今日は士族反乱について勉強していきます。士族反乱とは明治時代の初期、明治政府に反発する士族が起こした反政府活動であり、その活動は一度では終わらない。

佐賀の乱から始まり西南戦争まで、士族反乱とはこの一連の活動を意味するもので、覚えることはなかなか多い。そこで今回、士族反乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から士族反乱をわかりやすくまとめた。

士族の解体

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権威が低下した士族

江戸時代が終わって明治時代が始まると、士族はその立場が一変します。明治政府の方針は日本の近代化、外国の技術や文化を取り入れて軍事力を高めようと考える中、これまでのように武士として優遇されることはなくなってしまいました。要するに、明治時代の日本では刀の時代は終わったのです。

思えば江戸時代の末期、日本は西洋列強と対等に渡り合える強さを手にしようとしました。「強い日本を作るためには今のままではいけない」と人々は立ち上がり、明治維新と呼ばれる革命を起こして倒幕を果たしますが、その中心となったのは薩摩藩や長州藩の士族ですね。

しかしそれはもう過去のこと、日本の近代化に向けて明治政府は国の制度を根本から変えなければならず、政治・経済・法律全てにおいて改めての見直しが必要となりました。その結果、江戸時代は武力と権力を持つエリート層だった士族も、近代国家においては不要とされたのです。

秩禄処分と廃刀令の不満

明治政府は不要となった士族を解体してしまおうと考えます。まず行ったのは1876年の秩禄処分、士族は家ごと、さらに戊辰戦争による功績で秩禄と呼ばれる給与を受け取っていましたが、明治政府にとってこれを支払い続けることは徐々に負担となったきたのです。

何しろ、近代国家実現には多額の費用がかかりますから、明治政府は士族に大きなお金を支払うほどの余裕はなかったのでしょう。そのため秩禄処分を行って秩禄の支給を打ち切り、さらに廃刀令を制定して刀を差しての外出を禁じます。いずれも士族にとって大きな不満となる改革でした。

秩禄の打ち切りは生活に影響しますし、武士である士族にとって刀は命、それを所持できないことは士族のプライドを傷つけます。もう明治政府に我慢ならないと爆発寸前となった士族達、これをきっかけに各地では士族反乱と呼ばれる反乱が次々と勃発していきました。

士族反乱その1

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\次のページで「1874年 佐賀の乱」を解説!/

1874年 佐賀の乱

1874年、佐賀県にて佐賀の乱と呼ばれる士族の反乱が起こります。戦いを専門とする士族、当然軍隊の役割を任せられると思ったものの、明治政府は徴兵令によって士族とは全く違った兵を集めて作ろうとしました。士族からすればそれは仕事を奪われたのと同然であり、そのため激しく抗議します。

ここで佐賀へと帰ってきたのが江藤新平島義勇、二人とも名のある有力者でした。江藤新平は佐賀の七賢者の一人に数えられるほど有能で、明治時代において司法卿に任命されたほどの人物。司法卿とは司法省のトップであり、現在で例えるなら法務大臣に相当する地位になります。

しかし、大久保利通と折り合いが悪く、そのため江藤新平は明治政府に見切りをつけて故郷の佐賀へと戻ってきたのでした。そして、島義勇も佐賀の七賢者の一人に数えられる人物で、北海道の開拓を任せられる開拓使のリーダーを務めており、何もない湿地帯に街を作った実績があります。

江藤新平と島義勇の反乱軍

開拓使として功績を上げた島義勇でしたが、明治政府と金銭的なトラブルを起こしたため解雇、そのため故郷の佐賀へと戻ってきたのです。こうした事情によって佐賀へと戻った江藤新平と島義勇、そこで不平士族は二人をリーダーに立てると佐賀の乱を引き起こしました。

反乱の知らせを聞いた明治政府の大久保利通は、鎮圧のため徴兵令によって集めた軍を向かわせます。佐賀城を制圧してさらに反乱を拡大させる反乱軍でしたが、明治政府の派遣した軍には敵わず壊滅させられてしまい、不平士族が引き起こした佐賀の乱はこれでひとまず収まりました。

反乱軍の大将だった江藤新平と島義勇は大久保利通によって打ち首の刑となります。しかし、この処罰は士族のみならず外国からも批判され、そのため打ち首で処刑された後ではあるものの、二人の行いは明治天皇によって許されることになりました。

士族反乱その2

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1876年 神風連の乱

1876年、熊本にて神風連の乱と呼ばれる反乱が起こります。元々明治政府に不満を持つ不平士族でしたが、1876年に廃刀令が制定させるとその怒りはとうとう爆発、佐賀の乱が起こったことも影響して、熊本でもまた反乱を起こそうと多くの不平士族が立ち上がりました。

反乱を起こしたのは敬神党と呼ばれるメンバーで、その正体は約170名からなる旧肥後藩にあった教育方針を巡る三大派閥の一つ。学と神道を基本とする教育を重視していた勤王党において、中でも明治政府に強い不満を持つグループが集まって結成されていました。

そのリーダーは複数確認されており、旧肥後藩の士族・大田黒伴雄や斎藤求三郎らが挙げられます。1876年の10月、敬神党のメンバーは分かれて熊本の陸軍司令官・種田政明と熊本の県令・安岡良亮の自宅を襲撃、これが神風連の乱の勃発の狼煙となったのです。

敬神党による襲撃

夜中に襲撃されたこともあって種田政明と安岡良亮は死亡、さらに複数の役人を殺害した敬神党は熊本城も襲撃して明治政府の兵士を次々と殺害していきました。もちろん政府政府も黙っておらず、児玉源太郎将校が駆けつけるとすぐさま反撃、敬神党のリーダーもまた死傷することになりました。

不意の襲撃で次々と殺害を繰り返した敬神党でしたが、リーダーを失ってしまうと意外に脆く、メンバーの多くは民家へと逃げ込んだ後に自害しています。170名もの勢力で反乱を起こした敬神党、最終的には124名もの死者を出してしまい、生き残ったメンバーも逮捕されて反乱は収まりました。

ちなみに、熊本市の桜山神社では神風連の烈士が祀られており、境内の中には神風連資料館も建てられています。さて、佐賀の乱に呼応して神風連の乱が起きたように、神風連の乱もまた別の反乱を引き起こすきっかけとなり、不平士族による反乱はまだ続いていくのでした。

\次のページで「士族反乱その3、その4」を解説!/

士族反乱その3、その4

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1876年 秋月の乱

1876年、福岡県にて秋月の乱と呼ばれる反乱が起こりました。1876年という年から分かるとおり、秋月の乱は同年に熊本で起こった神風連の乱に呼応されて起こったもの。今村百八郎を隊長として約400名もの不平士族が立ち上がり、秋月党と名乗って兵を挙げました。

まず、明言寺にて説得を試みた警官の穂波半次郎を殺害しますが、反乱鎮圧に駆け付けた大日本帝国陸軍によって反撃されると、秋月党は解散して逃走していきました。秋月党の壊滅には至らなかったものの、逃走と解散という点から考えてこの反乱も失敗に終わったと考えて良いでしょう。

最も、隊長の今村百八郎を含む一部の者は反乱を諦めておらず、秋月に戻ると討伐隊の本部を襲撃して県の高官を殺害。その後は再び逃走しますが、やがて発見されると逮捕されました。秋月党にとって計算外だったのは、反乱を引き起こした際に手を組むはずだった杉生十郎がその時監禁されてしまっていたことでしょう。

1876年 萩の乱

1876年、山口県の萩にて萩の乱と呼ばれる反乱が起こりました。反乱を引き起こしたのは明治政府の要人・前原一誠で、戊辰戦争では参謀を務めて維新の十傑に数えられるほどの英雄。明治維新後も参議や兵部大輔に任命されたものの、徴兵令に反対して明治政府に失望しました。

同年に起こった神風連の乱や秋月の乱を知った前原一誠は、自らも反乱を起こそうと計画を勧めます。萩の旧藩校である明倫館を拠点として、松下村塾の元塾生を中心とした200名で反乱軍を結成、県庁を襲って反乱を起こすことを計画したのです。

最も、その計画は事前に明治政府へと洩れてしまったため失敗、200人の軍勢がいたところでそれ以上何もできません。前原一誠が期待した反乱を起こすことはできず、他の反乱同様に短期間にて鎮圧されてしまいました。前原一誠は打ち首の刑に処され、反乱に関わった松下村塾は一時的に閉鎖することになったのです。

最後の士族反乱

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1877年 西南戦争

士族反乱の最後となるのは1877年の西南戦争、反乱軍のリーダーとなったのは維新の三傑に数えられる西郷隆盛です。時を遡ること1872年、欧米に出港した岩倉使節団が帰国すると、西郷隆盛は征韓論を訴えて武力によって朝鮮を開国すべきと主張しました。

ところが大久保利通や岩倉具視らはこれに反対、日本はまず国内の統治に尽力して富国強兵を優先すべきと反論します。大久保利通も岩倉具視も岩倉使節団として外国を回っており、ドイツのビスマルクから富国強兵の重要さを説かれていたため、西郷隆盛の主張に反論するのはむしろ当然だったかもしれません。

征韓論に敗北した西郷隆盛は明治政府に失望して役職を辞任、故郷の鹿児島へと戻っていきました。こうして鹿児島へと戻った西郷隆盛、しかし九州の治安は不平士族による立て続けの暴動で悪化しており、これを危惧した西郷隆盛は私学校を設立して士族の教育を目指しました。

西郷隆盛の死

西郷隆盛の私学校は明治政府にとってまさに脅威、士族が集結してなおかつそこに明治政府を辞任した西郷隆盛がいるのですからね。反乱を怖れた明治政府、1877年に鹿児島で保管されていた武器弾薬の大阪への移動を決断、しかしそれを目撃した士族は明治政府に激しく抗議しました。

打倒明治政府に気持ち高ぶる士族達、さすがの西郷隆盛はこれを止める術はなく、自らリーダーとなり反乱軍を結成すると明治政府に戦いを挑んだのでした。こうして起こった西南戦争、やがて敗北を悟った西郷隆盛は負傷した末、自害して戦争の終結と同時に人生の幕を降ろします。

またしても反乱に失敗した不平士族、士族反乱の全てに敗北したことで士族は武力による明治政府打倒は不可能と悟ったに違いありません。そこで士族は自由民権運動に参加して言論という形で明治政府に対抗、一方の明治政府はさらに権力を高めて当初目的としていた近代国家を目指していくことになるのです。

士族反乱のメインは西南戦争!

士族反乱では5つの反乱が起こりますが、中でも重点的に覚えるべきなのはやはり西南戦争でしょう。西南戦争は他の反乱に比べて大規模なことはもちろん、西郷隆盛が関係している点も重要ですね。

また、倒幕時には望まれていた明治政府がなぜ士族の不満を高めて不平士族を生んだのか?……その原因を理解するのも大切。これが分からなければ士族反乱が起こった理由も理解できなくなってしまいます。

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不平士族が引き起こした5つの「士族反乱」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は士族反乱について勉強していきます。士族反乱とは明治時代の初期、明治政府に反発する士族が起こした反政府活動であり、その活動は一度では終わらない。

佐賀の乱から始まり西南戦争まで、士族反乱とはこの一連の活動を意味するもので、覚えることはなかなか多い。そこで今回、士族反乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から士族反乱をわかりやすくまとめた。

士族の解体

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権威が低下した士族

江戸時代が終わって明治時代が始まると、士族はその立場が一変します。明治政府の方針は日本の近代化、外国の技術や文化を取り入れて軍事力を高めようと考える中、これまでのように武士として優遇されることはなくなってしまいました。要するに、明治時代の日本では刀の時代は終わったのです。

思えば江戸時代の末期、日本は西洋列強と対等に渡り合える強さを手にしようとしました。「強い日本を作るためには今のままではいけない」と人々は立ち上がり、明治維新と呼ばれる革命を起こして倒幕を果たしますが、その中心となったのは薩摩藩や長州藩の士族ですね。

しかしそれはもう過去のこと、日本の近代化に向けて明治政府は国の制度を根本から変えなければならず、政治・経済・法律全てにおいて改めての見直しが必要となりました。その結果、江戸時代は武力と権力を持つエリート層だった士族も、近代国家においては不要とされたのです。

秩禄処分と廃刀令の不満

明治政府は不要となった士族を解体してしまおうと考えます。まず行ったのは1876年の秩禄処分、士族は家ごと、さらに戊辰戦争による功績で秩禄と呼ばれる給与を受け取っていましたが、明治政府にとってこれを支払い続けることは徐々に負担となったきたのです。

何しろ、近代国家実現には多額の費用がかかりますから、明治政府は士族に大きなお金を支払うほどの余裕はなかったのでしょう。そのため秩禄処分を行って秩禄の支給を打ち切り、さらに廃刀令を制定して刀を差しての外出を禁じます。いずれも士族にとって大きな不満となる改革でした。

秩禄の打ち切りは生活に影響しますし、武士である士族にとって刀は命、それを所持できないことは士族のプライドを傷つけます。もう明治政府に我慢ならないと爆発寸前となった士族達、これをきっかけに各地では士族反乱と呼ばれる反乱が次々と勃発していきました。

士族反乱その1

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