今日は岩倉使節団について勉強していきます。明治時代になると日本は外国の交流を積極的に行うようになり、そのため政府の主力メンバーによって構成された岩倉使節団が作られた。

ただ、岩倉使節団は日本に産業や教育の発展をもたらした一方で、政府内部で対立を生む要因にもなる。今回は岩倉使節団について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から岩倉使節団をわかりやすくまとめた。

岩倉使節団の結成と目的

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岩倉使節団のメンバーと目的

江戸時代が終わって明治時代が始まると、明治政府は日本を大改革しようとしました。その目的は日本を強くするためで、欧米列強と対等に張り合えるよう国力を増強させることを考えたのです。さて、外国と対等な関係を築けるほどの国作りには、次の2つのことが欠かせません。

1つ目は外国と友好関係を築くことで、そのためには条約を結んでいる各国に赴いて元首に国書を渡さなければなりません。2つ目は日本の近代化を実現することで、そのためには発達した西洋文明を視察して参考にしなければならず、いずれにしても日本は外国に行く必要がありました。

そこで1871年に誕生したのが岩倉使節団、使節団とは「ある目的において国の代表として外国を訪れる団体のこと」を意味します。岩倉使節団は総勢107名の大使節団で、特命全権大使の岩倉具視をリーダーとして、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳らがメンバーとなりました。

岩倉使節団の旅路

岩倉使節団のメンバーに注目すると、代表となっているのは薩摩藩や長州藩出身の幕末に活躍した人物が多く、公家出身の岩倉具視も明治維新に貢献した人物です。後に解説しますがその他のメンバーの中にも出世した人物は多く、岩倉使節団は日本の中でも才能溢れるオールスターメンバーで構成されたと言えるでしょう。

1871年11月、岩倉使節団は横浜港から出港するとまずはサンフランシスコへと向かいました。その後はアメリカを横断してワシントンへ、さらに大西洋を渡るとイギリスへ、そしてフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを訪れます。

合計12か国を回った岩倉使節団、さらにアジア各国を訪れてから日本へと帰国、その旅は1871年12月から1873年9月までの1年10か月にも及びました。この岩倉使節団には一定の効果があり、後に多くの教育者や政治家が誕生することになったのです。

\次のページで「岩倉使節団に影響を与えたビスマルク」を解説!/

岩倉使節団に影響を与えたビスマルク

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岩倉使節団の成果

1年10か月かけて12か国をまわった岩倉使節団、とは言えその全てを覚えるのは大変ですから、ここは岩倉使節団の旅の中で重要なポイントに的を絞って覚えておきましょう。まずはその成果ですが、先程解説したように後に多くの教育者や政治家を誕生させた点で確かな成果はありました。

しかし一方で失敗もあり、明らかに失敗とされたのは不平等条約の改正です。日本は江戸時代の後期に外国と不平等条約を締結させており、実際に日米修好通商条約は幕府の信頼低下の要因にもなりました。このような条約が改定の期日を迎えていたため、岩倉使節団はこの機会に不平等条約の改正を図ろうとしたのです

しかしこれは失敗に終わってしまいました。岩倉使節団がドイツを訪問した際、ビスマルクがこれについての話をしています。岩倉使節団はビスマルクの夕食会に参加することになるのですが、そこでのビスマルクの言葉に岩倉使節団は大きな影響を受けたのです。

夕食会でのビスマルクの言葉

「日本は不平等条約の改正を目指しているようだが、弱い国が何を言っても無意味だ。日本にまず必要なのは富国強兵だ」とビスマルクは言いました。この言葉に感銘を受けた大久保利通は、日本にいる西郷隆盛に対してビスマルクのことを「大先生」と表現したほどです。

「ドイツも当初は小国だったが、富国強兵によって列強と対等に渡り合える地位を得た」、「イギリスやフランスが求める法整備は列強が有利になってしまう。そのためドイツのように富国強兵を優先すべき」……ビスマルクの言葉はどれも説得力がありました。

ビスマルクは小国だった頃のドイツを熟知しており、現在の日本は当時のドイツに似ていると思ったのです。それだけにビスマルクの言葉は岩倉使節団の心に残り、大久保利通や伊藤博文はこれにならった政策や思想を考えるようになりました。ビスマルクはまさに日本の政治家にとって手本となる存在だったに違いありません。

岩倉使節団と留守政府の対立

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主要人物不在となった日本

岩倉使節団が日本に帰国すると、そこで起こったのは対立でした。元々岩倉使節団を提案したのは大隈重信で、当初はもっと小規模な使節団をアメリカに送ろうと考えていたのです。しかし明治政府の思惑により、結果的に岩倉使節団は大規模な使節団となりました。

しかも使節団に任命されたのは政府の主要人物、当然岩倉使節団の権威は高まりますが、一方で日本は主要人物不在の状態となってしまいます。これを怖れた大久保利通や木戸孝允は、使節団の派遣中に大きな改正を行わないよう残った政治家……つまり留守政府に指示しました。

考えてみれはそれは当然で、主要人物不在の時に改正を行うことは、現在で例えるなら中心となる政治家不在の状態で法律を変えてしまうのと等しい行為ですからね。そのため、人事においても極力を行わないことを約束させ、その盟約書を締結させた上で岩倉使節団は日本を出港したのです。

\次のページで「岩倉使節団を怒らせた西郷隆盛の征韓論」を解説!/

岩倉使節団を怒らせた西郷隆盛の征韓論

大きな改正や人事を禁止された留守政府ですが、岩倉使節団との約束を守ってはいませんでした。当時の太政大臣・三条実美を筆頭にして西郷隆盛らは現状日本が抱える難題を議会のテーマにして話し合い、地租改正や徴兵制を積極的に行っていたのです。

最も、これらは既に政治的議題として挙がっていたため、岩倉使節団も全く知らぬ問題というわけではありません。ですから、地租改正や徴兵制についての議会は岩倉使節団も許容範囲だったかもしれませんが、決定的に怒らせることとなってしまったのが征韓論でした。

征韓論とは武力行使によって朝鮮を開国させようとする主張であり、これを強く唱えたのが西郷隆盛です。岩倉使節団が派遣されている最中、留守を任された三条実美や西郷隆盛らの中で朝鮮政府の親書受け取り拒否の問題が発生。そこで、西郷隆盛は武力によって朝鮮を開国させようと征韓論を唱え、しかもその支持者を拡大させていたのです。

征韓論を巡る対立

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西郷隆盛の主張

朝鮮政府の親書受け取り拒否の問題を受けた留守政府は、交渉使節の派遣や朝鮮の実情を知るための密偵を送って調査します。その結果明らかになったのは、「使節に対する侮辱」などの脅威であり、そのため日本では朝鮮に対する行動が話し合われることになりました。

西郷隆盛はここで自ら全権大使となって朝鮮に行くことを主張、繰り返し行われた議論を経て同意を得ることに成功しますが、明治天皇は岩倉使節団として派遣中の岩倉具視の帰国を待つようにと命令します。これは勅旨……すなわち天皇の命令書ですから、留守政府も無視することはできません。

そこで、留守政府は大人しく岩倉使節団の帰国を待ちました。そして1873年の9月、1年10か月ぶりに帰国した岩倉使節団に対して西郷隆盛は早速自らの征韓論を唱えますが、岩倉具視も大久保利通も木戸孝允もこれに猛反対。武力行使はもちろんのこと、西郷隆盛の全権大使についても反対したのです。

征韓論の敗北

岩倉使節団は1年10か月の中でアメリカと始めとして、イギリスやフランスの文化を目にしています。それに加えてドイツのビスマルクの影響、大久保利通らは日本は早急に富国強兵を行って殖産興業政策の着手に尽力すべきと考えており、もちろんそれは日本を強くするためでした。

蒸気機関の発達、紡績技術の進歩、軍事力の向上、日本を強くするためにはしなければならないことがいくつもあります。そんな時に朝鮮に出兵するなど国力を使うことは得策ではない、これは岩倉使節団として外国をまわった経験があってこそ導き出た結論だったのかもしれません。

このようにして征韓論を巡って西郷隆盛と大久保利通や岩倉具視らは対立、最終的には征韓論が敗れて幕引きとなりましたが、この論争で西郷隆盛は辞任を決断しました。それにしてもこの論争、これで終わることなくやがて起こる日本国内最後の内戦・西南戦争へとつながっていくのです。

西南戦争のいきさつと結末

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\次のページで「故郷に戻った西郷隆盛の思惑」を解説!/

故郷に戻った西郷隆盛の思惑

征韓論による対立は、1877年に起こる西南戦争の要因にもなりました。では、どのようにして戦争する流れになってしまったのかを見ていきましょう。征韓論の論争に敗北した西郷隆盛は政府を辞任、そのため故郷である鹿児島へと戻ってきました。

有名人である西郷隆盛の元には多くの支持者が集まってきましたが、その多くが明治政府に不満を抱いており、実際に九州の各地では政府に抗議するための暴動が頻繁に起こっていたのです。これを危惧した西郷隆盛は私学校を設立、そこで士族を正しく教育しようと考えました。

西郷隆盛にとって私学校は教育が必要な士族が集まる場。しかし、明治政府にはそのように映らず、西郷隆盛の私学校は政府に反発する士族が集まる脅威の場に見えました。仮に私学校の士族達が団結して反乱を起こせばそのリーダーとなるのはあの西郷隆盛、そう考えると明治政府が危険視するのも仕方ありません。

西南戦争とその結末

もちろん西郷隆盛に戦争する気など毛頭なく、むしろ行き場を失くした士族達の世話を明治政府に願うほどでした。しかし、明治政府は万一の事態を考えて薩摩藩の火薬庫に保管されていた武器弾薬を大阪へと移動、しかもそれを士族達に目撃されてしまったのです。

勝手に武器弾薬を移動しようとする明治政府に対して士族達は怒り、報復として明治政府の弾薬庫を襲撃していきました。こうなってしまうとさすがの西郷隆盛も士族達を制止することはできず、やむを得ず自らがリーダーとなって政治政府に戦いを挑んだのです

この戦いが1877年の西南戦争で、西南戦争は日本国内における最後の内戦となっています。この戦争によって反乱軍……すなわち西郷隆盛は敗北して死亡、維新の三傑と称えられて明治政府のために尽力した西郷隆盛は、皮肉にも明治時代において逆賊として人生を終えることになりました。

岩倉使節団がビスマルクの影響を受けたことを覚えておこう!

岩倉使節団のポイントは、ビスマルクが与えた影響です。ビスマルクとの夕食会の中、使節団のメンバーはビスマルクの言葉に感銘を受けてそれを日本の未来に活かそうとしています。

その点で充分重要ですし、富国強兵を優先する考えが征韓論を唱える西郷隆盛との対立も生みました。岩倉使節団の成果、その後の日本が目指したこと、征韓論の論争、ビスマルクの影響はこれら全てに関わっているのです。

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日本史明治歴史

ビスマルクの言葉が心を動かす!「岩倉使節団」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は岩倉使節団について勉強していきます。明治時代になると日本は外国の交流を積極的に行うようになり、そのため政府の主力メンバーによって構成された岩倉使節団が作られた。

ただ、岩倉使節団は日本に産業や教育の発展をもたらした一方で、政府内部で対立を生む要因にもなる。今回は岩倉使節団について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から岩倉使節団をわかりやすくまとめた。

岩倉使節団の結成と目的

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岩倉使節団のメンバーと目的

江戸時代が終わって明治時代が始まると、明治政府は日本を大改革しようとしました。その目的は日本を強くするためで、欧米列強と対等に張り合えるよう国力を増強させることを考えたのです。さて、外国と対等な関係を築けるほどの国作りには、次の2つのことが欠かせません。

1つ目は外国と友好関係を築くことで、そのためには条約を結んでいる各国に赴いて元首に国書を渡さなければなりません。2つ目は日本の近代化を実現することで、そのためには発達した西洋文明を視察して参考にしなければならず、いずれにしても日本は外国に行く必要がありました。

そこで1871年に誕生したのが岩倉使節団、使節団とは「ある目的において国の代表として外国を訪れる団体のこと」を意味します。岩倉使節団は総勢107名の大使節団で、特命全権大使の岩倉具視をリーダーとして、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳らがメンバーとなりました。

岩倉使節団の旅路

岩倉使節団のメンバーに注目すると、代表となっているのは薩摩藩や長州藩出身の幕末に活躍した人物が多く、公家出身の岩倉具視も明治維新に貢献した人物です。後に解説しますがその他のメンバーの中にも出世した人物は多く、岩倉使節団は日本の中でも才能溢れるオールスターメンバーで構成されたと言えるでしょう。

1871年11月、岩倉使節団は横浜港から出港するとまずはサンフランシスコへと向かいました。その後はアメリカを横断してワシントンへ、さらに大西洋を渡るとイギリスへ、そしてフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを訪れます。

合計12か国を回った岩倉使節団、さらにアジア各国を訪れてから日本へと帰国、その旅は1871年12月から1873年9月までの1年10か月にも及びました。この岩倉使節団には一定の効果があり、後に多くの教育者や政治家が誕生することになったのです。

\次のページで「岩倉使節団に影響を与えたビスマルク」を解説!/

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