昔の時代は海を渡るには船を利用して他国と交流を図り親睦を図っていた。しかし今ほど船が頑丈ではないため、出航すれば必ず到着するとも限らないうえに死を覚悟して乗船した人もいたでしょうな。また古い時代から日本には離島と呼ばれる島々が多数存在しておりそれぞれ独立した勢力を築き上げていたようです。

そこで今回は当時の日本離島を制圧下に置いていた琉球王国について歴史マニアであり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

沖縄と名乗る前の琉球王国について発見されたところから1879年までの歴史を解説していく。

琉球の登場

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現在の沖縄である琉球は、資料で初めて登場してきたのは600年代でした。

隋書に書かれていた流求

一番最初に琉球の存在を確認していたのは、日本ではなく中国でその時代に一帯を支配していた隋が琉球の存在を確認し兵を派遣し国の調査を行っていました。琉球の字も流求と書かれていて宮殿があったとされていたと隋書に記載があるもののその時代に王が存在していたかは文献が残されていないため不明となっています。

当時の日本は推古天皇を中心とした中央集権国家体制を築き上げていて政務で手腕を振るっていましたが、聖徳太子が隋などに使者を派遣していました。607年に遣隋使として官僚だった小野妹子が隋へと渡った際に長安に置かれていた甲冑を見てイヤク国の物であるといいます。

資料で判明していないだけで、既に琉球の存在を知っていたということは交易を行っていたのでしょう。しかしながらやり取りした形跡がないため、推古天皇政権からすると敵であったのか味方であったのか分かりません。ただ甲冑を知っていたとすると戦いが行われていた可能性もあります。

おきなわの名称

流求との記述がある他に今は県名として記載されているおきなわは、流求と呼ばれていた時代と同時期に自国の人達が呼んでいたとされています。おきなわの名が確認されるのは日本で戒律を確立した鑑真が唐から日本へ渡る際に遣唐使と共におきなわを訪れた時でした。

到着した鑑真は島の人々に此処はどこなのかと尋ねるとおきなわと呼んでいておきなわという名の女性祭司もおり、地域の祭りごとを仕切っていたようです。他国からの呼び名も様々あり「うきなわ」や「うちなー」といった名で呼ばれていて当時のことを思うと言語自体が統一されていたわけではないので、聞き取り方によってくると思うため国名が散見したのでしょう。

現在の沖縄へと名を変えたのも当て字のようで、本来の名で県名となっていたら日本で唯一のひらがな県だったかもしれません。

王が誕生して国を収める

王の存在が確認されるのが、十二世紀の鎌倉時代からです。

剛勇無双の源氏

王国を誕生させたとされる人物は、鎌倉幕府の作った源氏の縁者でした。名を源為朝と名付けられて誕生してきましたが、幼少期から気性が荒い性格をしていたようで父だった源為義は大変苦労をしていたようで十三歳頃には手のつけようのない少年となっていきます。為義は鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖父であり頼朝とは叔父にあたる存在でもありました。

乱暴者になっていた為朝は自分の下から九州へと追放させ住まわせていましたが、自身の行為を振り返ることもなく暴れていきます。またこの地で平氏から妻を娶り子を作り有り余った力で九州一帯の豪族と戦いを幾度なく繰り広げていき、追放されてからたった三年の1152年には九州豪族を自身に降らせ平定させてしまいました。

その後に保元の乱が発生し為義に従い上皇につくも、兄だった源義朝が天皇方にへと参り兄弟で敵味方に分かれてしまいます。

\次のページで「流刑となる」を解説!/

流刑となる

為朝の剛勇のおかげもり優勢な展開となっていましたが、保元元年7月11日に天皇方の夜襲攻撃を受け各地で激戦となっていました。為朝は兄義朝と交戦し激しい接戦の末に率いていた二十八騎の内二十三騎を失ってしまうも義朝率いる坂東武者を五十三騎討ち取ります。最後に兄弟で決着をつけるべく対峙しましたが、上皇がいる宮殿に火がつき敗色濃厚となったなった為朝は為義らと共にその場から撤退し落ち延びていきました。

その後に東国で再挙を図ろうとするも老体であることを理由に義朝に降伏を申し出ることになります。命だけは助けてくれるであろうと踏んでいた為義でしたが、義朝は朝廷から許されることなく斬首となり為朝を除く兄弟は逃亡を図り生き延びようとするも捕縛されてしまい斬首されてしまいました。

兄弟達が斬首された後も逃げ続けていましたが、湯治中に捕まってしまい京へと護送されていきます。幸いなことに保元の乱の処理が済まされていたことと剛勇の将だったことで助命され伊豆大島へと流刑となりました。

伊豆大島から鬼ヶ島へ

伊豆大島へ流されてから傷が癒えるまでは大人しくしていましたが、島の代官だった三郎大夫忠重の娘を貰い代官の婿となると年貢を納めることが無くなっていきました。そして十年後の1165年には鬼ヶ島へと渡りこの島を含む伊豆大島付近の島を七つ支配していきます。

この鬼ヶ島が琉球とされていて、ここに来た際に大里按司の妹と仲を深め後の琉球王国の祖となる舜天が誕生しました。伊豆へ戻ることになった為朝は大里按司の妹と舜天を乗せて帰りたいと思うも昔は船におなごを乗せると龍神の怒りを買うとされていたため、泣く泣くこの地に置いていったとされています。

伊豆へ帰った為朝は天皇からの討伐命令が下ったことを知り、北条氏らが五百兵と二十艘で押し寄せてきました。もはやこれまでと悟った為朝は子の為頼を刺し殺し自身は一矢報いるために敵艘に向かって矢を放つと見事命中し艘を転覆させ三百兵ほどを討ち取りましたが、既に覚悟を決めていたことで自害し二十九歳で亡くなります。

舜天の成長

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為朝の帰りを待ち望んでいた舜天でしたが、為朝が帰ることはありませんでした。舜天が十五歳となると他の人よりも優れていたようで人民から推薦で浦添の按司となり活躍し始めていきます。その頃に琉球を治めていたとする天孫氏が家臣に毒入りの酒を飲まされたことにより暗殺されてしまいました。

毒殺したことを見抜いた舜天は反逆者を裁くべく五十騎ほどを率いて利勇のいる首里城へ攻め入り、奇襲攻撃を仕掛けていき圧倒された利勇らは自害してしまいます。これによって中山王が居なくなり代わりに舜天が二十二歳でその座に就くきました。王となった舜天は政務を行いしっかりと定まっていなかった法を作り国づくりに励んでいきます。

そして舜天は琉球国中山王と自分から名乗るようになり、周辺の人々も舜天を王として認め従っていきました。

琉球王国の誕生

舜天が王となりその子供が中山王として中山王国を支配していきました。

第一尚氏が台頭してくる

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第一尚氏は初めから琉球にいた氏ではなく、肥後国を支配していた名和氏が移り住んできて尚性を名乗ったとされています。また明から授けられたとする資料も存在していますが、明側の記録には残されていないため現在では名乗った経緯については不明。

尚氏の名が登場してくるのは、舜天の子息だった武寧が中山王と即位していた時に戦いを挑み尚巴志王と思紹王親子が滅ぼし新たな中山王として思紹王が即位していきました。その後の武寧がどこに葬られているか不明となっており巴志王と戦った時には武寧の部下の多くは巴志王に味方していたようです。

戦うより以前に巴志王の調略活動によって武寧を裏切ったのか、劣勢だと判断して巴志に降ったのか分かりませんが力の差があったことは間違えなかったでしょう。

\次のページで「中山王そして三山国を統一へ」を解説!/

中山王そして三山国を統一へ

琉球統一を目指していた尚氏は武寧を滅ぼした十年後の1416年に北山王国を攻めていきました。攻められるより以前は北山王国は今帰仁按司が今帰仁城主となり1322年に北山王国を作っていきます。中央と南側の按司に分かれていて三大按司と呼ばれていました。

支配圏は現在の沖永良部島や与論島まで伸ばしていて明とも貿易を図っていて国を発展させていきます。しかし尚氏の攻撃によって滅ばされてしまい尚氏の官職だった北山監守によって尚氏一族の支配圏となりました。

1429年には琉球の南側を支配していた他魯毎を攻め滅ぼし全ての国を滅ぼした尚氏は見事琉球を支配し統一することになります。

琉球王国

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三山を統一したことで1429年に琉球王国を作り思紹王が初代王として誕生します。居城は首里城へと移し日本や明そしてジャワなどのアジア圏まで広く交易を行い自国繁栄へと力を注いでいきました。しかしながら統一したとはいえ按司や豪族などの攻撃に合い琉球王国の地盤が固まっていませんでした。

思紹王の嫡子達が王として即位していきましたが、豪族の力が強く押さえつけても反抗してきたため安定した政務をすることが出来ません。また地盤が固まっていない状態で支配圏を伸ばそうとしたことで尚徳王は家臣の人望を無くしていきました。

1469年になると尚徳王が亡くなり後継者に自身の子供がいましたが、クーデターに合い殺害されてしまいます。

第二尚政権から琉球王国の最後

クーデターが発生したことで琉球王国を成立させた尚一族が滅んでいきました。

尚氏の重臣だった金丸が王となる

クーデターを起こしたのは第六代琉球王だった尚泰久王の重臣として起用されていた金丸でした。金丸は出生は百姓として農業を家族と共に従事していましたが、金丸が二十歳の時に両親が亡くなってしまい生活が困窮すると村から追い出されていき行き場を失っていた金丸を泰久王が下役として起用します。

そこから徐々に力を付けていった金丸は重臣まで登りつめていき、尚徳王に不満を抱いていたことで尚一族を滅ぼし自身が琉球王国の王座へ座り王へと即位していきました。金丸は尚氏の名前を使い尚円王と名乗り第二尚氏が誕生し琉球王国を繁栄させていきます。

第二尚氏の栄華

初代尚一族が従えることが出来なかった豪族達を臣従させるために按司を首里城へと招き移り住ませることに成功します。これにより中央政権が確立され琉球王国は一つの国として機能していくこになりました。1500年になると支配地域を伸ばすべく現在の八重山諸島への攻撃を開始していきます。

そして石垣島と与論島を武力で支配していき奄美大島諸島も征服し支配下へと加えていき琉球王国最大の領土へとなっていきました。その後は明から冊封国として従うように命令されるも拒否していたものの最終的には明の一部に加わっていきます。

日本本土との関わり

豊臣政権時代に明を攻撃することが決まり、従軍するよう求められるも既に明側に立っていた琉球王国は豊臣秀吉の命令を一時は断っていました。しかし明侵攻が開始すると当時の王だった尚寧王は豊臣軍に食料などの供給を行っていきます。

そして秀吉から徳川家康の時代となると、薩摩国の要求を無視していたことで琉球王国の侵攻が開始されていきました。1609年に首里城まで島津軍が三千兵で押し寄せてきましたが、三千より多い四千で対抗していくも最後は敗れ和睦を結ぶことになります。

尚寧王は島津氏と共に江戸へ出向き徳川秀忠に、謁見し琉球王国の支配を認められ奄美諸郡だけが割譲させられるだけで済み薩摩国の従属国となりました。

ペリー来航から琉球王国廃止

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日本本土での争いが無くなり、戦うことが無くなったことで独立国家として位置を保ち続けていきました。時代は流れていき1853年5月に那覇港へ黒船を率いてきたペリー提督によって開港させられ米国と修好通商条約を結び自由貿易と米国の墓地設置や漂流民の救助内容として第一条から第七条まで記載されています。

そして江戸幕府が滅ぼされ新政府が樹立し明治政府となると、廃藩置県が発令されていきました。琉球国王の尚泰はこの命令を無視していきましたが、政府軍の攻撃に合い首里城を開城し琉球王国無くなり沖縄県が誕生していきます。

琉球王国の文化

琉球王国の文化について紹介していきます。

琉歌や和歌

琉球王国は独立した国でありながらも他国の貿易により他文化を取り入れつつ自国の文化も作っていきました。琉球では詠むための歌として扱われていた琉歌が存在しており三十音からなる歌謡を基本とする定型詩でありながら謳うための歌としても扱われていたようです。

この琉歌を奄美諸郡では島唄として大変親しまれて現在にも残されていました。また日本本土と同様に和歌を詠まれていたようで秀吉の謁見の際に詠まれている資料も確認されていますが、和歌がどの様にして琉球に伝えられていたかはっきりとは分かっておりません。

日本の中で一番長く王国が存在していた

島国の一部ではありましたが、そこに王国を作り約四百五十年間に渡り国を支配し繁栄させられた国は日本としては沖縄だけでしょう。攻め込むことが難しい国でもあり他国に貿易をすることが出来たのも沖縄としての島特有の特権だったと思います。

しかし船での出航となるので確実に他国へ行けていたかは分かりませんが、異国文化が多く入り込んでいることを見ますと多くの国と交流し交易を図っていたことでしょう。源氏からの始まりとされている琉球王国ですが、一部の意見として二百年代に邪馬台国が存在していたともいわれております。

独立国家として長く続いたのには、歴代の王や側近達の力も勿論あると思いますが島々の人達が自分の島を守りたいという気持ちもあり王国に尽くしていたのかも知れません。

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日本史歴史

450年間に渡り沖縄一帯を支配した「琉球王国」を戦国通のサラリーマンが5分で徹底わかりやすく解説

昔の時代は海を渡るには船を利用して他国と交流を図り親睦を図っていた。しかし今ほど船が頑丈ではないため、出航すれば必ず到着するとも限らないうえに死を覚悟して乗船した人もいたでしょうな。また古い時代から日本には離島と呼ばれる島々が多数存在しておりそれぞれ独立した勢力を築き上げていたようです。

そこで今回は当時の日本離島を制圧下に置いていた琉球王国について歴史マニアであり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

沖縄と名乗る前の琉球王国について発見されたところから1879年までの歴史を解説していく。

琉球の登場

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現在の沖縄である琉球は、資料で初めて登場してきたのは600年代でした。

隋書に書かれていた流求

一番最初に琉球の存在を確認していたのは、日本ではなく中国でその時代に一帯を支配していた隋が琉球の存在を確認し兵を派遣し国の調査を行っていました。琉球の字も流求と書かれていて宮殿があったとされていたと隋書に記載があるもののその時代に王が存在していたかは文献が残されていないため不明となっています。

当時の日本は推古天皇を中心とした中央集権国家体制を築き上げていて政務で手腕を振るっていましたが、聖徳太子が隋などに使者を派遣していました。607年に遣隋使として官僚だった小野妹子が隋へと渡った際に長安に置かれていた甲冑を見てイヤク国の物であるといいます。

資料で判明していないだけで、既に琉球の存在を知っていたということは交易を行っていたのでしょう。しかしながらやり取りした形跡がないため、推古天皇政権からすると敵であったのか味方であったのか分かりません。ただ甲冑を知っていたとすると戦いが行われていた可能性もあります。

おきなわの名称

流求との記述がある他に今は県名として記載されているおきなわは、流求と呼ばれていた時代と同時期に自国の人達が呼んでいたとされています。おきなわの名が確認されるのは日本で戒律を確立した鑑真が唐から日本へ渡る際に遣唐使と共におきなわを訪れた時でした。

到着した鑑真は島の人々に此処はどこなのかと尋ねるとおきなわと呼んでいておきなわという名の女性祭司もおり、地域の祭りごとを仕切っていたようです。他国からの呼び名も様々あり「うきなわ」や「うちなー」といった名で呼ばれていて当時のことを思うと言語自体が統一されていたわけではないので、聞き取り方によってくると思うため国名が散見したのでしょう。

現在の沖縄へと名を変えたのも当て字のようで、本来の名で県名となっていたら日本で唯一のひらがな県だったかもしれません。

王が誕生して国を収める

王の存在が確認されるのが、十二世紀の鎌倉時代からです。

剛勇無双の源氏

王国を誕生させたとされる人物は、鎌倉幕府の作った源氏の縁者でした。名を源為朝と名付けられて誕生してきましたが、幼少期から気性が荒い性格をしていたようで父だった源為義は大変苦労をしていたようで十三歳頃には手のつけようのない少年となっていきます。為義は鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖父であり頼朝とは叔父にあたる存在でもありました。

乱暴者になっていた為朝は自分の下から九州へと追放させ住まわせていましたが、自身の行為を振り返ることもなく暴れていきます。またこの地で平氏から妻を娶り子を作り有り余った力で九州一帯の豪族と戦いを幾度なく繰り広げていき、追放されてからたった三年の1152年には九州豪族を自身に降らせ平定させてしまいました。

その後に保元の乱が発生し為義に従い上皇につくも、兄だった源義朝が天皇方にへと参り兄弟で敵味方に分かれてしまいます。

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