流刑となる
為朝の剛勇のおかげもり優勢な展開となっていましたが、保元元年7月11日に天皇方の夜襲攻撃を受け各地で激戦となっていました。為朝は兄義朝と交戦し激しい接戦の末に率いていた二十八騎の内二十三騎を失ってしまうも義朝率いる坂東武者を五十三騎討ち取ります。最後に兄弟で決着をつけるべく対峙しましたが、上皇がいる宮殿に火がつき敗色濃厚となったなった為朝は為義らと共にその場から撤退し落ち延びていきました。
その後に東国で再挙を図ろうとするも老体であることを理由に義朝に降伏を申し出ることになります。命だけは助けてくれるであろうと踏んでいた為義でしたが、義朝は朝廷から許されることなく斬首となり為朝を除く兄弟は逃亡を図り生き延びようとするも捕縛されてしまい斬首されてしまいました。
兄弟達が斬首された後も逃げ続けていましたが、湯治中に捕まってしまい京へと護送されていきます。幸いなことに保元の乱の処理が済まされていたことと剛勇の将だったことで助命され伊豆大島へと流刑となりました。
伊豆大島から鬼ヶ島へ
伊豆大島へ流されてから傷が癒えるまでは大人しくしていましたが、島の代官だった三郎大夫忠重の娘を貰い代官の婿となると年貢を納めることが無くなっていきました。そして十年後の1165年には鬼ヶ島へと渡りこの島を含む伊豆大島付近の島を七つ支配していきます。
この鬼ヶ島が琉球とされていて、ここに来た際に大里按司の妹と仲を深め後の琉球王国の祖となる舜天が誕生しました。伊豆へ戻ることになった為朝は大里按司の妹と舜天を乗せて帰りたいと思うも昔は船におなごを乗せると龍神の怒りを買うとされていたため、泣く泣くこの地に置いていったとされています。
伊豆へ帰った為朝は天皇からの討伐命令が下ったことを知り、北条氏らが五百兵と二十艘で押し寄せてきました。もはやこれまでと悟った為朝は子の為頼を刺し殺し自身は一矢報いるために敵艘に向かって矢を放つと見事命中し艘を転覆させ三百兵ほどを討ち取りましたが、既に覚悟を決めていたことで自害し二十九歳で亡くなります。
舜天の成長
為朝の帰りを待ち望んでいた舜天でしたが、為朝が帰ることはありませんでした。舜天が十五歳となると他の人よりも優れていたようで人民から推薦で浦添の按司となり活躍し始めていきます。その頃に琉球を治めていたとする天孫氏が家臣に毒入りの酒を飲まされたことにより暗殺されてしまいました。
毒殺したことを見抜いた舜天は反逆者を裁くべく五十騎ほどを率いて利勇のいる首里城へ攻め入り、奇襲攻撃を仕掛けていき圧倒された利勇らは自害してしまいます。これによって中山王が居なくなり代わりに舜天が二十二歳でその座に就くきました。王となった舜天は政務を行いしっかりと定まっていなかった法を作り国づくりに励んでいきます。
そして舜天は琉球国中山王と自分から名乗るようになり、周辺の人々も舜天を王として認め従っていきました。
琉球王国の誕生
舜天が王となりその子供が中山王として中山王国を支配していきました。
第一尚氏が台頭してくる
第一尚氏は初めから琉球にいた氏ではなく、肥後国を支配していた名和氏が移り住んできて尚性を名乗ったとされています。また明から授けられたとする資料も存在していますが、明側の記録には残されていないため現在では名乗った経緯については不明。
尚氏の名が登場してくるのは、舜天の子息だった武寧が中山王と即位していた時に戦いを挑み尚巴志王と思紹王親子が滅ぼし新たな中山王として思紹王が即位していきました。その後の武寧がどこに葬られているか不明となっており巴志王と戦った時には武寧の部下の多くは巴志王に味方していたようです。
戦うより以前に巴志王の調略活動によって武寧を裏切ったのか、劣勢だと判断して巴志に降ったのか分かりませんが力の差があったことは間違えなかったでしょう。
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