日本史歴史江戸時代

政権の安定・維持を目的にした「武家諸法度」大名に対する法令を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

元和令から続いた条文の変更

1683年に第5代将軍・徳川綱吉が天和令と呼ばれる武家諸法度を発令、ここで武家諸法度は再び大きな改定をしました。最も、文治政治にならった改定であることは徳川家綱と同じですが、ここでの武家諸法度改定はそれがより強くあらわれたものになっています。

まず武家諸法度の対象を大名だけでなく旗本や御家人へと拡大、これは元々旗本や御家人に対して発令していた諸士法度と統合したためです。また、前回の寛文令では口上のみに留まっていた殉死の禁止を文書で示すことにしました。

そして、何より大きな変更点は元和冷から続いていた第1条の条文を「文武弓馬の道、専ら相嗜むこと」から「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと」へと変えたことでしょう。要するに、「これまでのような馬術や弓の鍛錬ではなく、これからは学問や礼儀を重要視するべき」と示したのです。

その後の武家諸法度

このようにして、より文治政治の影響が強くなった武家諸法度。天和令では条文が21か条から15か条に減っていますが、これはいくつかの条文が統合されたのが理由であり、寛文令以前の武家諸法度を否定しているわけではありません。

武家諸法度はその後も続いていき、またやはり定期的に改定もされますが、ただ大きく変化が見られたのは天和令までです。1710年には第6代将軍・徳川家宣が正徳令と呼ばれる武家諸法度を発令、これは宝永令とも呼ばれているものですね。

そして1717年には第8代将軍・徳川吉宗が享保令と呼ばれる武家諸法度を発令、これはさらなる改定ではなく正徳令(宝永令)を天和令へと戻したものでした。これ以降も武家諸法度は続いていきますが、内容としては天和令を基本としたものでした。

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第5代将軍・徳川綱吉が発令した武家諸法度は、文治政治の影響をより強く受けたものになっており、これまで一度も変更されることのなかった第1条の条文まで改定された。武家諸法度が存在感を見せたのはこのあたりまでだろう。

元和に基づいた呼び名を覚えて区別しよう!

武家諸法度のポイントは、元和令や寛永令など元号に基づいた呼び名を覚えることです。何しろ何度も発令されているため、元号に基づいた呼び名で覚えなければ混乱してしまいます。

また、ワンポイントとして元和令……つまり、最初の武家諸法度に注意してください。これは徳川家康が発令したように思えますが、徳川家康はこれを考案しただけで、発令したのは当時の将軍・徳川秀忠です。

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