南北朝時代室町時代日本史歴史

戦乱の世をまとめた名将軍「足利義満」を室町時代オタクが解説

4.南北朝合一後も義満の勢いは止まらない~日本のトップを目指す~

あの手この手の巧妙な策で国をまとめ上げた義満。2つあった朝廷を統一しただけでもすごいですが、その後もまだまだ勢いが止まりません

今や日本人だけでなく海外の旅行客からも人気の観光地となっている「金閣」ですが、その建築構造からも「さらに上を目指す」という意思表示が表れています。

4-1.天皇に勝りたいという野望

義満は天皇の拠点である「御所」よりも北の北山と呼ばれる地区に派手な建物(金閣)を建てました。当時の(今もですが)京都は、一番北に御所があって、そこから南に一条、二条、三条…と地名がナンバリングされていました。

その「御所」よりも北側に金閣を建てるということは、「天皇よりも上だ」という意識の表れ。

そして、建物構造のからも「自分がトップだ」という意識が読みとれます。

4-2.金閣の建築構造

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金閣の構造の一般的な解釈は

1層:平安貴族風の寝殿造り→公家を表す
2層:武家造り→武士、武将を表す。
3層:仏殿造り→禅宗、中国風。自分を表す。
屋根の鳳凰→自分を表す。

最上階、屋根が自分を象徴し、下階が武士や公家の象徴。「自分が一番上だ」という意識の表れだと捉えることができますね。

4-3.日本国王になる

南北朝合一後の主な年表を確認しましょう。

1397年 金閣完成
1399年:応永の乱
    有力な守護大名大内氏を討伐し、西日本では義満の対抗勢力が居なくなりました。1401年:明との正式な国交樹立、明の皇帝から「日本国王」と認められます。
1404年:日明貿易開始
1408年:義満死去

1399年の応永の乱で大内義弘を討伐して以降、実質国内最強となりました。そして、タイミングを見計らった上で、国内での権威を中国の皇帝にもアピール。

当時の中国は「世界帝国」を目指す機運で、外交に積極的な姿勢でした。

このタイミングを見計らって、義満は明に使者を送り国交樹立を申し込みます。当時の明の皇帝永楽帝から「日本国王」との称号をもらい、見事に明との国交が確立。その後明との貿易が始まると、日本経済が潤い義満はますます権力を強めました。

4-4.あと一歩のところで

国をまとめ(南北朝合一)、経済政策に成功(日明貿易)。1406年に、義満の2番目の妻が後小松天皇の准母となり、義満は天皇の「義父」といえる存在に。

太上天皇(皇位を後継者に譲った人)の尊号をもらえないかと朝廷に働きかけていました。つまり、「天皇の親である私を前の天皇だったことにしてもらえないか」と。

しかし、あと一歩及ばず。1408年4月27日、義満は病に倒れました。義満快癒のための様々な儀式が行われますが、その甲斐もなく、5月6日ついに亡くなってしまいます。

5.義満の死後のグダグダ感

強力なリーダーシップで国をまとめ上げた義満ですが、その死後のグダグダ感は否めません。

5-1.義満への反抗心からまさかの日明貿易中止

親が優秀すぎると、反抗したくもなりますね。義満の後を継いで将軍になった、足利義持は親父義満が苦労して始めた日明貿易を中止してしまいます。日明貿易を続けていた方が、財政も潤いそうですが、人の気持ちは難しいですね。

5-2.将軍はくじ引きで決定

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5代将軍足利義量(よしかず)がお酒の飲み過ぎで身体を壊し、若くして亡くなります。(享年18歳)

後継ぎとなる6代将軍は「くじ引き」で決定。義量の叔父、足利義教(よしのり)が就任。積極的に将軍になりたいという人物が現れなかったと想像されます。

5-3.最後は京都で大戦争~応仁の乱~

義満の時代に一旦は権力を強めた室町幕府でしたが、1467年、義満が亡くなって約60年後にはついに大規模な戦争(応仁の乱)が起きるほど幕府の統率力は弱くなっていました。

最後まで全力疾走もバトンパスが上手く行かず

南北朝を合一して国をまとめ、京都の一等地に金閣を建て、中国の皇帝からは「日本国王」と呼ばれ、天皇の義父に。最後まで勢いが止まらなかった名将軍足利義満

しかし、義満の統率力が素晴らし過ぎたが故か次世代のリーダーが育たず。義満の死後はまとまりがなくなってしまいました。

やがて、日本は本格的な戦争の時代(戦国時代)を迎えたのでした。

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