
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「後白河天皇」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。今回のテーマ「後白河天皇」は源平合戦に深く関与する人物なので得意分野。
1.棚から牡丹餅のような即位

平安時代の末に朝廷に君臨した後白河天皇ですが、彼が天皇だった期間は3年と決して長くはありません。というのも、後白河天皇の息子・守仁親王(のちの二条天皇)が即位するまでの中継ぎにすぎなかったからです。
そもそも、後白河天皇は皇位継承とは無縁の立場にあり、幼いころから田楽や今様など当時の庶民の遊びにふけっていました。特に入れ込んでいた「今様」という流行歌にいたっては、後白河天皇自身が『梁塵秘抄』を編纂するほどです。雑芸への没頭ぶりは常軌を逸していたとされ、当時の朝廷で実権を握っていた父の鳥羽上皇からは「天皇の器ではない」とまで言われていました。
そんな後白河天皇に転機が訪れたのは、29歳の夏のことです。
鳥羽上皇と崇徳上皇の遺恨
平安時代末期の朝廷は「院政」といって、引退した元天皇(上皇)が政治を行うのが主流でした。「院」という上皇がいる場所で政治を行ったこと、また上皇自身をさして「院」ということから、「院政」といわれたのです。ついでなので説明しておくと、現役であれば「天皇」、引退して「上皇」「院」、さらに出家して「法皇」と変わっていきますよ。
さて、政治の場には摂政や関白の藤原氏はいました。しかし、もうそのころには昔のような勢いはなかったのです。もちろん、現役の天皇は偉いのですよ?けれど、政治は上皇が行っていたんですね。簡単に言うと「政治は天皇を引退してからが本番」だったわけです。
そして、当時の実権を握っていたのは鳥羽法皇で、白河天皇のお父さんですね。鳥羽法皇は最初、後白河天皇の兄で幼い崇徳(すとく)天皇に譲位していました。しかし、崇徳天皇が政治に口を出せる年齢に達すると、すぐに退位させてしまいます。
そして、次に弟の近衛天皇が即位するわけですが、「院政」は普通、現役天皇の親である上皇(法皇)が行うものでした。なので、現役天皇が弟だと崇徳上皇は院政を行えません。結局、鳥羽法皇が院政を続けて、崇徳上皇は一切の実権を与えられませんでした。
後白河天皇の即位の影で

体の弱かった近衛天皇は早くに亡くなり、次代の天皇もまた崇徳上皇の弟・後白河天皇が選ばれたのです。しかも、その次は彼の息子・守仁親王と決まっていましたから、崇徳上皇の院政は事実上不可能となりました。この決定によって、鳥羽法皇と崇徳上皇の亀裂は修復不可能なものとなったのです。
一方、摂関家としての力を失っていた藤原氏でしたが、こちらも冷遇された状況をなんとかしようとしていました。けれど、このとき家族内で内部分裂が起こっていて、それどころじゃなかったんですね。藤原氏のうちから弾きものにされてしまった藤原頼長(ふじわらよりなが)は、近衛天皇を呪詛したと疑われて朝廷からも追い出されてしまいます。呪いは現代だと罪に問われたりはしませんが、昔の日本では呪いで人が死んだり不幸になると信じられていましたから、立派な犯罪行為でした。
そんな状況下で鳥羽法皇が病気で崩御してしまいます。すると、宮中で「崇徳上皇が頼長と結託して謀反を企てている」という噂が流れてしまったんですね。噂のせいもあって、崇徳上皇と藤原頼長はお互いに手を取り合って後白河天皇たち朝廷に対抗するしかなくなってしまいました。
\次のページで「崇徳上皇vs後白河天皇の「保元の乱」」を解説!/