今日は平城京(へいじょうきょう)について勉強していきます。今から約1300年ほど昔、現在の奈良県奈良市に平城京と呼ばれる都がつくられた。遷都したのは元明天皇、ここから奈良時代は始まっていく。

しかし、これまでの藤原京からどのような目的で都を移したのでしょうか。そこで、当時の時代背景と共に今回は平城京について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から平城京をわかりやすくまとめた。

平城京に遷都した理由

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藤原不比等の主張説

平城京でまず知っておかなければならないのは遷都した年で、それは710年……「なんと立派な平城京」などの覚え方が一般的ですね。ただ、これだけでは平城京については何も分からないので、今回しっかり覚えていきましょう。さて、平城京は710年に藤原京から遷都されましたが、この理由は定かになっていません。

最も、いくつかの推測は挙げられており、「藤原京は交通の便が悪かったため」、「藤原不比等の一族が権力を高めるようと、都を飛鳥地方から引き離そうとした」などの理由からではないかとされています。まずここで名前が登場する藤原不比等(ふじわらのふひと)ですが、彼は藤原鎌足の息子です。

藤原不比等は元明天皇の息子である文武天皇に娘を嫁がせ、それによって権力を手に入れました。藤原不比等はさらに権力を高めようとしますが、そのためには都をこれまでの飛鳥地方から離れた場所に移す必要があると考え、藤原京から平城京への遷都と主張したとされています。

遣唐使再開による影響説

藤原不比等の主張論を裏付ける史料として、608年に元明天皇が出した「遷都の詔」があります。史料によると元明天皇は遷都を急いではいなかったそうで、ただ周囲の貴族らが遷都の必要性を強く主張していたと記されており、その貴族の中に藤原不比等も含まれていたとされているのです。

また、近年では都を移した理由の新たな説として「遣唐使再開による影響説」も指摘されていますね。遣唐使は、唐との関係悪化を招いた663年の白村江の戦いで一時中断されましたが、702年に再開したことで、それに伴って平城京をつくろうとしたという説です。

再開によって約30年ぶりに唐の都・長安を見た遣唐使は藤原京との歴然たる差に驚いたそうで、このままでは日本が外国の使節団に笑われてしまうと思ったのでしょう。そこで藤原京にかわる新たな最先端の都をつくることを計画、それが平城京だという説もあるのです。

元明天皇とはどんな人物なのか

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和同開珎

次に、平城京への遷都を行った元明天皇について解説します。元明天皇とはどのような人物なのか?……ここでまず驚くのは、元明天皇は女性だということ。元明天皇は奈良朝第1代の女帝、さらに譲位した次期天皇も女性、女性天皇同士による皇位継承は日本史上でこれが唯一の事例です。

最も、元明天皇が即位したのは事情があり、前の天皇である文武天皇は病弱だったため25歳の若さで亡くなってしまいます。あまりに早すぎる崩御、ですから次期天皇候補だった文武天皇の息子・首皇子はまだ幼く、そのため首皇子に代わる形で元明天皇が即位したのです。

701年に大宝律令が制定されたこともあって、元明天皇もまた他国を参考にしつつ日本の律令国家実現を目指して尽力しました。そんな元明天皇が行ったことと言えば、日本で最初の流通銀貨となった708年の和同開珎(わどうかいちん)が挙げられますね。

日本史上唯一の女性天皇同士での皇位継承

710年、元明天皇は藤原京から平城京へと遷都します。ちなみに、これまでも何度か登場した「遷都」の言葉ですが、これは都を他の地へと移すことを意味するもので、今回のように都を勉強する上では必ず覚えなければならない言葉です。

平城京に遷都した当時は大宝律令の整備が行われており、そのため実務に長けた藤原不比等が右大臣を務め、事実上の最高権力者でした。ですから、「藤原不比等が権力を高めるため」という平城京への遷都の一説は、あながち間違いではないのかもしれませんね。

その後、元明天皇は712年に「古事記」を献上させ、さらに翌年には「風土記」の編纂を命じています。しかし、715年になると老いたことを理由に退位を決断、氷高皇女に譲位したのです。それから少し数年経った721年の12月、元明天皇は60歳で亡くなりました。

平城京のつくりを解説

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平城京の内部と規模

ではここからは平城京のつくりについて解説します。まず平城京がモデルにしたのは中国の都・長安、南北に走る朱雀大路で中央から左右にそれぞれ左京・右京と分けられていました。中央の北部には平城宮と呼ばれる建物が建てられており、内部には内裏・大極殿・朝堂院・官衙(かんが)が存在しています。

内裏は天皇が住む場所、大極殿と朝堂院は政治や儀式を行う場所、官衙は役人が執務を行う場所。そして、左京と右京は東西南北に走る大路によってさらに東西4坊・南北9条に区画されていて、左京には外京と呼ばれる張り出した区画もあります。奈良の大仏で現在でも有名な東大寺は、この左京のさらに外側に位置していました。

また、外京にあった興福寺・元興寺は現在でも残っていますね。さらに平城宮には12の門があり、特に有名なのは朱雀大路の北と南……平城宮へと続く北の朱雀門と南の羅生門でしょう。その規模は南北に約4.8km、東西に約4.3kmで、これは藤原京の約3倍もの広さだと言われています。

2つの大極殿跡の謎

最も、細かく解説しても実際に平城京を見てみないことにはイメージしづらいかもしれません。ただ現在は特別史跡として、平城宮跡なら誰でも自由に散策できるようになっていますから、平城京全体は当然無理にしてもメインの平城宮は実際に見て覚えることも可能ですよ。

また、平城宮の疑問として大極殿の跡がなぜか2つ残っていることが挙げられます。これは後に解説する平城京の歴史に関わってくることで、元正天皇(氷高皇女)から譲位された聖武天皇は、740年からの5年間に平城京から京都や大阪などいくつかの場所に都を遷都、その際に大極殿を解体しました。

しかし、745年に再び平城京へと戻ると新しく大極殿を建てており、つまり平城京からの遷都した時に解体した大極殿、再び平城京へと戻った時に建てた大極殿、このため2つの大極殿の跡が存在するのです。つまり、2つの大極殿の跡がありますが、第一次大極殿を建てたの元明天皇、第二次大極殿を建てたのは聖武天皇ということになります。

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平城京から平城京までの過程

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「平城京→恭仁京→難波京→平城京」の流れ

都の歴史を大まかに辿った場合、おそらくは「710年の平城京→794年の平安京」の流れをイメージすると思います。しかし実際にはそうではなく、短期間ではあるものの平安京に遷都するまでの間に実は4回も遷都されており、そこで今度はその歴史を辿ってみましょう。

740年、聖武天皇は平城京から現在の京都府にあたる恭仁京(くにきょう)へと遷都を行っており、これは当時の右大臣・橘諸兄の本拠地の近くに都を設置することが目的だったとされています。しかし、恭仁京の歴史はわずか4年しかありませんでした。

今度は744年に現在の大阪府にあたる難波京(なにわきょう)へと遷都、これは対立していた上皇らから離れることが目的だったようで、しかし翌745年には再び平城京へと遷都されたのです。このように、740年から745年までの間に「平城京→恭仁京→難波京→平城京」へと目まぐるしく遷都が繰り返されています。

「平城京→長岡京→平安京」の流れ

平城京が誕生して70年ほど経った頃、当時の天皇・桓武天皇は現在の京都府長岡京市にあたる長岡京への遷都を決断。これは、平城京に水路がなく陸路のみで不便だったこと、寺院の勢力が強くなってきたために奈良を離れようとしたことなどが理由として挙げられています。

こうして784年に平城京から長岡京に遷都されましたが、その長岡京の歴史もわずか10年ほどしかありません。これは、桓武天皇の皇子・早良親王が長岡京遷都の責任者・藤原種継の暗殺に関係していたことが発覚したのがそもそもの原因です。

早良親王は無実を訴えて絶食した末に命を落とし、以後長岡京では疫病や飢饉などが立て続けに起こるようになりました。桓武天皇はこれを亡き早良親王の亡霊の祟りと怖れ、そのため長岡京からの遷都を早々に決断、こうして794年の平安京に至るのです。

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平城京の疑問

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平城京は誰が建てたのか?

平城京を造営した人物という表現ならそれは元明天皇ですが、その工事は各地から多くの労働者を集めてつくられました。そのころの日本は人々に対して租・庸・調と呼ばれる税が課せられていましたが、「税=米を納める」だけとは限らず、土木工事の労働もまた税の一つに定められており、平城京造営の労働者も税を名目にして集められたそうです。

平城京の規模から想像できると思いますが、土木工事と言ってもそれは道路工事どころの規模ではなく、そのため1日に10000人以上の労働者が必要とされました。とは言え、平城京造営に関わった労働者の数は明らかになっておらず、ただ厳しい労働だったことは間違いないようです。

と言うのも、あまりの厳しさから労働を放棄して逃げ出した人々も少なくなかったようで、ただ一度逃げ出してしまうと処罰の対象になるためもう故郷に帰ることはできません。労働もしたくないし故郷にも帰れない、逃げ出して人々は行き場をなくして浮浪人となってしまいました。

長岡京に遷都した後に平城京はどうなったのか?

平城京は長岡京に遷都するまでは政治の中心地として栄えていました。最も、正確には長岡京に遷都するまでの間に恭仁京難波京へと遷都されていますが、それはたった数年だけの話。再び平城京に遷都されるとこれまでの繁栄を取り戻したのです。

しかし、長岡京に遷都されてからは平城京の姿は一変します。長岡京に遷都した理由の一つでもあるとおり、平城京には水路がなく水上交通の便が悪いという致命的な問題がありました。さらには仏教勢力からも断絶されたため、平城京は瞬く間に廃れていってしまったのです。

こうして時代の流れと共に荒廃した平城京は現在その姿は残っていませんが、ただ面影として左京の外側にあった東大寺・興福寺の門前町だけは残っています。710年に誕生した平城京は途中何度かの遷都が行われたものの、784年に長岡京へと遷都されるまで日本の都として立派に栄えて機能していました。

平城京と平安京の違いが分かるようにしよう!

平城京を覚えるポイントは平安京との違いを明確にすることです。もちろん、今回解説したことの中には暗記を必要とするものがありますが、それに加えて平安京もあわせて覚えてしまいましょう。

そうすれば平城京と平安京の違いが明確に分かり、いざ出題された時にどちらの都を指しているのか悩んでしまうことがなくなります。そのため、平城京は平安京と比較してその違いが分かることが大切です。

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奈良時代日本史歴史

70年以上続いた奈良の都「平城京」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は平城京(へいじょうきょう)について勉強していきます。今から約1300年ほど昔、現在の奈良県奈良市に平城京と呼ばれる都がつくられた。遷都したのは元明天皇、ここから奈良時代は始まっていく。

しかし、これまでの藤原京からどのような目的で都を移したのでしょうか。そこで、当時の時代背景と共に今回は平城京について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から平城京をわかりやすくまとめた。

平城京に遷都した理由

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藤原不比等の主張説

平城京でまず知っておかなければならないのは遷都した年で、それは710年……「なんと立派な平城京」などの覚え方が一般的ですね。ただ、これだけでは平城京については何も分からないので、今回しっかり覚えていきましょう。さて、平城京は710年に藤原京から遷都されましたが、この理由は定かになっていません。

最も、いくつかの推測は挙げられており、「藤原京は交通の便が悪かったため」、「藤原不比等の一族が権力を高めるようと、都を飛鳥地方から引き離そうとした」などの理由からではないかとされています。まずここで名前が登場する藤原不比等(ふじわらのふひと)ですが、彼は藤原鎌足の息子です。

藤原不比等は元明天皇の息子である文武天皇に娘を嫁がせ、それによって権力を手に入れました。藤原不比等はさらに権力を高めようとしますが、そのためには都をこれまでの飛鳥地方から離れた場所に移す必要があると考え、藤原京から平城京への遷都と主張したとされています。

遣唐使再開による影響説

藤原不比等の主張論を裏付ける史料として、608年に元明天皇が出した「遷都の詔」があります。史料によると元明天皇は遷都を急いではいなかったそうで、ただ周囲の貴族らが遷都の必要性を強く主張していたと記されており、その貴族の中に藤原不比等も含まれていたとされているのです。

また、近年では都を移した理由の新たな説として「遣唐使再開による影響説」も指摘されていますね。遣唐使は、唐との関係悪化を招いた663年の白村江の戦いで一時中断されましたが、702年に再開したことで、それに伴って平城京をつくろうとしたという説です。

再開によって約30年ぶりに唐の都・長安を見た遣唐使は藤原京との歴然たる差に驚いたそうで、このままでは日本が外国の使節団に笑われてしまうと思ったのでしょう。そこで藤原京にかわる新たな最先端の都をつくることを計画、それが平城京だという説もあるのです。

元明天皇とはどんな人物なのか

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