2-3、ヒュースケン、他国の外交団のためにも働く
日本には、その後、イギリス、フランス、プロシアなどの外交団が次々と駐留するようになったのですが、アメリカ公使館は日本駐在の先達として、色々アドバイスしたり連携したりするように。そういうときにも、フランス語、ドイツ語にも堪能で、日本語もかなり出来るようになったというヒュースケンは大活躍したということで、イギリスのエルギン卿やプロシアのオイゲンブルグ伯爵に大変感謝されたということ。
2-4、ヒュースケンの女性関係
藤岡屋日記に、アメリカ公使館の通訳官ヒュースケンが妾を雇った記録が残されているということで、安政6年(1859年)7月、麻布坂下町に住む久次郎の娘のお鶴18歳は、ヒュースケンから妾の斡旋を求められていた男に説得され、お鶴はヒュースケンの給金は1カ月7両2分の月極めの妾になったそうで、他にもお福、おきよ、おまつ、おつるという女性の名が伝わり、男の子が生まれたという話もあるということ。
2-5、ヒュースケン日記を書く
1855年10月のニューヨーク出航からフランス語と英語で日記を書き始めていて、航海中に幽霊船に出会ったとか、寄港地で出会った人々の様子などの日本に向う南方航路の旅の様子から、日本に着任後の外交折衝や日本での見聞が書かれていて、幕末外交史の貴重な史料のひとつに。なかなか貴重な目撃談も多く書き残していて、たとえば、江戸城へ登城したときは、「日本の宮廷は、たしかに人目を惹くほどの豪奢はない。廷臣は大勢いたが、ダイアモンドが光って見えるようなことは一度もなかった。しかし江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳をそなえた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光をそえる洗練された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイアモンドよりもはるかに眩い光を放っていた」だったそう。
また、「日本に来て、まず下男を雇った。今度は馬も手に入れたぞ! この調子だと、馬車を持って皇帝の姫君に結婚を申し込むことになるかも。そうなったらぼくは植民地総督だね」と、はしゃいだ調子の箇所もあり、そして重病で瀕死の状態のハリス公使を看病し、ほとんど臨終となったときの様子など(ハリスはその後、立派に回復)もしっかり書いてあるそう。
2-6、ヒュースケン、外国人仲間にも日本人にも人気があった
ヒュースケンは、上司であるハリス公使によれば、「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、他のことはあまり気にしないやつ」と、アメリカ領事官のボーイをした日本人は、恰幅がよい通人すぎる人という評が。また、それほど乗馬は上手でないのに毎日乗馬をしたが、落馬して頭から血を流しても馬に乗って帰って来るので役人が驚くとヒュースケンは「馬の上から日本女性がよく眺められる」と言ったなど、いかにも細かいことを気にしない明るいアメリカ人男性というイメージで、親しみがある感じ。
実際、当時の江戸に滞在した外国人たちが、相撲見物や王子の飛鳥山、上野の周辺の遊園、川崎の梅林などにピクニックに行ったり、曲芸師や手品師を招いたりというときには、必ずヒュースケンが同伴していたということ。また、ハリス公使は厳格なクリスチャンなので理解できないと忌み嫌っていたという、日本の男女混浴の温泉にも興味を示してよくのぞきに行ったそう。
2-7、ハリスとの不和?
ヒュースケンは安政4年(1858年)6月8日以降、2年半の間日記を中断、万延元年(1861年)1月1日になって再開。ハリス公使も日記を書いていたが、同じく安政4年(1858年)2月末、瀕死の重病にかかる直前に日記をやめたそう。ハリスの場合は散逸の可能性があるが、ヒュースケンの場合は動機不明ということ。
また、安政5年(1859年)7月4日にハリスとヒュースケンの間で不和があったらしく、ハリスはアメリカ国務省に当てて、ヒュースケンが去ったので代理の通訳を寄越すようにという文書を書いて送っているということで、ハリスの私文書には、ヒュースケンの行動について釈明を求めたハリスの手紙の返信らしい、手紙は受け取った、来週行くという内容の7月8日付けのヒュースケンの返信が残っているそう。
そしてハリスは国務省に当てて、ヒュースケンとの間に誤解があったことと、今まで3年ものヒュースケンの忠実な任務にもかかわらず、棒給が低すぎること、アップしていないことが長々と書かれ、ヒュースケンの棒給アップを要求している内容だということ。
尚、その後ヒュースケンの棒給はアップされ、最後まで波風も建てず熱心に働いていたということなのですが、もしかして給料アップのためのストライキだったのかという説もあるそう。
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