戦の絶えない時代では後継者がすんなりと決まることもあれば、兄弟同士で争いに発展し家中が揺らぐことは多々あったとされているな。また家の勢力が大きいと更に家中だけでなく隣国や同盟国の大名も巻き込まれたこともあったようです。

そこで今回は織田信長の跡目争いへと発展し織田家の次期当主を決めた清州会議について歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

織田家の後継者争いを起きた経緯から参加者そしてその後の出来事について紹介していく。

清州会議以前の織田家

織田家は桶狭間で今川氏を破って以降、隣国大名を次々と従軍させていき勢力を拡大していました。

長篠の戦いから甲州征伐

天正年号となり信長の勢力は次第に大きくなっていき各国の大名達が、信長の下に降っていきました。敵対していた勢力は甲斐国の武田氏や安芸国の毛利氏だけとなっております。

天正2年から3年の間で武田氏と織田・徳川連合は戦いを何度も行っていた状態で、武田信玄亡き後を武田勝頼が継ぎ武田軍から離反した奥平氏を討伐しに軍を動かしていくも想像以上に苦戦を強いられてしまい織田・徳川連合軍が設楽原に着陣してしまいました。

武田氏を滅ぼす

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当時は騎馬軍団を従えていた武田氏は最強と呼び声が高かったですが、火縄銃という最新鋭の武器が使用され為す術が無くなった勝頼は長篠の戦いで大敗を期します。ほぼ無傷に終えた織田軍は武田氏を滅ぼすために甲州征伐を発令し織田信忠を総大将として甲斐国へ侵攻していきました。

圧倒的な織田軍を前にして防戦していく武田軍でしたが、既に長篠の戦いで多くの重臣が討ち取られており武田二十四将も僅かしか生き残っておりません。武田軍の多くは織田軍を前に降伏し一部の家臣は、織田軍へと寝返ったことで戦力に徹底的な差が生まれ勝頼は天目山で果て武田領は織田軍によって分領されていきました。

中国征伐へ

甲斐国を攻略始める三年前に安芸国の毛利領に向けて、羽柴秀吉率いる織田軍が侵攻を始めておりました。先鋒隊として尼子氏が自身の家を再興するために織田家の力を借りて、一足先に毛利氏を攻撃していましたが荒木村重の謀反に合い援軍を差し向けられる状況ではなくなってしまい見限られ討死してしまう尼子氏。

尼子氏が滅ぼされた後に秀吉の一軍が1581年に到着し守護代だった山名氏を攻め落とし備中国へ侵攻していきます。

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力を見せつけるための水攻め

備中国の備中高松城には、清水宗治で湿地帯に囲まれていた城だったため容易に攻め落とすことが出来ないと判断した秀吉は降伏するよう何度も申し入れをするも宗治は断固として降伏を受け入れませんでした。そして黒田如水の策として水攻めが決行され備中高松城は水かさが増していき落城寸前まで追い込まれていきます。

水攻めを決めたのには毛利軍が四万の大軍で押し寄せてきていたことと、信長から一刻も早く毛利氏を降伏させるよう命令されていました。如水の力を借りつつあと一歩まで追い詰めていた秀吉でしたが、1582年6月2日に本能寺の変が発生し急ぎ京へ戻るために毛利氏と和睦を結び兵を引き返させていきます。

本能寺に光秀が現る

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中国征伐を行っていた秀吉から援軍要請を受けた信長は、明智光秀に一万の兵を率いさせて秀吉の下に向かうよう命令していきます。光秀が立とうとしていた時には、水攻めが行われていて毛利氏を追い込み総仕上げを信長にお願いしていた秀吉でした。これを受けて光秀の後に続く予定でいた信長は、本能寺で一泊するために百兵ほどの小性衆と共に本能寺に向かっていきます。

光秀は一万の軍勢を整わせ小性衆だった森成利に陣容を確認していただきたいといい、使者を送り本能寺付近で軍議を開き付き従っていた家臣達に謀反の事実を伝え起誓文を書かせていきました。その後2日の早朝四時頃に本能寺周辺を取り囲んでいくと、信長は外が騒がしくなっていたため起き上がると下々の喧嘩が行われていると思っていたその時に銃声が鳴り響きます。

信長の横死

この音に驚かされた信長は状況を確認するよう成利に調べさせると、桔梗紋が掲げられていて明智氏の謀反であることが発覚し信長は是非もなしといい長槍を手に小性衆と一緒に本能寺に侵入してきた明智軍と応戦していきました。明智軍は一万三千に対して信長は精々百程度の兵しかおらず、勝つ見込みが無いことは分かっていましたが逃げる素振りも見せずに戦い抜き本能寺最奥にて自刃していきます。

中国大返し

本能寺で信長が討たれると二条御所に居た信忠にも明智の軍勢が押し寄せていました。信忠も退路を断たれていて逃げ場が無くなっていて自らも刀を振るい戦うも家臣が力尽きていき限界を感じた信忠は自刃し果てていきます。

これにより織田家の二代当主が討たれてしまい織田軍は窮地に立たされていきました。この状況にいち早く対応するべく備中国から兵を戻していた秀吉が光秀を討ち取るために兵を再編していきます。光秀は秀吉の予想以上に早い動きに対応することが出来ずに円明寺川で対峙していきました。

秀吉が信長の敵討ちを果たす

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明智軍が先制攻撃を始めていきましたが、羽柴軍の後詰めとして堀秀政が到着し羽柴軍が徐々に優勢になっていきます。そして羽柴軍として参加していた池田恒興親子が、津田隊へ三方向から攻撃を行い津田隊を壊滅させていくと続いて斎藤隊と伊勢隊も羽柴軍の攻撃によって潰走していきました。

兵力が勝っていた秀吉でしたが兵の消耗が激しく追い込まれそうになるも、明智軍はそれ以上に消耗し兵が壊滅しており坂本城に居た光秀は脱出し生き延びようとするも落ち武者狩りに合い絶命します。

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清州会議への参加大名

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山崎の戦いで光秀を討ち取り織田家中で優勢な立ち位置にいた秀吉でしたが、織田家重臣だった勝家も織田家で一番発言力を持っていました。

織田家重臣達によって話し合いが行われる

本能寺で信長が倒れたことで、領地の見直しが提案されることになったことや信長の後継者を決めるため信長の家臣団で話し合いが行われることになります。当時の織田家中で一番発言力を持っていたのが柴田勝家で織田四天王と目され筆頭家老として織田家で活躍していました。

本能寺の際には上杉氏を攻略していて要衝だった魚津城を陥落させ上杉謙信を追い込んでいる状況で信長が横死した情報が知らされ全軍を撤退し光秀討伐計画を丹羽長秀らと共に画策していたようです。そして話し合いが尾張国の清州城で開かれ集まった重臣は勝家・秀吉・長秀・恒興でした。

本来であれば勝家が主導権を握り話し合いを進めていく形でしたが、光秀を討伐した秀吉の実績が周囲から認められ秀吉の影響が日に日に強くなっていきます。滝川一益もこの場に参加する予定でしたが、北条氏に苦しめられていて清州会議に間に合いませんでした。

後継者

後継者として名乗りを挙げていたのが信長の二男織田信雄と三男織田信孝。どちらも織田当主になるために必死に主張していたものの、家督を継ぐ形式の流れを組むと信忠の嫡子三法師が次期当主になるべき存在でした。

秀吉は三法師を推薦しましたが勝家は信孝を推していくも信長の仇を討った秀吉には、反論することが出来ず長秀と恒興に説き伏せられ勝家も泣く泣く三法師を織田家当主として認めていきます。

織田遺領分配

織田の後継者が定まり次に処理をしなくてはならないことがあり信長の遺領をどのようにして分配するかの話し合いも行われていました。主に遺領となる場所は畿内の一部分と旧武田領が決まっておらず重臣達を含めて決定させていきます。

信雄は尾張国を信孝は美濃国を相続し信長からの養子だった羽柴秀勝は明智領だった丹羽国を収めていきました。そして重臣達の領土は勝家が越前国を以前と同様に領土とし秀吉の居城だった長浜城と北近江国を割譲していき長秀には近江国の二郡を恒興には摂津国から三郡を割り当てていきます。秀吉は河内国と山城国が増やされ禄が二十八万石へと加増されていきました。

旧武田領には話し合いの結果として一益へ割譲する予定となっていましたが、家康が旧武田領を平定するという理由で侵攻し戦で勝利を収め家康領土となってしまいます。一益はこれに不満を抱き所領を返却するよう家康に申し入れをするも旧武田領への侵攻を黙認してしまったうえにやり直しが出来ずに一益の所領は先送りされてしまいました。

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織田家重臣筆頭の影響力が弱まる

清州会議に間に合わなかった一益は織田家中では地位が急落していきました。清州会議では秀吉が中心となり決定されたため、勝家自体もあまり納得がいっていない状況だったと思われ徐々に秀吉に対して不満を抱いていきます。後継者の決定と遺領が分配され終える頃には重臣の中では秀吉が筆頭家老としての地位に就いていき、勝家の影響力は弱まりつつありました。

この決定事項で大きく織田家の内部が変わっていき重臣達の関係にも変化していきます。清州会議を終え信長の葬儀が開かれていき一段落すると思われましたが、隣国同士だった信雄と信孝が互いの国境に不満を持ち意見が対立していき重臣達との間で境界線を新たに決めていき信雄の意見が合意されました。

この時に秀吉は信雄の肩を持ち勝家は信孝の肩を持ちます。信雄の意見に納得がいかない信孝は次第に信雄に対して不満を持ち始めていき勝家と共に反秀吉派を結成し戦いを行っていくことになりました。

反秀吉派を構築

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清州会議の決定によって勝家の発言力が弱まるのに対して秀吉の影響力が強まっていきました。

会議決定の破棄

遺領分配によって一時は落ち着いていた信雄と信孝でしたが、三法師が当主となったことに納得はしていませんでした。そして三法師のお目付け役として秀政と秀吉は組んでいきます。

これに危機感を覚えた信孝は勝家と共に反秀吉派を結成し、そこに不満を感じていた一益も加わり織田内部で二分していきました。織田家の執権を握っていた長秀と恒興は秀吉を擁護する側に周り支援していきます。

信孝と勝家の謀反がきっかけとなり清須会議で決定されたことが破棄され、三法師から信雄が織田家当主に秀吉と長秀そして恒興によって決定されました。

勝家との戦い

信孝と対立することになった秀吉は信雄を擁立した形で近江国まで侵攻していきます。勝家の部隊も近江国の柳ヶ瀬に到着し布陣を敷いていきました。また勝家は近江国以外に美濃と伊勢の二国に向けて部隊を分けて侵攻していて、秀吉はこの動きに一万の軍勢をそのまま布陣させ美濃国に向けて兵を進めていきます。

羽柴軍は砦を陥落させられ柴田軍の勢いに押されていましたが、奇襲攻撃などを行い柴田軍に反撃していきました。両軍とも実力が拮抗していた状況だったものの突然前田利家の軍勢が戦線を離脱し柴田軍が総崩れしていきます。

利家の離脱によって士気も下がり一部の将も離脱してしまい勝家は北ノ庄城で籠城をしていきますが、劣勢な状況を覆すことが出来ないと判断し自刃していきました。

秀吉が天下に近い人物となっていく

賤ケ岳の戦いで勝家を破り織田家内部の実権を握っていくことになりました。旧臣だった将は織田家臣から秀吉に直接仕えるようになっていき畿内を掌握していきます。

中国征伐時に和睦をしていた毛利氏を服属するように、促していきました。また要塞と名高い石山本願寺を改修し大坂城の建造に取り掛かっていきます。そして有力大名達に秀吉から使者を送り服属するよう促し信長の後継者としての地位を築き上げていきました。

織田家の後継者争いでありながら秀吉の権力が強まっていった

織田の後継者を決めるつもりが、秀吉の影響力が強くなっていきました。反対に数多くいた信長縁の子供達が纏まらず家臣との信頼関係も上手く築くことが出来なかったようです。父に似た性格や天性を受け継いでいれば良かったのですが思いきりもなく戦上手でも無ければ政務を取り仕切ることも無く平凡な信雄と信孝でした。

信長の子息達が団結していれば、多少違った歴史へと変わっていたかも知れませんが父だった信長や信忠の存在が大きくいずれ秀吉と敵対関係に発展していたと思います。ここから秀吉は天下統一へと着実に進んでいき織田家は徐々に弱体化していき関係性が逆転してしまいました。

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安土桃山時代日本史歴史

織田家の後継者を決めた「清洲会議」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

戦の絶えない時代では後継者がすんなりと決まることもあれば、兄弟同士で争いに発展し家中が揺らぐことは多々あったとされているな。また家の勢力が大きいと更に家中だけでなく隣国や同盟国の大名も巻き込まれたこともあったようです。

そこで今回は織田信長の跡目争いへと発展し織田家の次期当主を決めた清州会議について歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

織田家の後継者争いを起きた経緯から参加者そしてその後の出来事について紹介していく。

清州会議以前の織田家

織田家は桶狭間で今川氏を破って以降、隣国大名を次々と従軍させていき勢力を拡大していました。

長篠の戦いから甲州征伐

天正年号となり信長の勢力は次第に大きくなっていき各国の大名達が、信長の下に降っていきました。敵対していた勢力は甲斐国の武田氏や安芸国の毛利氏だけとなっております。

天正2年から3年の間で武田氏と織田・徳川連合は戦いを何度も行っていた状態で、武田信玄亡き後を武田勝頼が継ぎ武田軍から離反した奥平氏を討伐しに軍を動かしていくも想像以上に苦戦を強いられてしまい織田・徳川連合軍が設楽原に着陣してしまいました。

武田氏を滅ぼす

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当時は騎馬軍団を従えていた武田氏は最強と呼び声が高かったですが、火縄銃という最新鋭の武器が使用され為す術が無くなった勝頼は長篠の戦いで大敗を期します。ほぼ無傷に終えた織田軍は武田氏を滅ぼすために甲州征伐を発令し織田信忠を総大将として甲斐国へ侵攻していきました。

圧倒的な織田軍を前にして防戦していく武田軍でしたが、既に長篠の戦いで多くの重臣が討ち取られており武田二十四将も僅かしか生き残っておりません。武田軍の多くは織田軍を前に降伏し一部の家臣は、織田軍へと寝返ったことで戦力に徹底的な差が生まれ勝頼は天目山で果て武田領は織田軍によって分領されていきました。

中国征伐へ

甲斐国を攻略始める三年前に安芸国の毛利領に向けて、羽柴秀吉率いる織田軍が侵攻を始めておりました。先鋒隊として尼子氏が自身の家を再興するために織田家の力を借りて、一足先に毛利氏を攻撃していましたが荒木村重の謀反に合い援軍を差し向けられる状況ではなくなってしまい見限られ討死してしまう尼子氏。

尼子氏が滅ぼされた後に秀吉の一軍が1581年に到着し守護代だった山名氏を攻め落とし備中国へ侵攻していきます。

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