3-3、本間精一郎暗殺
越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士だった本間精一郎は論客として清河八郎と親交があり、清河より先に上洛して薩摩や土佐に倒幕を説いたが、勝気な気性で論争に強く自分の実績を過大喧伝するところや、裕福な家の出身でもあったせいか態度が浮薄とされて各藩の志士から疎まれたそう。そして青蓮院宮と山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きた、または本間が幕府と通じているのではないかと疑われたのが原因ということ。
「伊藤家文書」では、文久2年(1862年)閏8月20日、本間は料亭を酔っぱらって出たところを数人の男に取り囲まれて両腕をとられて刀と脇差をとられたが激しく抵抗、しかし脇腹を刺されて瀕死となりとどめを刺されて斬首。殺害後、遺体は高瀬川へと投棄されたそう。実行犯は以蔵のほかには、平井収二郎、弘瀬健太、島村衛吉、松山深蔵、小畑孫三郎、田辺豪次郎と薩摩の田中新兵衛。
3-4、宇郷重国殺害
前関白九条家の諸大夫の宇郷重国(うごう しげくに)官名、玄蕃頭(げんばのかみ)は、安政の大獄で、同じ九条家の侍臣島田左近と共に志士弾圧を行い、また和宮降嫁推進にも関わったということで、攘夷派志士に睨まれていたそう。
宇郷自身も同年7月21日の島田左近の暗殺後は、身の危険を感じて居所を転々としたが、文久2年(1862年)閏8月22日、九条家河原町御殿に潜伏中に発見されて寝所にいるところを、以蔵、岡本八之助、村田忠三郎、肥後の堤松左衛門が急襲。逃げようとしたが以蔵に斬り倒され、息子も堤が殺害。宇郷の首は鴨川の河岸に、槍に刺して捨札と共に晒されたということ。「官武通記」に記録されているが、実行犯として以蔵が疑問視される異説も。
3-5、目明し文吉殺害
安政の大獄時、九条家侍臣島田左近の手先として多くの志士を摘発した目明し猿の文吉(ましらのぶんきち)は、島田の高利貸しの手伝いも行って、法外な利益を得ていた事などで志士達から強く恨まれていたそう。そのため、文吉に天誅を加えたいと参加を希望する者が相次いだほどで、くじ引きによる人選をしたという話も。
そしてくじに当選した以蔵、清岡治之介、阿部多司馬が、(文久2年閏8月30日)夜、文吉を自宅から拉致して三条河原へ連行、裸にして河原の杭に縛り付けた上で、「斬るのは刀の穢れになる」と細い紐で絞殺し、竹棒で串刺しにするなどしてさらしたということ。文吉は高利貸しとして厳しい取り立てを行なっていたこともあって、京の民衆にも嫌われ遺体に投石する者もあったそう。また、この文吉のの捨札に「いぬ」と書かれたことから、権力者の手先として働く者を犬呼ばわりするようになった説も。
3-6、四与力殺害
京都町奉行所与力の渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞は、安政の大獄で長野主膳、島田左近らと共に志士摘発を行っていたので、宇郷や文吉の殺害後、標的にされるのを避けて京都から江戸へ転任する途中、石部宿まで来た文久2年(1862年)9月23日夜、30名を越す浪士の一団が宿場を襲って騒然とする中で4名ともに殺害。
捨札には、憂国の志士を多数捕らえ、重罪に処したことに対する天誅と書かれていたそう。この襲撃には、土佐、長州、薩摩、久留米の4藩の複数の志士が参加。武市半平太の「在京日記」には土佐からは12名参加と記されるも以蔵の名前がないが、以蔵も加わっていたとする見方も。
3-7、平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛の生き晒し
平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛は商人だが、文久2年(1862年)5月の勅使大原重徳東下の際に士分としてお供したときに収賄や横領などを行い評判が悪かったが、再び勅使に随行するというので、文久2年(1868年)10月9日に、朝廷の威信失墜を懸念した長州、土佐両藩の志士が団結して天誅を加えることに。
土佐は以蔵と千屋寅之助、五十嵐幾之助らが、長州は寺島忠三郎らが手分けして両人を連行し殺害しようとしたが、町人だし家族の助命嘆願で殺害せず、加茂川河岸にある木綿を晒す杭に裸にしたうえで縛り付けて、生き晒しに。
3-8、多田帯刀暗殺
多田帯刀(たてわき)は、長野主膳の妾村山加寿江(かずえ、またはたか)の子で金閣寺の寺侍、やはり長野と共に安政の大獄で志士弾圧に加わったことで、文久2年(1868年)11月14日夜に島原遊郭近くの加寿江宅を浪士らが襲撃、就寝中を引き出して三条大橋のたもとに生き晒しに。翌晩、大家を脅して連れてこさせた多田を蹴上の刑場へ連行して殺害。首は粟田口に晒したということ。加寿江は3日3晩生き晒しに。
この襲撃には長州の楢崎八十槌、土佐の小畑孫三郎、河野万寿弥、依岡珍麿、千屋寅之助ら合計20名が参加したと言われていて、以蔵も加わっていたとされ、大正まで存命した依岡の語り遺しがあるが、この時以蔵は副勅使護衛の任務で江戸に滞在中で事件には関与していないことが判明しているそう。
3-9、池内大学暗殺
元々は知恩院門跡に仕えた尊皇派の儒学者の池内大学は、条約勅許問題や将軍後継問題などで策謀を巡らせていたが、安政の大獄では自首したために比較的軽い罪になったそう。しかし尊攘派志士の目には幕府に寝返ったととられて、狙われる羽目に。大学は変名して大阪に潜伏中の文久3年(1863年)1月22日、大阪に来た土佐前藩主山内容堂の酒宴に招かれたが、その帰りを襲われて殺害のうえ首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日、公家の正親町三条実愛、中山忠能の屋敷に投げ込まれたことで両公家は辞職に。
この事件は、関わったのは以蔵の名前だけで他に関わった正確な氏名も人数も不明ということ、または以蔵は関与していないという説も。
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