日本史歴史

450年間に渡り沖縄一帯を支配した「琉球王国」を戦国通のサラリーマンが5分で徹底解説

よぉ、桜木建二だ。昔の時代は海を渡るには船を利用して他国と交流を図り親睦を図っていた。しかし今ほど船が頑丈ではないため、出航すれば必ず到着するとも限らないうえに死を覚悟して乗船した人もいただろうな。また古い時代から日本には離島と呼ばれる島々が多数存在しておりそれぞれ独立した勢力を築き上げていたようだ。

そこで今回は当時の日本離島を制圧下に置いていた琉球王国について歴史マニアであり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

what_0831

ライター/what

沖縄と名乗る前の琉球王国について発見されたところから1879年までの歴史を解説していく。

琉球の登場

image by PIXTA / 55279198

現在の沖縄である琉球は、資料で初めて登場してきたのは600年代でした。

隋書に書かれていた流求

一番最初に琉球の存在を確認していたのは、日本ではなく中国でその時代に一帯を支配していた隋が琉球の存在を確認し兵を派遣し国の調査を行っていました。琉球の字も流求と書かれていて宮殿があったとされていたと隋書に記載があるもののその時代に王が存在していたかは文献が残されていないため不明となっています。

当時の日本は推古天皇を中心とした中央集権国家体制を築き上げていて政務で手腕を振るっていましたが、聖徳太子が隋などに使者を派遣していました。607年に遣隋使として官僚だった小野妹子が隋へと渡った際に長安に置かれていた甲冑を見てイヤク国の物であるといいます。

資料で判明していないだけで、既に琉球の存在を知っていたということは交易を行っていたのでしょう。しかしながらやり取りした形跡がないため、推古天皇政権からすると敵であったのか味方であったのか分かりません。ただ甲冑を知っていたとすると戦いが行われていた可能性もあります。

おきなわの名称

流求との記述がある他に今は県名として記載されているおきなわは、流求と呼ばれていた時代と同時期に自国の人達が呼んでいたとされています。おきなわの名が確認されるのは日本で戒律を確立した鑑真が唐から日本へ渡る際に遣唐使と共におきなわを訪れた時でした。

到着した鑑真は島の人々に此処はどこなのかと尋ねるとおきなわと呼んでいておきなわという名の女性祭司もおり、地域の祭りごとを仕切っていたようです。他国からの呼び名も様々あり「うきなわ」や「うちなー」といった名で呼ばれていて当時のことを思うと言語自体が統一されていたわけではないので、聞き取り方によってくると思うため国名が散見したのでしょう。

現在の沖縄へと名を変えたのも当て字のようで、本来の名で県名となっていたら日本で唯一のひらがな県だったかもしれません。

王が誕生して国を収める

王の存在が確認されるのが、十二世紀の鎌倉時代からです。

剛勇無双の源氏

王国を誕生させたとされる人物は、鎌倉幕府の作った源氏の縁者でした。名を源為朝と名付けられて誕生してきましたが、幼少期から気性が荒い性格をしていたようで父だった源為義は大変苦労をしていたようで十三歳頃には手のつけようのない少年となっていきます。為義は鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖父であり頼朝とは叔父にあたる存在でもありました。

乱暴者になっていた為朝は自分の下から九州へと追放させ住まわせていましたが、自身の行為を振り返ることもなく暴れていきます。またこの地で平氏から妻を娶り子を作り有り余った力で九州一帯の豪族と戦いを幾度なく繰り広げていき、追放されてからたった三年の1152年には九州豪族を自身に降らせ平定させてしまいました。

その後に保元の乱が発生し為義に従い上皇につくも、兄だった源義朝が天皇方にへと参り兄弟で敵味方に分かれてしまいます。

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