今日は武家諸法度(ぶけしょはっと)について勉強していきます。時代劇を見ていると、禁じられた行為に対して「それはご法度だ!」などというセリフを耳にすることがあるでしょう。

また武家とは武士のことで、すなわち武家諸法度は武士が行ってはいけないことを定めた法律です。さあ、イメージできたところで今回は武家諸法度について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から武家諸法度をわかりやすくまとめた。

武家諸法度発令までの流れ

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徳川家の政権掌握

武家諸法度が制定されたのは江戸時代のこと、1615年に第2代将軍・徳川秀忠が発令しました。初代将軍・徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利したのが1600年、正式に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いたのが1603年ですから、武家諸法度は徳川家が政権を握るようになって10年ほど経った頃に制定されたことになりますね。

さて、ここで少し気になるのが徳川家康。徳川家康は武家諸法度が制定された時には既に将軍職を退いており、正確には2年で将軍職を息子の徳川秀忠に譲っているのですが、天下統一を果たした徳川家康がなぜたった2年で将軍職を譲ることになったのかを考えていきましょう。

通常なら将軍職を退く理由は信頼低下や病気を想像しますが、徳川家康の場合はそのどちらでもなく、2年で将軍職を退いたことはむしろ徳川家康の思惑どおりだったのです。これは、徳川家康が「江戸幕府と将軍職は代々徳川家が引き継いでいくもの」と世間に知らしめるのが目的でした。

徳川家康の狙い

そもそも徳川家康は自分が生きているうちに息子の徳川秀忠へと将軍職を譲ることを望んでいました。そして、将軍職を退いた後は大御所として政治の実権を握ることを考えていたのです。分かりやすく言えば、将軍のバックにつく大物としての立場を狙っていたのでしょう。

ですから徳川家康にとって将軍職を退くのは完全な想定内、問題はそのタイミングでした。実は関ヶ原の戦いで勝利して江戸幕府を開いた徳川家康でしたが、日本の情勢を見るとまだ予断を許さない状態で、なぜなら豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼がいたことで豊臣家の力が依然として残っていたからです。

そこで、徳川家康は早い段階で将軍職を徳川秀忠に譲ることを決意。「徳川家→徳川家」へと将軍職を引き継ぐ様を世間に見せて、「江戸幕府と将軍の地位は代々徳川家のものだ!」と早々に宣言したかったのです。こうして、徳川家康を引き継いで息子の徳川秀忠が第2代将軍の座につきました。

1615年 武家諸法度の制定

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\次のページで「政権を安定・維持するための法令作り」を解説!/

政権を安定・維持するための法令作り

1615年、大阪夏の陣によって豊臣家が滅亡。これで徳川家は怖れるものがなくなり、この時点で完全に政権の掌握を握ることになります。これは徳川家に限ったことではないですが、政権掌握を目指す者がそれを成功させた場合、次に考えることは掌握した政権の安定と維持でしょう。

いくら豊臣家が滅亡したとは言え、日本の各地には大勢の大名が存在していますし、その大名達が反乱を起こしてしまえばいくら徳川家が強力でも多勢に無勢ですからね。そこで徳川家は各地の大名の反発を防止するための法令を考案して同年……つまり1615年に制定、それが武家諸法度です。

つまり武家諸法度とは、政権を掌握した徳川家がそれを安定・維持させることを目的として定めた法令であり、その法令とは「武家」の言葉が示すとおり大名に向けられたものでした。発令したのは当時の将軍・徳川秀忠ですが、実際にこれを考えたのは徳川家康です。

武家諸法度の主な内容

1615年に発令された武家諸法度、13か条で示された決まり事の文言を作ったのは臨済宗の僧侶・金地院崇伝(こんちいんすうえん)です。また、武家諸法度の名で知られている一方で元和令とも呼ばれており、これは発令された1615年が元和元年にあたる元号だったためでした。

武家諸法度の主な内容を挙げると、注目すべき箇所が2つあります。1つ目に「大名は新たな城の築城や居城の修理を幕府に無断で行ってはならない」というもの。これは、武家諸法度が発令されるほんの1ヶ月前に出された一国一城令の補足のようなもので、城を奪うことで大名の軍事力を低下させるのが目的です。

そして2つ目に「幕府の許可なしで大名同士による政略結婚を行ってはならない」というもの。結婚すればその大名同士が親密な関係になるのは明白で、協力することで幕府の脅威になるかもしれません。つまり、大名が団結して幕府の反対勢力にならないことを目的としたものです。

武家諸法度の改定

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改定と発令を繰り返した武家諸法度

1635年、第3代将軍・徳川家光は武家諸法度を発令しました。さて、これはどういうことなのでしょうか。実は武家諸法度は将軍が代わるたびに改定や発令を繰り返しており、むしろ発令しなかったケースが稀。徳川家の将軍は幕末の15代まで続きますが、このうち武家諸法度を発令しなかったのは第7代将軍・徳川家継と第15代将軍・徳川慶喜のみです。

「発令しなかった」という言葉を正確に解釈するなら、初代将軍である徳川家康もそこに含まれますね。最も、これは現在の法律にも言えることで、個人情報保護法やストーカー規制法など、法律というのは国の情勢にあわせてたびたび修正・改定・追加が行われるものです。

武家諸法度もその例外ではなく、1635年に発布された武家諸法度は改定されて19か条の決まり事が示されました。この時文言を作ったのは朱子学派儒学者の林羅山(はやしらざん)で、発令したのは前述したとおり第3代将軍の徳川家光。やはり発令された年の元号を取って寛永令とも呼ばれます。

参勤交代は1635年の武家諸法度で制定

1635年の武家諸法度の注目点は主に2つであり、1つ目に500石積以上の大型船の所持を禁止する大船建造の禁、2つ目に参勤交代です。大船建造の禁は、その目的の根本となるのは一国一城令などと同じで大名の戦力を削ぐこと。軍船を没収することで大名の水軍力を低下させるのが狙いでした。

そして参勤交代ですが、これは単に武家諸法度の1か条としてではなく江戸幕府の政治政策として覚えるべき必要のある有名な制度です。各地の大名が江戸に1年間住んで江戸城の警備を行い、それを終えると国元に戻って1年間住み、そしてまた江戸へ行く……この繰り返しを義務化したものですね。

参勤交代は江戸と国元の往復で莫大な費用がかかる点から、以前は大名の財産を削って軍事力を低下させることが目的と言われていました。しかし、この目的については改訂されつつあり、現在では将軍と大名の主従関係を確認させることが目的だった可能性が高いとされています。

武断政治から文治政治への変化

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武断政治が引き起こした治安の悪化

第4代将軍・徳川家綱の時代になると、政治の方向性に変化が起こります。これまでは武力と権力によって大名を取り締まっており、それは武家諸法度の内容を見ても明らかですね。また、その規定を守らず違反した大名には領地の没収・身分の剥奪など厳しい処罰を与えていました。

その結果多くの大名が姿を消すことになり、仕えていた者達は主を失ったことで牢人と呼ばれる武士になってしまいます。そして、行き場をなくした牢人達は暴力を振るって自由に生きるならず者状態、当然日本の治安は悪化して幕府にとってもそれは危惧する事態となりました。

そんな幕府の不安は的中、1651年には慶安の変と呼ばれる幕府への反乱計画が発覚、さらに翌年にも承応の変と呼ばれる牢人による幕府の老中への襲撃計画が発覚。幕府に対する反発事件が次々と行ったことで、幕府は政治の方向性を変えることを決断したのです。

文治政治への切り替えと武家諸法度への影響

武力と権力で取り締まる武断政治では逆に反発を招いてしまう……それならばと考えたのが、武力や権力ではなく学問を重んじる文治政治。そして、学問の中でも特に朱子学を重んじることにしたのが徳川家綱でした。そして、この政治の方向性の変化が武家諸法度にも影響します。

徳川家綱は1663年に寛文令とも呼ばれる21か条からなる武家諸法度を発布、この改定ではキリスト教が禁止され、また口上ではありますが殉死を禁止しました。主の後を追う殉死は一つの美とされていましたが、これでは能力のある後継ぎが命を失ってしまうことになるため藩も安定しないでしょう。

藩が安定しなければ一揆や反乱が起こりやすく、それを防ぐためにも殉死は禁止。生活の安定を奪い去った武力による厳しい武断政治を改め、話し合いや法律を大切に考える文治政治に切り替えることで、これまでと違った方法で全国の支配体制を整えようとしたのです。

さらなる武家諸法度の改定

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\次のページで「元和令から続いた条文の変更」を解説!/

元和令から続いた条文の変更

1683年に第5代将軍・徳川綱吉が天和令と呼ばれる武家諸法度を発令、ここで武家諸法度は再び大きな改定をしました。最も、文治政治にならった改定であることは徳川家綱と同じですが、ここでの武家諸法度改定はそれがより強くあらわれたものになっています。

まず武家諸法度の対象を大名だけでなく旗本や御家人へと拡大、これは元々旗本や御家人に対して発令していた諸士法度と統合したためです。また、前回の寛文令では口上のみに留まっていた殉死の禁止を文書で示すことにしました。

そして、何より大きな変更点は元和冷から続いていた第1条の条文を「文武弓馬の道、専ら相嗜むこと」から「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと」へと変えたことでしょう。要するに、「これまでのような馬術や弓の鍛錬ではなく、これからは学問や礼儀を重要視するべき」と示したのです。

その後の武家諸法度

このようにして、より文治政治の影響が強くなった武家諸法度。天和令では条文が21か条から15か条に減っていますが、これはいくつかの条文が統合されたのが理由であり、寛文令以前の武家諸法度を否定しているわけではありません。

武家諸法度はその後も続いていき、またやはり定期的に改定もされますが、ただ大きく変化が見られたのは天和令までです。1710年には第6代将軍・徳川家宣が正徳令と呼ばれる武家諸法度を発令、これは宝永令とも呼ばれているものですね。

そして1717年には第8代将軍・徳川吉宗が享保令と呼ばれる武家諸法度を発令、これはさらなる改定ではなく正徳令(宝永令)を天和令へと戻したものでした。これ以降も武家諸法度は続いていきますが、内容としては天和令を基本としたものでした。

元和に基づいた呼び名を覚えて区別しよう!

武家諸法度のポイントは、元和令や寛永令など元号に基づいた呼び名を覚えることです。何しろ何度も発令されているため、元号に基づいた呼び名で覚えなければ混乱してしまいます。

また、ワンポイントとして元和令……つまり、最初の武家諸法度に注意してください。これは徳川家康が発令したように思えますが、徳川家康はこれを考案しただけで、発令したのは当時の将軍・徳川秀忠です。

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日本史歴史江戸時代

政権の安定・維持を目的にした「武家諸法度」大名に対する法令を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

政権を安定・維持するための法令作り

1615年、大阪夏の陣によって豊臣家が滅亡。これで徳川家は怖れるものがなくなり、この時点で完全に政権の掌握を握ることになります。これは徳川家に限ったことではないですが、政権掌握を目指す者がそれを成功させた場合、次に考えることは掌握した政権の安定と維持でしょう。

いくら豊臣家が滅亡したとは言え、日本の各地には大勢の大名が存在していますし、その大名達が反乱を起こしてしまえばいくら徳川家が強力でも多勢に無勢ですからね。そこで徳川家は各地の大名の反発を防止するための法令を考案して同年……つまり1615年に制定、それが武家諸法度です。

つまり武家諸法度とは、政権を掌握した徳川家がそれを安定・維持させることを目的として定めた法令であり、その法令とは「武家」の言葉が示すとおり大名に向けられたものでした。発令したのは当時の将軍・徳川秀忠ですが、実際にこれを考えたのは徳川家康です。

武家諸法度の主な内容

1615年に発令された武家諸法度、13か条で示された決まり事の文言を作ったのは臨済宗の僧侶・金地院崇伝(こんちいんすうえん)です。また、武家諸法度の名で知られている一方で元和令とも呼ばれており、これは発令された1615年が元和元年にあたる元号だったためでした。

武家諸法度の主な内容を挙げると、注目すべき箇所が2つあります。1つ目に「大名は新たな城の築城や居城の修理を幕府に無断で行ってはならない」というもの。これは、武家諸法度が発令されるほんの1ヶ月前に出された一国一城令の補足のようなもので、城を奪うことで大名の軍事力を低下させるのが目的です。

そして2つ目に「幕府の許可なしで大名同士による政略結婚を行ってはならない」というもの。結婚すればその大名同士が親密な関係になるのは明白で、協力することで幕府の脅威になるかもしれません。つまり、大名が団結して幕府の反対勢力にならないことを目的としたものです。

武家諸法度の改定

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改定と発令を繰り返した武家諸法度

1635年、第3代将軍・徳川家光は武家諸法度を発令しました。さて、これはどういうことなのでしょうか。実は武家諸法度は将軍が代わるたびに改定や発令を繰り返しており、むしろ発令しなかったケースが稀。徳川家の将軍は幕末の15代まで続きますが、このうち武家諸法度を発令しなかったのは第7代将軍・徳川家継と第15代将軍・徳川慶喜のみです。

「発令しなかった」という言葉を正確に解釈するなら、初代将軍である徳川家康もそこに含まれますね。最も、これは現在の法律にも言えることで、個人情報保護法やストーカー規制法など、法律というのは国の情勢にあわせてたびたび修正・改定・追加が行われるものです。

武家諸法度もその例外ではなく、1635年に発布された武家諸法度は改定されて19か条の決まり事が示されました。この時文言を作ったのは朱子学派儒学者の林羅山(はやしらざん)で、発令したのは前述したとおり第3代将軍の徳川家光。やはり発令された年の元号を取って寛永令とも呼ばれます。

参勤交代は1635年の武家諸法度で制定

1635年の武家諸法度の注目点は主に2つであり、1つ目に500石積以上の大型船の所持を禁止する大船建造の禁、2つ目に参勤交代です。大船建造の禁は、その目的の根本となるのは一国一城令などと同じで大名の戦力を削ぐこと。軍船を没収することで大名の水軍力を低下させるのが狙いでした。

そして参勤交代ですが、これは単に武家諸法度の1か条としてではなく江戸幕府の政治政策として覚えるべき必要のある有名な制度です。各地の大名が江戸に1年間住んで江戸城の警備を行い、それを終えると国元に戻って1年間住み、そしてまた江戸へ行く……この繰り返しを義務化したものですね。

参勤交代は江戸と国元の往復で莫大な費用がかかる点から、以前は大名の財産を削って軍事力を低下させることが目的と言われていました。しかし、この目的については改訂されつつあり、現在では将軍と大名の主従関係を確認させることが目的だった可能性が高いとされています。

武断政治から文治政治への変化

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武断政治が引き起こした治安の悪化

第4代将軍・徳川家綱の時代になると、政治の方向性に変化が起こります。これまでは武力と権力によって大名を取り締まっており、それは武家諸法度の内容を見ても明らかですね。また、その規定を守らず違反した大名には領地の没収・身分の剥奪など厳しい処罰を与えていました。

その結果多くの大名が姿を消すことになり、仕えていた者達は主を失ったことで牢人と呼ばれる武士になってしまいます。そして、行き場をなくした牢人達は暴力を振るって自由に生きるならず者状態、当然日本の治安は悪化して幕府にとってもそれは危惧する事態となりました。

そんな幕府の不安は的中、1651年には慶安の変と呼ばれる幕府への反乱計画が発覚、さらに翌年にも承応の変と呼ばれる牢人による幕府の老中への襲撃計画が発覚。幕府に対する反発事件が次々と行ったことで、幕府は政治の方向性を変えることを決断したのです。

文治政治への切り替えと武家諸法度への影響

武力と権力で取り締まる武断政治では逆に反発を招いてしまう……それならばと考えたのが、武力や権力ではなく学問を重んじる文治政治。そして、学問の中でも特に朱子学を重んじることにしたのが徳川家綱でした。そして、この政治の方向性の変化が武家諸法度にも影響します。

徳川家綱は1663年に寛文令とも呼ばれる21か条からなる武家諸法度を発布、この改定ではキリスト教が禁止され、また口上ではありますが殉死を禁止しました。主の後を追う殉死は一つの美とされていましたが、これでは能力のある後継ぎが命を失ってしまうことになるため藩も安定しないでしょう。

藩が安定しなければ一揆や反乱が起こりやすく、それを防ぐためにも殉死は禁止。生活の安定を奪い去った武力による厳しい武断政治を改め、話し合いや法律を大切に考える文治政治に切り替えることで、これまでと違った方法で全国の支配体制を整えようとしたのです。

さらなる武家諸法度の改定

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