日本史

動乱の平安時代末期の「後白河天皇」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

よぉ、桜木健二だ。平安時代の末に朝廷に君臨した後白河天皇。在位中は「保元の乱」、上皇となってからは「平治の乱」、それに「源平合戦」が続くなにかと波乱に満ちた人生を歩んだ天皇だ。まあ、同年代に「平清盛」がいるんだからしょうがない。実際、後白河天皇と平清盛を切って解説するのは無理なほど密接に関わっているんだ。

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「後白河天皇」について解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。今回のテーマ「後白河天皇」は源平合戦に深く関与する人物なので得意分野。

1.棚から牡丹餅のような即位

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平安時代の末に朝廷に君臨した後白河天皇ですが、彼が天皇だった期間は3年と決して長くはありません。というのも、後白河天皇の息子・守仁親王(のちの二条天皇)が即位するまでの中継ぎにすぎなかったからです。

そもそも、後白河天皇は皇位継承とは無縁の立場にあり、幼いころから田楽や今様など当時の庶民の遊びにふけっていました。特に入れ込んでいた「今様」という流行歌にいたっては、後白河天皇自身が『梁塵秘抄』を編纂するほどです。雑芸への没頭ぶりは常軌を逸していたとされ、当時の朝廷で実権を握っていた父の鳥羽上皇からは「天皇の器ではない」とまで言われていました。

そんな後白河天皇に転機が訪れたのは、29歳の夏のことです。

鳥羽上皇と崇徳上皇の遺恨

平安時代末期の朝廷は「院政」といって、引退した元天皇(上皇)が政治を行うのが主流でした。「院」という上皇がいる場所で政治を行ったこと、また上皇自身をさして「院」ということから、「院政」といわれたのです。ついでなので説明しておくと、現役であれば「天皇」、引退して「上皇」「院」、さらに出家して「法皇」と変わっていきますよ。

さて、政治の場には摂政や関白の藤原氏はいました。しかし、もうそのころには昔のような勢いはなかったのです。もちろん、現役の天皇は偉いのですよ?けれど、政治は上皇が行っていたんですね。簡単に言うと「政治は天皇を引退してからが本番」だったわけです。

そして、当時の実権を握っていたのは鳥羽法皇で、白河天皇のお父さんですね。鳥羽法皇は最初、後白河天皇の兄で幼い崇徳(すとく)天皇に譲位していました。しかし、崇徳天皇が政治に口を出せる年齢に達すると、すぐに退位させてしまいます。

そして、次に弟の近衛天皇が即位するわけですが、「院政」は普通、現役天皇の親である上皇(法皇)が行うものでした。なので、現役天皇が弟だと崇徳上皇は院政を行えません。結局、鳥羽法皇が院政を続けて、崇徳上皇は一切の実権を与えられませんでした。

後白河天皇の即位の影で

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体の弱かった近衛天皇は早くに亡くなり、次代の天皇もまた崇徳上皇の弟・後白河天皇が選ばれたのです。しかも、その次は彼の息子・守仁親王と決まっていましたから、崇徳上皇の院政は事実上不可能となりました。この決定によって、鳥羽法皇と崇徳上皇の亀裂は修復不可能なものとなったのです。

一方、摂関家としての力を失っていた藤原氏でしたが、こちらも冷遇された状況をなんとかしようとしていました。けれど、このとき家族内で内部分裂が起こっていて、それどころじゃなかったんですね。藤原氏のうちから弾きものにされてしまった藤原頼長(ふじわらよりなが)は、近衛天皇を呪詛したと疑われて朝廷からも追い出されてしまいます。呪いは現代だと罪に問われたりはしませんが、昔の日本では呪いで人が死んだり不幸になると信じられていましたから、立派な犯罪行為でした。

そんな状況下で鳥羽法皇が病気で崩御してしまいます。すると、宮中で「崇徳上皇が頼長と結託して謀反を企てている」という噂が流れてしまったんですね。噂のせいもあって、崇徳上皇と藤原頼長はお互いに手を取り合って後白河天皇たち朝廷に対抗するしかなくなってしまいました。

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「院政」は引退後の元天皇がメインだったわけだから、現役時代の「後白河天皇」より、「後白河院」や「後白河上皇」、あと「後白河法皇」のほうが教科書なんかで見かけることが多いな。これは単に天皇在位中と引退後の呼び方だから、そう難しいものじゃないぞ。

2.ハードモードな平安時代末期

崇徳上皇vs後白河天皇の「保元の乱」

保元・平治の乱合戦図屏風絵
『保元・平治の乱合戦図屏風』 メトロポリタン美術館所蔵(The Battles of Hogen and Heiji), パブリック・ドメイン, リンクによる

崇徳上皇には藤原頼長、後白河天皇には藤原忠通(ふじわらただみち)がついて争うこととなりました。ただし、朝廷内の政治争いではなく、武力による衝突です。そうなると、貴族に代わって戦ってくれるプロが必要になってきますよね。崇徳上皇は平忠正、源為朝を雇い入れると、後白河天皇側に平忠盛と清盛親子、源義朝がつくことになりました。

ここでちょっと人間関係を整理しておくと、崇徳上皇と後白河天皇は兄弟、藤原氏の頼長と忠通もまた兄弟、平氏は忠正と忠盛が兄弟、源氏の為義と義朝は親子でした。両陣営にお互いの肉親がいる状態……これが「骨肉の争い」ってやつですね。

さて、京の都を戦場にして始まった「保元の乱」は、後白河天皇方の勝利に終わります。ところで、この時代は不殺生を説く仏教が主流で、しかも貴人が非業の死を遂げると怨霊になると固く信じられていました。しかし、敗軍の貴族たちに流罪が決まる中、武士たちには死罪が言い渡されたのです。死刑判決が出るのは、810年の「藤原薬子の変」以来の約350年ぶりのことでした。

二条天皇の即位

後白河天皇の即位から三年後、天皇の位を息子の守仁親王に譲位するときがやってきました。しかし、これは本来予定していた通りのことです。問題は守仁親王が即位して二条天皇、そして、後白河天皇が上皇となったあとでした。

前述した通り、平安時代末期は「院政」が主流の時代です。そして、後白河天皇時代に院政を行っていた鳥羽法皇はもういません。ここで「院政」を続けられるのは後白河上皇ただひとりです。

しかし、それまで鳥羽上皇とともに発言力を持っていた中宮・美福門院は守仁親王を養子とした「母親」でした。その上、美福門院には鳥羽上皇から引き継いだ大荘園の経済力があり、とても無視できない存在だったのです。

こうして朝廷は後白河上皇の後白河院政派と、美福門院ん率いる二条親政派の対立が始まります。

信西へのクーデターから始まった「平治の乱」

『平治物語絵巻』三条殿焼討
? – 平治物語絵巻, パブリック・ドメイン, リンクによる

このとき朝廷を取り仕切っていたのが「信西(しんぜい)」という僧侶でした。彼はもともと後白河上皇から信頼されていたのですが、後白河上皇に譲位を迫ったことが原因で距離を置かれてしまっています。さらに、彼が推し進めた「保元新制」は不正を行った貴族や役人を締め上げるものだったので、信西はどちらの派閥からも邪魔ものとみなされていたのです。

そんななか、都最大の武士団だった平家は中立を保っていました。また「保元の乱」のような武力衝突になれば、平家がどこにつくかで勝敗が変わります。両陣営の貴族たちにとっても警戒しなければならない勢力でした。そこで、貴族たちは平清盛が熊野詣に出かけている隙に信西を殺害しようと目論んだのです。そうして、とうとう1159年の「平治の乱」が勃発したのでした。

飼い犬に手を噛まれた三条殿の襲撃

このとき、後白河上皇は姉の上西門院、そして信西らとともに院御所だった三条殿に住んでいました。後白河上皇の寵臣でクーデターの首謀者・藤原信頼(ふじわらののぶより)はすぐさま後白河上皇と上西門院を確保すると、屋敷に火を放って逃げ出てくるものはみんな射殺してしまいます。すでに逃げ出していた信西一門も、ほどなくして山城国(京都南部)で信西も発見され、都で晒首となったのでした。

さて、クーデターの首謀者・藤原信頼は後白河上皇の寵臣です。信西を追い出して朝廷で一番の権力者となれば、後白河院制派が有利になると思うでしょう?ところが、両陣営の共通の敵だった信西がいなくなったことで、再び両陣営の争いが再開されるわ、藤原信頼がトップなのが気に入らない他の貴族の反感はすごいわで、まったくまとまりません。しかも、肝心の後白河上皇は藤原信頼によって監禁状態になっていました。藤原信頼に与した源義朝の武士団もあって、武力で逆らうことも難しい状況です。

結局、後白河院政派も二条親政派も、平清盛の帰還を待つしかなくなったのでした。

膠着状態に陥る両陣営

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藤原信頼に反発する貴族たちの説得を受けて都に帰還した平清盛。二条天皇は密かに平清盛の邸宅へ移動し、さらに監禁状態の後白河上皇もまた仁和寺へこっそり逃れることに成功しました。こうして、天皇や上皇という大義を失った藤原信頼は、信西殺害のクーデターを企てた首謀者として倒され、処刑されることとなったのです。

このとき二条親政派の中心だった貴族もまた首謀者の一員として逮捕されたことで、両陣営はともに主力の政治家を失い、膠着状態に陥ったのでした。

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「保元の乱」「平治の乱」を経て朝廷内の勢力分布が大きく変わったな。特にいち武士にすぎなかった平清盛が大きく台頭することになる。これがのちに六年にも及ぶ「治承・寿永の乱」、すなわち「源平合戦」の布石だ。

3.源氏と後白河上皇の関係

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二条親政派の瓦解

「平治の乱」を治め、後白河院政派と二条親政派は膠着状態にありました。そこへきて、二条親政派の最有力者だった美福門院が亡くなり、さらに二条天皇も病を得て崩御してしまいます。二条天皇の跡は息子の六条天皇が継ぐことになったのですが、この不安定な政権下で後白河院政派が徐々に息を吹き返し始めたのです。

後白河上皇の勢力が拡大すると同時に、その下で平家一門もまた力を伸ばしていきました。摂関家と平家が後白河院政派に加わることで二条親政派の瓦解が決定したのです。

ところで、後白河上皇が寵愛していた中宮の中に平滋子という平清盛の娘がいました。後白河上皇は平清盛の協力を得て、平滋子との息子・憲仁親王を立太子して次の天皇と定めました。この憲仁親王こそが、後の高倉天皇です。

平清盛の台頭

後白河上皇は高倉天皇の父でしたが、平清盛もまた高倉天皇の外祖父にあたりました。それに、後白河上皇は平家一門を信用して要職につけまくったわけですから、朝廷内は平家の公達であふれていたわけです。そのなかには国家の軍事権や警察権も含まれていて、文武ともに平家が支配していました。それに、一時は病で政界から離れた平清盛自身の発言権も依然として強いままです。

しかし、盤石に見えた協力体制も、後白河上皇が出家したのちに政治方針の違いから徐々に両者の関係にヒビが入り始めたのでした。高倉天皇のもとに平清盛の娘・徳子(のちの建礼門院)の入内が決まり、ふたりの間に安徳天皇が生まれるころには、後白河法皇と平清盛の決裂はすでに決定的なものとなっていたのです。

「治承三年の役」で幽閉

後白河法皇と平清盛の対立が深まり、とうとう1179年に平清盛がクーデターを起こします。平清盛は軍勢を率いて京都を制圧すると、後白河法皇を鳥羽殿で幽閉して後白河法皇の院政を停止させたのです。そして、後白河法皇の近臣たちは次々に逮捕や所領を没収されるか、あるいは殺害されるという憂き目にあいました。このクーデターを「治承三年の役」といいます。

後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)もまた所領を没収され、これをきっかけに「以仁王の挙兵」が起こるのでした。

後白河法皇、院政の再開

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パブリック・ドメイン, リンク

「以仁王の挙兵」は失敗に終わるのですが、この挙兵時に以仁王の発した平家追討の令旨により、全国に散っていた源氏の生き残りの武士たちが立ち上がり始めます。

また、このきな臭い時期に高倉上皇が崩御し、幼い安徳天皇では政務はとれないからと後白河法皇の院政が復活するのです。平家はなんとか軍事権だけは守り切るのですが、熱病を発症した平清盛があえなく死去してしまいました。

これまで朝廷に大きな存在感を放っていた平清盛の死によって、平家一門の栄華は終焉を迎えることとなります。

源義仲と源頼朝、どちらと手を組む?

院政を再開させた後白河法皇ですが、未だ平家一門は朝廷に残っています。しかし、1183年に源義仲(木曽義仲)の軍勢が都入りして平家を追い出したのです。

ただ、この源義仲の軍勢がよろしくありませんでした。というのも、彼らは都で略奪を行うなど好き放題に狼藉を働いて民衆や貴族たちから不評を買っていたのです。しかも源義仲は最初は平家に勝ったものの、そのあと勢いを盛り返した平家に負けてしまいます。

これなら平家の方がマシだったとさえ言われてしまっては、後白河法皇としてもなんとかしなくてはいけません。こうして、後白河法皇は義仲追討の令旨を源頼朝に下し、宇治川の戦いで義仲軍を倒したのでした。

源平合戦その後

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伝狩野元信 – 『源平合戦図屏風』 赤間神宮所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

かくして、源頼朝は平家追討の総大将となると、弟の源義経を遣わし、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたのでした。合戦の間は源頼朝に対する後白河法皇の信は厚かったのですが、戦いが終わると次第にその雲行きが怪しくなり始めます。

源頼朝は勝手に冠位を授かった源義経を咎め、義経追討の宣旨を朝廷に要求しました。そうして、源義経が逃げ込んだ奥州(東北)を治めていた藤原秀衡を源頼朝軍が倒してしまいます(奥州合戦)。

その翌年、後白河法皇と対面するため、源頼朝は軍勢を従えて都を訪れます。滞在期間は約40日。ふたりは8回に及ぶ対談でわだかまりを払拭すると、源頼朝に権大納言と右近衛大将に任じました。

後白河法皇の崩御

1191年、後白河法皇は再建した法住寺殿に移り住みました。そこは亡き寵姫・平滋子との思い出深い場所だったのです。

しかし、法住寺殿に移った後白河法皇は次第に食欲を失くし、体調を崩すようになってしまいます。様態は日増しに悪化して、とうとう1192年に帰らぬ人となりました。

66年に及ぶ波乱の人生

政治に関係なく生きてきた後白河天皇でしたが、29歳で突如として即位し、動乱に満ちた平安時代末期の朝廷に放り込まれることとなりました。多くの陰謀や戦乱を乗り越え、貴族や武士と渡り合う姿は「大天狗」と称されるほど巧みだったとされています。

ちなみに、源頼朝が征夷大将軍に任命されたのは、後白河法皇が崩御してからのことです。

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