今回はヘンリー・ヒュースケンを取り上げるぞ。アメリカのハリス公使の通訳を務めた人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新に来日した外国人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘンリー・ヒュースケンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヘンリー・ヒュースケンはオランダ生まれ

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ヘンリー・ヒュースケンは、1832年1月20日にオランダのアムステルダムで誕生。父は石鹸製造業者のヨアンネス・フランシスクス・フースケン(オランダ語読み)、母はヨアンナ・スミット・フースケン。本名はヘンリクス・コランドゥス・ヨアンネス・フースケン。

「ヒュースケン日本日記」によれば、ヒュースケンは子供の頃にオランダ南部ブラバント県の寄宿学校に入学したが、15歳になったときに父の元で商人になるためにアムステルダムに戻ったが、間もなく父が亡くなり病弱の母が残されたということ。

1-2、ヒュースケン、アメリカへ渡る

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1853年、21歳のヒュースケンはアメリカ移住を決意し、家業を捨ててニューヨークへ渡ったということ。しかし最初の数年は収入は少なく失業もしてと、かなり苦労したそう。

そして23歳のヒュースケンは、タウンゼント・ハリスが初代駐日アメリカ公使として赴任するために、オランダ語の通訳を探しているという情報を入手し、応募して採用に。

2-1、ヒュースケン、日本へ赴任

ヒュースケンは、1855年10月25日、ニューヨークを出航し、マデイラ島、アセンション島、ケープタウン、モーリシャス島、セイロン島を経て、1856年3月21日にペナン島で待っていたハリスと初対面、以後は同じ船でシンガポール、バンコク、香港、広東、マカオを経て、安政3年(1856年)7月21日に下田に到着。

2-2、ヒュースケン、ハリスの右腕として活躍

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その頃の日本は、英語が出来る人が中浜万次郎くらいしかおらず、当時の政府であった江戸幕府と駐日アメリカ公使など外交官たちとは、長崎出島勤務の代々オランダ通弁を務める通詞を間に挟んでの交渉になるため、オランダ語と英語のわかるヒュースケンは重宝されたということ。また51歳のハリス公使と違い、ヒュースケンは若くて行動的であったせいもあって、自由闊達な行動で好奇心旺盛、すぐに日本の事情にも通じるようになり、ハリス公使にとっては単なる通訳以上の存在に。

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2-3、ヒュースケン、他国の外交団のためにも働く

日本には、その後、イギリス、フランス、プロシアなどの外交団が次々と駐留するようになったのですが、アメリカ公使館は日本駐在の先達として、色々アドバイスしたり連携したりするように。そういうときにも、フランス語、ドイツ語にも堪能で、日本語もかなり出来るようになったというヒュースケンは大活躍したということで、イギリスのエルギン卿やプロシアのオイゲンブルグ伯爵に大変感謝されたということ。

2-4、ヒュースケンの女性関係

藤岡屋日記に、アメリカ公使館の通訳官ヒュースケンが妾を雇った記録が残されているということで、安政6年(1859年)7月、麻布坂下町に住む久次郎の娘のお鶴18歳は、ヒュースケンから妾の斡旋を求められていた男に説得され、お鶴はヒュースケンの給金は1カ月7両2分の月極めの妾になったそうで、他にもお福、おきよ、おまつ、おつるという女性の名が伝わり、男の子が生まれたという話もあるということ。

2-5、ヒュースケン日記を書く

1855年10月のニューヨーク出航からフランス語と英語で日記を書き始めていて、航海中に幽霊船に出会ったとか、寄港地で出会った人々の様子などの日本に向う南方航路の旅の様子から、日本に着任後の外交折衝や日本での見聞が書かれていて、幕末外交史の貴重な史料のひとつに。なかなか貴重な目撃談も多く書き残していて、たとえば、江戸城へ登城したときは、「日本の宮廷は、たしかに人目を惹くほどの豪奢はない。廷臣は大勢いたが、ダイアモンドが光って見えるようなことは一度もなかった。しかし江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳をそなえた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光をそえる洗練された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイアモンドよりもはるかに眩い光を放っていた」だったそう。

また、「日本に来て、まず下男を雇った。今度は馬も手に入れたぞ! この調子だと、馬車を持って皇帝の姫君に結婚を申し込むことになるかも。そうなったらぼくは植民地総督だね」と、はしゃいだ調子の箇所もあり、そして重病で瀕死の状態のハリス公使を看病し、ほとんど臨終となったときの様子など(ハリスはその後、立派に回復)もしっかり書いてあるそう。

2-6、ヒュースケン、外国人仲間にも日本人にも人気があった

ヒュースケンは、上司であるハリス公使によれば、「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、他のことはあまり気にしないやつ」と、アメリカ領事官のボーイをした日本人は、恰幅がよい通人すぎる人という評が。また、それほど乗馬は上手でないのに毎日乗馬をしたが、落馬して頭から血を流しても馬に乗って帰って来るので役人が驚くとヒュースケンは「馬の上から日本女性がよく眺められる」と言ったなど、いかにも細かいことを気にしない明るいアメリカ人男性というイメージで、親しみがある感じ。

実際、当時の江戸に滞在した外国人たちが、相撲見物や王子の飛鳥山、上野の周辺の遊園、川崎の梅林などにピクニックに行ったり、曲芸師や手品師を招いたりというときには、必ずヒュースケンが同伴していたということ。また、ハリス公使は厳格なクリスチャンなので理解できないと忌み嫌っていたという、日本の男女混浴の温泉にも興味を示してよくのぞきに行ったそう。

2-7、ハリスとの不和?

ヒュースケンは安政4年(1858年)6月8日以降、2年半の間日記を中断、万延元年(1861年)1月1日になって再開。ハリス公使も日記を書いていたが、同じく安政4年(1858年)2月末、瀕死の重病にかかる直前に日記をやめたそう。ハリスの場合は散逸の可能性があるが、ヒュースケンの場合は動機不明ということ。

また、安政5年(1859年)7月4日にハリスとヒュースケンの間で不和があったらしく、ハリスはアメリカ国務省に当てて、ヒュースケンが去ったので代理の通訳を寄越すようにという文書を書いて送っているということで、ハリスの私文書には、ヒュースケンの行動について釈明を求めたハリスの手紙の返信らしい、手紙は受け取った、来週行くという内容の7月8日付けのヒュースケンの返信が残っているそう。

そしてハリスは国務省に当てて、ヒュースケンとの間に誤解があったことと、今まで3年ものヒュースケンの忠実な任務にもかかわらず、棒給が低すぎること、アップしていないことが長々と書かれ、ヒュースケンの棒給アップを要求している内容だということ。

尚、その後ヒュースケンの棒給はアップされ、最後まで波風も建てず熱心に働いていたということなのですが、もしかして給料アップのためのストライキだったのかという説もあるそう。

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2-8、ヒュースケン、暗殺される

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ヒュースケンは、プロシア王国のオイレンブルグ公使が各国と同じ条約締結するために助力していたということで、毎日のようにプロイセン王国使節の宿舎だった赤羽接遇所(港区東麻布)に通い、夜遅くにアメリカ公使館が置かれた善福寺へ帰っていたということ。

そして万延元年(1861年)12月4日の夜、3名の騎馬の役人と4名の徒士が提灯を下げて随行し、ヒュースケンは馬に乗って帰るところを赤羽広小路、または芝赤羽新門前町の中の橋の北側で、攘夷派「浪士組」所属の薩摩藩士、伊牟田尚平、樋渡八兵衛ら7名に襲われて腹部を深く斬られ、善福寺宿舎に運ばれ、プロシアとイギリス公使館から外科医の応援を求め、誠心誠意手当てを施したが致命傷だったために翌日28歳で死去。

3-1、ヒュースケンの葬儀

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荒木三太 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

ヒュースケンは攘夷志士によって殺害された7番目の外国人ということになり、個人的にも外国人仲間では人気があったため、4日後の東京都港区南麻布四丁目の光林寺で行われた葬儀には、新見豊前守、小栗豊後守ら外国奉行も立ち合い、喪主がハリス公使と、オランダ総領事のデウィット氏で、危険を押してイギリスのオールコック、オイレンブルグ伯爵、ド・ベルクール氏ら各国公使らに領事たち、各国随員たち、オランダやプロシア軍士官も参加し、プロシアフリゲート艦の軍楽隊の演奏も行われ、星条旗にくるまれたヒュースケンの棺をオランダ兵が担ぎ、フランス人で日本教区長のジラール神父が祈りを捧げ、幕府差し向けの僧も読経した国際色豊かな葬儀で、ハリス公使によれば忠実なアメリカ合衆国官吏の遺体に当然の敬意を表すためにとりうる方法はすべて行ったということ。

また、ハリス公使は詳細な葬儀の報告書をアメリカ国務省に送っていて、ヒュースケンは親切で気の良い人間で暴力も振るったことがないので、殺害の動機となるような事情は思い当たらないこと。しかし夜間の外出は危険であると言われていたし、4か月以上前からヒュースケンがほとんど毎晩プロシア代表部に通い、夜に帰宅する習慣が不慮の死を招いたのではないかということ。そして、ハリス自身がこの恐るべき災難で深く悩んでいることや、ヒュースケンが5年以上にわたり共に行動し、孤独な生活の伴侶であったこと、主人と雇人というより父と子のような関係だったという締めが涙を誘います。

3-2、ヒュースケンの賠償金、その後

ハリス公使は下手人を裁判にかけようとしましたが、当時は犯人については、水戸浪士であったとか、その頃切腹した役人の堀織部正の家臣の遺恨であるなどと言われ、はっきりせずハリスの意思は通らなかったそう。そして幕府はヒュースケンの慰労金4000ドル、オランダの母ヨアンナの扶助料6000ドル計1万ドルを賠償金として支払ったということ。

尚、その後、襲撃犯の薩摩藩士、伊牟田尚平は捕縛されて鬼界ヶ島に流罪となり、後に罪を許されて西郷隆盛の密命で益満休之助らとともに、大政奉還直後の江戸幕府を挑発するために江戸で破壊工作を行ったということで、ついには様々な罪で、慶応4年(1868年)に切腹に。

また、この事件を切っ掛けに、各国公使たちは集まって協議し、危険な江戸を退去したが、ハリス公使は同調せず江戸にとどまったということ。

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3-3、外国でも著名なヒュースケン

ヒュースケン殺害事件の4年後、観光のため来日したトロイア遺跡発掘で有名なドイツ人実業家のハインリヒ・シュリーマンもヒュースケンの墓参りをしたと旅行記に書いているということ。

またヒュースケンは、1855年から1861年まで英語とフランス語で日記を書いていたのですが、研究者がまとめて出版した「ヒュースケン日本日記」((Japan Journal, 1855-1861) のせいか、アメリカや外国でもよく知られているということ。

そして、平成6年(1994年)3月22日、ヒュースケンが日独友好に尽くし、オランダ出身で、アメリカ公使ハリスの通訳以上に右腕的存在であったなどから、ドイツ、オランダ、アメリカの3ヶ国の大使達が墓参に訪れたということで、光林寺住職、上智大学イエズス会のベルギー人神父(ベルギーはオランダの隣国)の祈りが捧げられて、大使らによる献花とオランダジンが墓石にかけられたそう。

単なる攘夷で犠牲になるには惜しい存在だったヒュースケン

ヒュースケンはオランダ生まれで若くして希望をもってアメリカへ移民したが、ニューヨークではアメリカンドリームを掴めずにいたところ、新しく日本に開設されるアメリカ公使のオランダ語の分かる通訳募集に応募して合格、日本にやってきた23歳の若者。

日本では親子ほど年の違う厳格で信仰深いハリス公使のために単なる通訳以上の働きをし、フランス語やドイツ語も出来、日本語にも通じ事情通でもあるために、あとから来たヨーロッパ列強の公使館にも重宝され、社交的で明るい青年として外国人仲間にも日本人にも好かれていたということで、ニューヨークでは底辺の暮らしをしていた彼は、ジャパニーズドリームを実現したのでした。ヒュースケンは日本で人生初のやりがいのある仕事をし、日本語も覚え、ますます日本に愛着を持って暮らしていたということ。

しかし外国人を忌み嫌う攘夷志士のターゲットにされてしまい、無残にも惨殺。まだ28歳という若さで残された日記をみても貴重な体験を残しているし、攘夷志士の刃に倒れなければ、もっと活躍して歴史に名を残したのではと残念でならないです。

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ハリスの通訳で攘夷の犠牲者「ヘンリー・ヒュースケン」を歴女がわかりやすく解説

今回はヘンリー・ヒュースケンを取り上げるぞ。アメリカのハリス公使の通訳を務めた人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新に来日した外国人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘンリー・ヒュースケンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヘンリー・ヒュースケンはオランダ生まれ

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ヘンリー・ヒュースケンは、1832年1月20日にオランダのアムステルダムで誕生。父は石鹸製造業者のヨアンネス・フランシスクス・フースケン(オランダ語読み)、母はヨアンナ・スミット・フースケン。本名はヘンリクス・コランドゥス・ヨアンネス・フースケン。

「ヒュースケン日本日記」によれば、ヒュースケンは子供の頃にオランダ南部ブラバント県の寄宿学校に入学したが、15歳になったときに父の元で商人になるためにアムステルダムに戻ったが、間もなく父が亡くなり病弱の母が残されたということ。

1-2、ヒュースケン、アメリカへ渡る

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1853年、21歳のヒュースケンはアメリカ移住を決意し、家業を捨ててニューヨークへ渡ったということ。しかし最初の数年は収入は少なく失業もしてと、かなり苦労したそう。

そして23歳のヒュースケンは、タウンゼント・ハリスが初代駐日アメリカ公使として赴任するために、オランダ語の通訳を探しているという情報を入手し、応募して採用に。

2-1、ヒュースケン、日本へ赴任

ヒュースケンは、1855年10月25日、ニューヨークを出航し、マデイラ島、アセンション島、ケープタウン、モーリシャス島、セイロン島を経て、1856年3月21日にペナン島で待っていたハリスと初対面、以後は同じ船でシンガポール、バンコク、香港、広東、マカオを経て、安政3年(1856年)7月21日に下田に到着。

2-2、ヒュースケン、ハリスの右腕として活躍

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その頃の日本は、英語が出来る人が中浜万次郎くらいしかおらず、当時の政府であった江戸幕府と駐日アメリカ公使など外交官たちとは、長崎出島勤務の代々オランダ通弁を務める通詞を間に挟んでの交渉になるため、オランダ語と英語のわかるヒュースケンは重宝されたということ。また51歳のハリス公使と違い、ヒュースケンは若くて行動的であったせいもあって、自由闊達な行動で好奇心旺盛、すぐに日本の事情にも通じるようになり、ハリス公使にとっては単なる通訳以上の存在に。

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