その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、田沼意次ついて5分でわかるようにまとめた。
1-1、田沼意次は江戸の生まれ
田沼意次(たぬまおきつぐ)は、享保4年(1719年)7月27日、江戸本郷弓町で誕生。意次の父意行は紀州藩の足軽の家柄で、部屋住みだった頃の吉宗の側近に登用された後、吉宗が8代将軍になったのに従って幕臣となり小身旗本に。意次は長男で幼名は龍助。父意行は息子を授かるように七面大明神に帰依して意次が生まれたということで、意次は七面大明神に感謝して家紋を七曜星にしたそう。
吉宗は将軍就任で紀州の家臣を引きつれてきたが、お気に入りを選んだわけではなくたまたま当番だった者ということ。紀州藩士たちはその後は将軍直属の旗本となり、特に勘定方とか将軍と息子たちの側近などの重要な位置に配属となって幕政を掌握。意次は紀州系幕臣の次の世代で、吉宗の長男で言語障害があったのちの9代将軍家重の将軍世子時代に西丸小姓となり、享保19年(1734年)、父意行が亡くなり翌年17歳で家督を相続、同時に元服して意次と名乗り、父の600石を継いだということ。
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1-2、意次、家重に仕えて大名に出世
伝狩野英信 – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる
意次は、元文2年(1737年)、従五位下主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って西の丸から本丸へ。そして寛延元年(1748年)に1400石を加増、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたるために、御側御用取次から1万石の大名に格上げ、そして郡上一揆を上手におさめ、とんとん拍子の出世を。
1-3、家重死去後も息子家治に信任され、なんと老中に
不明(狩野派の絵師) – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる
宝暦11年(1761年)家重死去時、自分の死後も意次を重用するようにと家重の遺言があったそうで、後を継いだ10代将軍家治の意次に対する信任は厚く、さらに昇進。明和4年(1767年)、御側御用取次から板倉勝清の後任の側用人へ出世、5000石加増。従四位下となり、2万石の相良城主、明和6年(1769年)には侍従、老中格になったということ。そして安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ老中兼任、前後10回の加増で600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進、側用人から老中になった初の人物に。
順次加増されたので5万7000石は、遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡、東海道から畿内にまたがっての分散知行地になったそう。
2-1、田沼時代と呼ばれる、意次が行った政策とは
不明 – http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2006/12/index.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
10代将軍家治は聡明だったが趣味の人で、自ら親政をせずに意次に政治を任せたということ。意次は将軍家治の全面的信頼があってこそ政治手腕を十二分に発揮出来、田沼時代と呼ばれる時代を築くことに。
尚、田沼時代とは、意次が大名となった宝暦8年(1758年)に始まり、明和4年(1767年)に確立、または老中になった安永元年(1772年)以降のことだそう。意次が政治を取り仕切った約20年間、老中首座だった上野国館林藩松平武元(たけちか)と、意次を中心とした幕府の閣僚は数々の幕政改革を手がけたが、ますます悪化する幕府の財政赤字を食い止めるために重商主義政策を行ったということ。
2-2、株仲間の結成
吉宗時代から業者の無用な競争を避けるため、販売権の独占など特権を認められた株仲間がすでにあったのですが、意次はこれを拡大して、銅、朝鮮人参、綿、たばこ、茶などの商品作物にも広めてさらに廻船問屋、飛脚問屋なども加入させ、これらの幕府公認の商取引で得た利益の一部を、運上金や冥加金(みょうがきん)として徴収することに。この結果、幕府財政は豊かになり、市場経済も活性化という相乗効果に。
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