南北朝時代室町時代日本史歴史

戦乱の世をまとめた名将軍「足利義満」を室町時代オタクが解説

2-3.混乱の中将軍に

義満が将軍になったのは、そんな南北朝時代真っただ中の1368年。義満のお父さんで室町幕府二代将軍、足利義詮(よしあきら)が亡くなり、満10歳の若さで将軍に就任。

お家柄、義満は幼少期から政治について真剣に考えるチャンスがあったと言えます。周りの大人の成功例や失敗例を観察研究できますね。

「もっとあんな風にしたら上手くいったのにな」、「あんな風にしたらうまくいくのか」。幼少期から「将軍家」という特殊な環境で育ったお陰で、そんな事例をいっぱい見ることができたでことでしょう。

そして、将軍に就任し、実権を握ると、あらゆる作戦を実行し始めます。

3.あの手この手で国をまとめる義満

国をまとめるために、義満はいろいろな作戦を実行します。

「俺の言うことは絶対だ、従え」と言うだけでは反発を招き上手くまとまらないでしょう。かと言って「皆さんの意見を最大限尊重します。」と譲歩し過ぎても皆好き好きに行動してしまいまとまりません。

義満の取った作戦は決して「綺麗ごと」ばかりではありませんが、様々な作戦により、結果的に喧嘩を減らすことに成功。

さて、どんな作戦をとったのでしょう?

3-1.対抗勢力を弱体化

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まずは、言うことを聞かない者たちを何とかしたいもの。室町幕府は資金や軍事力に恵まれていませんでした。中央政府である幕府よりも、地方政権である「守護大名」の方が財力があったのです。

真っ向から戦争をしかけても勝てそうにありません。

どうしましょうか。ここは一旦守護大名たちに弱っていただきましょう。なぜなら、幕府の言うことを聞かず国としてまとまらないから。

義満が使った作戦は「内部分裂作戦」。強すぎる守護大名組織に内部でもめ事を起こさせます。せっかく強い守護大名も内部で揉めていると足の引っ張り合いで、トータル弱くなってしまうもの。

さて、実例を見ていきましょう。

3-2.土岐康行の乱~兄弟喧嘩をおこさせる~

有力な守護大名を内部分裂により弱体化させた例を紹介します。美濃、伊勢、尾張の三ヵ国の守護大名、土岐頼康が亡くなりました。

幕府が指示したのは

三ヵ国のうち、美濃と伊勢→養子の土岐康之
尾張→土岐満貞(土岐康之の弟)

三カ国ともお兄さんの土岐康之となりそうですが、ここでは敢えて尾張の守護には弟を命じました。

お兄さんからすると、「三カ国とも俺が治めたい」と思うもの。弟からすると、「いやいや、将軍様が命じたのだし尾張は俺が治めたい」となるわけです。

ここで、兄弟仲が悪くなり内部分裂が発生。お兄さんの土岐康之は「俺が三カ国とも治める」と尾張を攻めました。

すると義満、「美濃と伊勢は兄が、尾張は弟が治めるよう指示した。三か国とも兄が治めるのは幕府の言ったことに逆らっていることになる。」

幕府に反逆を試みたとして土岐康之は討伐されてしまいます。

かくして、土岐氏の勢力は弱まりました。

3-3.時には上手く譲歩

皆を引っ張っていくためには、時には譲歩する姿勢も必要。

南北朝時代は朝廷が2つ。これを何とか1つにまとめたいもの。足利義満からすると、自分が率いていた北朝に1本化したいもの。

南朝を攻めに攻めて、戦況は北朝が有利な状況。しかし、天皇が持つことになっている「三種の神器」を元々持っていたのは南朝側。北朝は飽くまで幕府が建てた仮の朝廷。

いくら戦況が有利だからといって、三種の神器だけ取り上げて、「はい、明日からは北朝が正です」と言っても強い反発を受けそうですね。

南朝にも「納得」してもらった上で、北朝を正にしたいところですね。南北朝合一時、義満は以下のような条件を提示しています。

南北朝合一の条件

・南北朝分裂後の天皇は南朝側が「正」。しかし、今は北朝の方が優勢なので北朝側にも天皇になる権利があるはず。そこで、北朝側にも(どうか)天皇の権利を譲ってほしい

・南朝と北朝から、交互に天皇に即位(両統迭立)。

今にも制圧されてしまいいそうな南朝にとっても、悪い話ではないですね。そのまま粘っても、いずれ北朝に負けて三種の神器を没収され、南朝の存在を全否定されることになりかねません。

それなら、条件を飲んで天皇の権利を北朝にも譲るという案は「あり」ですね。

かくして、義満は反発を抑えつつ、南北朝合一に成功します。

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