その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新の頃に来日した外国人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、トーマス・グラバーについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、トーマス・グラバーはスコットランドの生まれ
トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)は、1838年6月6日にスコットランドのフレイザーバラで、沿岸警備隊の1等航海士だった父トーマス・ベリー・グラバーとスコットランド人の母メアリーの間に、8人きょうだいの5人目として誕生。グラバーが11歳のとき、父が退官し造船業を始めるため一家はアバディーンに転居。グラバーはギムナジウム(中学高校教育)を卒業した後、1859年、21歳のときに「ジャーデン・マセソン商会」の船の積み荷係として上海へ渡り、ついで長崎へやってきたということ。
1-2、グラバー商会を設立
「維新の港の英人たち」サー・ヒュー・コータッツィ著によれば、グラバーは、日英修好通商条約の発効直後の安政6年(1859年)9月に長崎に来て、イギリス領事館に「スコットランドの貿易商K・R・マッケンジーの社員」及び「ジャーデン・マセソン商会の代理人」として登録。そして2年後の文久元年(1861年)5月に、マッケンジーが揚子江河畔の都市漢口に移ろうとしたので、グラバーはフランシス・グルームと共同で独立して総代理店を設立、ジャーデン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会の長崎代理店である「グラバー商会」を設立して、貿易業を営むように。
1-3、最初の関心はお茶だった
グラバーは最初、日本からイギリスへ日本茶を輸出することに注目、そして生糸、石炭、木綿、毛織商品を手掛けたそう。特に文久3年(1863年)以後、日本産の石炭に着目して購入、輸出しようとしたが、幕末の情勢から薩摩、長州など西南雄藩に対し、武器弾薬や汽船を売るように。
またそのときに坂本龍馬の亀山社中を仲介にしたのは有名で、明治後、亀山社中の後身である海援隊は岩崎弥太郎に引き継がれて三菱財閥の基礎となったため、グラバーと岩崎三菱は関係が深いそう。
グラバーが売った汽船の数は20隻で長崎に輸入された数の30%にあたり、金額は117万6000ドルにもなり、この利益はジャーデン・マセソン商会と二等分に。
当時イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスは慶応2年(1866年)の私信で、貿易商人グラバーが日本人に武器だの危険極まりない器具だのを供給し、薩摩候はグラバー商会に対し多額の責務があるため、これを利用してイギリス公使パークスの薩摩訪問と会談を実現させたと書き送ったということ。
ジャーデン・マセソン商会とは
幕末、明治維新に必ず登場する会社ジャーデン・マセソン・ホールディングスは、170年経った現在も香港に本社を置く(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)イギリス系企業グループの持株会社で、前身は東インド会社、元は貿易商社。
1832年にスコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーデンとジェームス・マセソンが、当時ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港だった中国の広州(沙面島)に設立。中国語名は「怡和洋行」。設立当初の主な業務は、アヘン密輸、お茶の輸出。1840年から1842年の清とイギリスとのアヘン戦争にも深く関わり、アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際には、ジャーデン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会が9票という僅差で軍の派遣を決定したということ。
そして日本の開国以前から、沖縄、台湾、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していたが、江戸幕府が長崎港と函館港を開港直後の安政6年(1859年)には、上海支店のイギリス人ウィリアム・ケズィック(設立者ウィリアム・ジャーデンの甥)を日本に派遣。ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入。これはビジネス的には成功ではなかったが、ケズウィックは日本製の絹の品質の高さに対して将来性を感じたので、文久元年(1860年)初頭、横浜居留地1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーデン・マセソン商会」横浜支店を設立。長崎をはじめ、神戸・大阪・函館にも代理店を置いたということ。
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