日本史歴史江戸時代

実は経済通と再評価「田沼意次」賄賂がっぽり悪者定説のこの人物を歴女がわかりやすく解説

3-2、意次、大奥や大名に人脈作り

意次は家重の小姓を務めていた頃から大奥では絶大な人気があったということ。大奥は将軍以外は男子禁制だったが、小姓や御側衆という将軍側近だったために、大奥へ出入りする機会があり、意次も如才なく大奥の権力者で表御殿では老中にあたる御年寄から死も女中に至るまで贈り物をしてさらに人気を高めたそう。

将軍家治に側室を持つようにと、御年寄の松島と結びつき、家治に側室を持つよう勧めて、松島の部屋着き女中のお知保を側室にして世子家基が誕生したということ。このお千保は、意次の父の代から重用されていた奥医師の千賀道有の縁戚で、意次の側室はこの千賀の養女という関係になり、意次の側室が大奥を訪ねては贈り物をしたりなどして結びつきを強固にしたため、のちに意次が老中を解任されたときも大奥の大半は意次の味方で、御年寄たちが意次の復帰を新将軍家斉に働きかけたほど。

また意次は、家柄が低く頼りになる親戚がなかったため、自分の息子や娘たちを各大名家と縁組し、幕府内での権力を維持するために婚姻関係による人脈を作って権力の基盤を築いたということ。長男の意知は老中松平康福の娘と結婚させて、天明元年(1781年)ふつうは大名家の当主しか就任できない奏者番に就任し、天明3年(1783年)には若年寄に就任するなど異例の出世。さらに、次男の意正は老中水野忠友の養子に入り、長女は奏者番の西尾忠移にが嫁ぎ、次女は若年寄の井伊直朗に嫁いだということ。意次の甥なども入れると、西丸老中の鳥居忠意を除いて老中はすべて田沼の親類で固められるまでに。また江戸の両町奉行、勘定奉行などに至っても、田沼家の家臣の娘と婚姻を結んでいたので、田沼政権は意次を頂点に親類縁者の集まりに。

もちろん他大名家や旗本からの反発を招くことになったが、意次は権力の維持に力を注いだと言われていて、意次の妻は御三卿の一橋家の家老の娘で、弟の意誠は一橋家の家老、意誠の息子は一橋家の出身で後の11代将軍家斉の御用取次になるなど、意次は将軍家治の嫡子である家基の死後、一橋家からの養子選定に一役買ったとみられているということ。

3-3、天災、飢饉が勃発

しかし好景気だった田沼時代に、天明3年(1783年)、浅間山大噴火が勃発、7月6日から8日にかけての噴火は特にひどく火口北側からの溶岩流が火砕流となり、火口から15㎞の鎌原村ほぼ全滅。火山灰は関東一円に及んで日中でも空は真っ暗になったそうで、深刻な異常気象となり、各地に冷害が起こって農作物に被害が及び、天明の飢饉が発生。

この飢饉による餓死者は、東北地方中心に10万人以上または200万人以上という記録もあるそう。そして農村部から都市部に大量の農民が流入して治安が悪化。そのうえに米価が高騰、江戸や大阪では米屋や商家が襲われる打ちこわしが頻繁に発生。こういった社会的な混乱に対し、幕府が有効な手を幕府が打たなかったことが、意次失脚の遠因に。

また、この頃の迷信として、政治家のせいで天災が起きるという発想もあって、意次の息子意知が江戸城内で殺されたときも加害者の佐野政言は世直し大明神ともてはやされたということ。

3-4、意次、将軍家治の死去で失脚

天明4年(1784年)意次の世子で若年寄を勤めていた長男の意知が、江戸城内で佐野政言に暗殺(私怨、陰謀の両説あり)されたのが契機となり、さすがの意次の権勢も衰えが。そして天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去すると、家治が亡くなる直前に勘気を被ったとされ、家治の周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間に失脚。御三卿の一つである一橋家の出身で将軍の養子となっていた家斉が11代将軍に。そして御三卿の田安家出身で、白河藩主の松平定信が老中筆頭に。

意次の失脚には、反田沼派と一橋家の治済の策謀で行われたようで、意次は8月27日に老中を辞任し雁間詰に降格。閏10月5日、家治時代に加増された2万石が没収、さらに大坂の蔵屋敷の財産の没収、江戸屋敷の明け渡しとなり、蟄居。そして再度の減封と相良城は打ち壊され、城内に備蓄された金や穀物は没収ということに。そして孫の龍助が陸奥1万石に減転封されて跡取りに。意次以前に将軍の寵愛によって低い身分から側用人に大出世した柳沢吉保や間部詮房が、綱吉や家継将軍の没後、辞任だけで処罰はされなかったことと違い、悲惨な末路に。

尚、意次は2年後の天明8年(1788年)6月24日、江戸で享年70歳で死去。

3-5、意次の悪評の出どころと再評価

意次の政治が賄賂政治であると痛烈に批判したのは、大正4年の歴史学者辻善之助氏の著書「田沼時代」がきっかけ。ここで取り上げられた逸話などは、すべて意次が失脚したのちに書かれた反対派による悪評がもとの史料だということ。また収賄は江戸時代通じてあったことで、意次の時代は近代以後に比べると少なかったという説さえあり、意次の没後、老中松平定信が私財を没収したときには、ほとんど財産がなかったという逸話もあるそう。しかしながら、意次が清廉潔白な政治家だったとも断定できないということ。

また意次のもたらした町人文化の隆盛、蘭学保護、開国も視野に入れた貿易奨励、身分制度に関わらない人材登用などは、まさに明治維新前夜の転換期にその後雄藩が行った改革であり、田沼時代がなければ明治維新はなかったといわれ、田沼時代が経済を活性化させて豊かな文化を生み出したと再評価されているそう。

平戸藩主松浦静山の「甲子夜話」からの意次の賄賂話
松浦静山(まつらせいざん)は、好奇心旺盛な人で、色々な見聞録を残しているのですが、静山自身が20歳の頃に田沼家へご機嫌伺いに行き、三十畳の広い大座敷に通されたが、大勢の人が座敷の外にまであふれていたし、意次が出て来ても外側の人は顔が見えないわ、挨拶も主客の顔がくっつくわで、無礼なほど。また、所持した刀を置いておく次の間も刀がたくさんありすぎだったそう。

そして意次への贈り物(賄賂)については、意次の下屋敷が完成し、意次は庭に作った池を見て、この池に鯉か鮒を入れたら面白いだろうねと言い、その日、登城して帰ったら、池には鮒や鯉がたくさん入っていたということ。また意次が暑気あたりで病床に就いていた時にご機嫌伺いに来た者が、意次の家来から、意次が岩石菖(イワゼキショウ、ユリ科の植物)を盆に置いてみていると聞きおよんだところ、その後2、3日の間に、あちこちから各種の岩石菖が届けられて座敷2つ分も集まったとか。

様々な意匠を凝らした贈り物もあり、小さな青竹のかごに大鱚7、8匹と少しの野菜と柚子が盛られていて、柚子に数十金に値する後藤祐乗作だったかの小刀がさしてあったとか。大老井伊直幸は、意次に数千金の賄賂を贈って大老の地位を得たとか、意次の隣に住んでいた阿部正敏は、意次が屋敷を広げたいと望んでいると聞いて自分の屋敷地を幕府に返上し、屋敷は幕府から意次に譲られたあと阿部は大阪城代に昇格したという話なども。

\次のページで「米経済の時代に重商主義経済を取り込んで経済を活性化したことが再評価に」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: