中山王そして三山国を統一へ
琉球統一を目指していた尚氏は武寧を滅ぼした十年後の1416年に北山王国を攻めていきました。攻められるより以前は北山王国は今帰仁按司が今帰仁城主となり1322年に北山王国を作っていきます。中央と南側の按司に分かれていて三大按司と呼ばれていました。
支配圏は現在の沖永良部島や与論島まで伸ばしていて明とも貿易を図っていて国を発展させていきます。しかし尚氏の攻撃によって滅ばされてしまい尚氏の官職だった北山監守によって尚氏一族の支配圏となりました。
1429年には琉球の南側を支配していた他魯毎を攻め滅ぼし全ての国を滅ぼした尚氏は見事琉球を支配し統一することになります。
琉球王国
三山を統一したことで1429年に琉球王国を作り思紹王が初代王として誕生します。居城は首里城へと移し日本や明そしてジャワなどのアジア圏まで広く交易を行い自国繁栄へと力を注いでいきました。しかしながら統一したとはいえ按司や豪族などの攻撃に合い琉球王国の地盤が固まっていませんでした。
思紹王の嫡子達が王として即位していきましたが、豪族の力が強く押さえつけても反抗してきたため安定した政務をすることが出来ません。また地盤が固まっていない状態で支配圏を伸ばそうとしたことで尚徳王は家臣の人望を無くしていきました。
1469年になると尚徳王が亡くなり後継者に自身の子供がいましたが、クーデターに合い殺害されてしまいます。
第二尚政権から琉球王国の最後
クーデターが発生したことで琉球王国を成立させた尚一族が滅んでいきました。
尚氏の重臣だった金丸が王となる
クーデターを起こしたのは第六代琉球王だった尚泰久王の重臣として起用されていた金丸でした。金丸は出生は百姓として農業を家族と共に従事していましたが、金丸が二十歳の時に両親が亡くなってしまい生活が困窮すると村から追い出されていき行き場を失っていた金丸を泰久王が下役として起用します。
そこから徐々に力を付けていった金丸は重臣まで登りつめていき、尚徳王に不満を抱いていたことで尚一族を滅ぼし自身が琉球王国の王座へ座り王へと即位していきました。金丸は尚氏の名前を使い尚円王と名乗り第二尚氏が誕生し琉球王国を繁栄させていきます。
第二尚氏の栄華
初代尚一族が従えることが出来なかった豪族達を臣従させるために按司を首里城へと招き移り住ませることに成功します。これにより中央政権が確立され琉球王国は一つの国として機能していくこになりました。1500年になると支配地域を伸ばすべく現在の八重山諸島への攻撃を開始していきます。
そして石垣島と与論島を武力で支配していき奄美大島諸島も征服し支配下へと加えていき琉球王国最大の領土へとなっていきました。その後は明から冊封国として従うように命令されるも拒否していたものの最終的には明の一部に加わっていきます。
日本本土との関わり
豊臣政権時代に明を攻撃することが決まり、従軍するよう求められるも既に明側に立っていた琉球王国は豊臣秀吉の命令を一時は断っていました。しかし明侵攻が開始すると当時の王だった尚寧王は豊臣軍に食料などの供給を行っていきます。
そして秀吉から徳川家康の時代となると、薩摩国の要求を無視していたことで琉球王国の侵攻が開始されていきました。1609年に首里城まで島津軍が三千兵で押し寄せてきましたが、三千より多い四千で対抗していくも最後は敗れ和睦を結ぶことになります。
尚寧王は島津氏と共に江戸へ出向き徳川秀忠に、謁見し琉球王国の支配を認められ奄美諸郡だけが割譲させられるだけで済み薩摩国の従属国となりました。
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ペリー来航から琉球王国廃止
日本本土での争いが無くなり、戦うことが無くなったことで独立国家として位置を保ち続けていきました。時代は流れていき1853年5月に那覇港へ黒船を率いてきたペリー提督によって開港させられ米国と修好通商条約を結び自由貿易と米国の墓地設置や漂流民の救助内容として第一条から第七条まで記載されています。
そして江戸幕府が滅ぼされ新政府が樹立し明治政府となると、廃藩置県が発令されていきました。琉球国王の尚泰はこの命令を無視していきましたが、政府軍の攻撃に合い首里城を開城し琉球王国無くなり沖縄県が誕生していきます。
琉球王国の文化
琉球王国の文化について紹介していきます。
琉歌や和歌
琉球王国は独立した国でありながらも他国の貿易により他文化を取り入れつつ自国の文化も作っていきました。琉球では詠むための歌として扱われていた琉歌が存在しており三十音からなる歌謡を基本とする定型詩でありながら謳うための歌としても扱われていたようです。
この琉歌を奄美諸郡では島唄として大変親しまれて現在にも残されていました。また日本本土と同様に和歌を詠まれていたようで秀吉の謁見の際に詠まれている資料も確認されていますが、和歌がどの様にして琉球に伝えられていたかはっきりとは分かっておりません。
日本の中で一番長く王国が存在していた
島国の一部ではありましたが、そこに王国を作り約四百五十年間に渡り国を支配し繁栄させられた国は日本としては沖縄だけでしょう。攻め込むことが難しい国でもあり他国に貿易をすることが出来たのも沖縄としての島特有の特権だったと思います。
しかし船での出航となるので確実に他国へ行けていたかは分かりませんが、異国文化が多く入り込んでいることを見ますと多くの国と交流し交易を図っていたことでしょう。源氏からの始まりとされている琉球王国ですが、一部の意見として二百年代に邪馬台国が存在していたともいわれております。
独立国家として長く続いたのには、歴代の王や側近達の力も勿論あると思いますが島々の人達が自分の島を守りたいという気持ちもあり王国に尽くしていたのかも知れません。



