判断を行なったが、ロッシュが取り組んだ最初の課題は、下関海峡の自由通航問題だったということ。

2-2、ロッシュ、四国艦隊下関砲撃事件に参加

長州藩が外国商船に対して攘夷を実行し、下関を通過できず長崎港がマヒ状態に。そしてイギリス公使オールコックは長州に対して武力行使を行うため、本国イギリスに許可を求めたそう。しかしオールコック公使はその返事を待たずにアメリカ、オランダ、フランス公使らにも参加を呼び掛けたということ。

ロッシュは、幕府の意向を外国奉行竹本隼人正(竹明)に確かめたが、幕府には長州藩を制圧する力を持たず、また外国が武力行使で勝利したとき、日本でのイギリスの影響力が優勢となるのを恐れていると判明。そこで、ロッシュは東洋分遣艦隊司令官ジョーレス少将からイギリス艦隊司令官キューパー中将にイギリス側の真意を打診して局地的戦闘であると確かめた後にオールコックに同意することに。ジョーレス少将もロッシュがイギリス側の真意を確かめたことで、納得して攻撃に参加できたということ。

2-3、ロッシュ、通訳を雇う

ロッシュはアラビア語には堪能でしたが、日本語は出来なかったので、日本語に通じたカトリックのジェズイット宣教師のメルメ・ド・カションを通訳として起用、幕府との接触に当ったということ。そしてカションのコネクションで幕府と繋がっていくことに。

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