日本史

戦乱の世をまとめた名将軍「足利義満」を室町時代オタクが解説

よぉ、桜木建二だ。室町時代は南北朝時代に始まり戦国時代で終わる。それ以外の時期も、土一揆や応仁の乱など「揉め事が多かった」時代。そんな室町時代に、幕府の権力を強めていたのが「足利義満(あしかが よしみつ)」。

この記事では、一面金色に輝く「金閣寺」を建てたことでも知られる名将軍「足利義満」について、室町時代をこよなく愛するR175と解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

R175

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.戦乱の世をまとめた名将軍

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足利義満が生きた時代、室町時代は内乱が多かった時代。室町幕府が出来たのは1338年。南北朝時代とも呼ばれ、朝廷が南朝と北朝が2つ存在し、お互いの対立により争いごとが多かった時代。

室町時代の後半約100年(1467年~1573年)は「戦国時代」とも呼ばれ、その名の通り戦乱の多い時代でした。

「戦乱」に始まり「戦乱」に終わる室町時代に、国をまとめ幕府の権力を強めていた名将軍が居ます。

中国の皇帝から「日本国王」と呼ばれ、「金閣」を建てたことでも知られる室町幕府3代将軍「足利義満」です。

2.国がまとまらない&幕府が弱い「南北朝時代」

足利義満が産まれたのは1358年。南北朝時代です。

南北朝時代とは、南朝と北朝、2つの朝廷(≒日本政府)が存在し、お互いに対立していた時代。

戦闘状態にある2か国が、同じ日本国内で日々にらみ合っていて、全体を統率できる「中央政府」が存在しない状態。

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国内に政府が2つあったら?政府が2つあると、国が大混乱状態になるのは、目に見えてるな。例えば、南朝は「日本国内の道路を左側通行にしようと」言い、北朝は「いやいや、右側通行だ」と言っていたとする。南朝の馬車は道路の左側を走り、北朝の馬車は道路の右側を走る、つまり。正面衝突だ、これだけでも大混乱だよな。

なぜ、1つの政府にまとまらない?

それは、各地の守護大名たちが力をつけて中央政府である「幕府」の言うことを聞かないから。

2-1.そもそも中世は「戦いの時代」

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鎌倉時代からは「武士」の時代が始まりました。戦って勝ち上がっていくトレンドの時代。必然的に、各地で武力衝突が起きます。鎌倉幕府が滅んで、室町幕府が出来た頃は日本全体を統率する「中央政府」の権力も弱いため、ますます争いが増えるわけです。

内乱が多すぎるので、何とかしようと室町幕府は各地を治める「守護大名」たちの権限広げました。

守護大名たちが各地で税金を集めてもいいですよという制度が始まりました。これは「半済」と呼ばれます。本来の意味は「年貢を半分免除する」という意味ですが、ここでは「各地で回収した年貢の半分を守護が使ってもいいですよ」という意味。

1352年、特に戦乱が激しかった近江(現在の滋賀県)、美濃(現在の岐阜県)、尾張(現在の愛知県)で先行して「半済」がスタート。

幕府:「各地で税金を集めていいから、戦乱を何とか止めてくれ
守護:「分かりました。その代わり、地方税の半分は私たちが持っていきますね。

2-2.守護大名が権力を強めると

守護に権限を与えると、各々の地方はある程度まとまってきます。守護が頑張って地方単位ではまとめていきました。

税金の半分をもらえるのだから、お金の使い方をうまくやりくりすれば、守護大名はどんどん金持ちに。幕府より財力のある守護大名がいたほど。

すると、守護大名たちが幕府への発言権を強め、幕府が守護大名たちを十分に統率することができなくなります。

幕府と守護がまともに戦ったら、もはや幕府が負けてしまうかもしれません。さあ、どうしましょう。

2-3.混乱の中将軍に

義満が将軍になったのは、そんな南北朝時代真っただ中の1368年。義満のお父さんで室町幕府二代将軍、足利義詮(よしあきら)が亡くなり、満10歳の若さで将軍に就任。

お家柄、義満は幼少期から政治について真剣に考えるチャンスがあったと言えます。周りの大人の成功例や失敗例を観察研究できますね。

「もっとあんな風にしたら上手くいったのにな」、「あんな風にしたらうまくいくのか」。幼少期から「将軍家」という特殊な環境で育ったお陰で、そんな事例をいっぱい見ることができたでことでしょう。

そして、将軍に就任し、実権を握ると、あらゆる作戦を実行し始めます。

3.あの手この手で国をまとめる義満

国をまとめるために、義満はいろいろな作戦を実行します。

「俺の言うことは絶対だ、従え」と言うだけでは反発を招き上手くまとまらないでしょう。かと言って「皆さんの意見を最大限尊重します。」と譲歩し過ぎても皆好き好きに行動してしまいまとまりません。

義満の取った作戦は決して「綺麗ごと」ばかりではありませんが、様々な作戦により、結果的に喧嘩を減らすことに成功。

さて、どんな作戦をとったのでしょう?

3-1.対抗勢力を弱体化

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まずは、言うことを聞かない者たちを何とかしたいもの。室町幕府は資金や軍事力に恵まれていませんでした。中央政府である幕府よりも、地方政権である「守護大名」の方が財力があったのです。

真っ向から戦争をしかけても勝てそうにありません。

どうしましょうか。ここは一旦守護大名たちに弱っていただきましょう。なぜなら、幕府の言うことを聞かず国としてまとまらないから。

義満が使った作戦は「内部分裂作戦」。強すぎる守護大名組織に内部でもめ事を起こさせます。せっかく強い守護大名も内部で揉めていると足の引っ張り合いで、トータル弱くなってしまうもの。

さて、実例を見ていきましょう。

3-2.土岐康行の乱~兄弟喧嘩をおこさせる~

有力な守護大名を内部分裂により弱体化させた例を紹介します。美濃、伊勢、尾張の三ヵ国の守護大名、土岐頼康が亡くなりました。

幕府が指示したのは

三ヵ国のうち、美濃と伊勢→養子の土岐康之
尾張→土岐満貞(土岐康之の弟)

三カ国ともお兄さんの土岐康之となりそうですが、ここでは敢えて尾張の守護には弟を命じました。

お兄さんからすると、「三カ国とも俺が治めたい」と思うもの。弟からすると、「いやいや、将軍様が命じたのだし尾張は俺が治めたい」となるわけです。

ここで、兄弟仲が悪くなり内部分裂が発生。お兄さんの土岐康之は「俺が三カ国とも治める」と尾張を攻めました。

すると義満、「美濃と伊勢は兄が、尾張は弟が治めるよう指示した。三か国とも兄が治めるのは幕府の言ったことに逆らっていることになる。」

幕府に反逆を試みたとして土岐康之は討伐されてしまいます。

かくして、土岐氏の勢力は弱まりました。

3-3.時には上手く譲歩

皆を引っ張っていくためには、時には譲歩する姿勢も必要。

南北朝時代は朝廷が2つ。これを何とか1つにまとめたいもの。足利義満からすると、自分が率いていた北朝に1本化したいもの。

南朝を攻めに攻めて、戦況は北朝が有利な状況。しかし、天皇が持つことになっている「三種の神器」を元々持っていたのは南朝側。北朝は飽くまで幕府が建てた仮の朝廷。

いくら戦況が有利だからといって、三種の神器だけ取り上げて、「はい、明日からは北朝が正です」と言っても強い反発を受けそうですね。

南朝にも「納得」してもらった上で、北朝を正にしたいところですね。南北朝合一時、義満は以下のような条件を提示しています。

南北朝合一の条件

・南北朝分裂後の天皇は南朝側が「正」。しかし、今は北朝の方が優勢なので北朝側にも天皇になる権利があるはず。そこで、北朝側にも(どうか)天皇の権利を譲ってほしい

・南朝と北朝から、交互に天皇に即位(両統迭立)。

今にも制圧されてしまいいそうな南朝にとっても、悪い話ではないですね。そのまま粘っても、いずれ北朝に負けて三種の神器を没収され、南朝の存在を全否定されることになりかねません。

それなら、条件を飲んで天皇の権利を北朝にも譲るという案は「あり」ですね。

かくして、義満は反発を抑えつつ、南北朝合一に成功します。

4.南北朝合一後も義満の勢いは止まらない~日本のトップを目指す~

あの手この手の巧妙な策で国をまとめ上げた義満。2つあった朝廷を統一しただけでもすごいですが、その後もまだまだ勢いが止まりません

今や日本人だけでなく海外の旅行客からも人気の観光地となっている「金閣」ですが、その建築構造からも「さらに上を目指す」という意思表示が表れています。

4-1.天皇に勝りたいという野望

義満は天皇の拠点である「御所」よりも北の北山と呼ばれる地区に派手な建物(金閣)を建てました。当時の(今もですが)京都は、一番北に御所があって、そこから南に一条、二条、三条…と地名がナンバリングされていました。

その「御所」よりも北側に金閣を建てるということは、「天皇よりも上だ」という意識の表れ。

そして、建物構造のからも「自分がトップだ」という意識が読みとれます。

4-2.金閣の建築構造

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金閣の構造の一般的な解釈は

1層:平安貴族風の寝殿造り→公家を表す
2層:武家造り→武士、武将を表す。
3層:仏殿造り→禅宗、中国風。自分を表す。
屋根の鳳凰→自分を表す。

最上階、屋根が自分を象徴し、下階が武士や公家の象徴。「自分が一番上だ」という意識の表れだと捉えることができますね。

4-3.日本国王になる

南北朝合一後の主な年表を確認しましょう。

1397年 金閣完成
1399年:応永の乱
    有力な守護大名大内氏を討伐し、西日本では義満の対抗勢力が居なくなりました。1401年:明との正式な国交樹立、明の皇帝から「日本国王」と認められます。
1404年:日明貿易開始
1408年:義満死去

1399年の応永の乱で大内義弘を討伐して以降、実質国内最強となりました。そして、タイミングを見計らった上で、国内での権威を中国の皇帝にもアピール。

当時の中国は「世界帝国」を目指す機運で、外交に積極的な姿勢でした。

このタイミングを見計らって、義満は明に使者を送り国交樹立を申し込みます。当時の明の皇帝永楽帝から「日本国王」との称号をもらい、見事に明との国交が確立。その後明との貿易が始まると、日本経済が潤い義満はますます権力を強めました。

4-4.あと一歩のところで

国をまとめ(南北朝合一)、経済政策に成功(日明貿易)。1406年に、義満の2番目の妻が後小松天皇の准母となり、義満は天皇の「義父」といえる存在に。

太上天皇(皇位を後継者に譲った人)の尊号をもらえないかと朝廷に働きかけていました。つまり、「天皇の親である私を前の天皇だったことにしてもらえないか」と。

しかし、あと一歩及ばず。1408年4月27日、義満は病に倒れました。義満快癒のための様々な儀式が行われますが、その甲斐もなく、5月6日ついに亡くなってしまいます。

5.義満の死後のグダグダ感

強力なリーダーシップで国をまとめ上げた義満ですが、その死後のグダグダ感は否めません。

5-1.義満への反抗心からまさかの日明貿易中止

親が優秀すぎると、反抗したくもなりますね。義満の後を継いで将軍になった、足利義持は親父義満が苦労して始めた日明貿易を中止してしまいます。日明貿易を続けていた方が、財政も潤いそうですが、人の気持ちは難しいですね。

5-2.将軍はくじ引きで決定

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5代将軍足利義量(よしかず)がお酒の飲み過ぎで身体を壊し、若くして亡くなります。(享年18歳)

後継ぎとなる6代将軍は「くじ引き」で決定。義量の叔父、足利義教(よしのり)が就任。積極的に将軍になりたいという人物が現れなかったと想像されます。

5-3.最後は京都で大戦争~応仁の乱~

義満の時代に一旦は権力を強めた室町幕府でしたが、1467年、義満が亡くなって約60年後にはついに大規模な戦争(応仁の乱)が起きるほど幕府の統率力は弱くなっていました。

最後まで全力疾走もバトンパスが上手く行かず

南北朝を合一して国をまとめ、京都の一等地に金閣を建て、中国の皇帝からは「日本国王」と呼ばれ、天皇の義父に。最後まで勢いが止まらなかった名将軍足利義満

しかし、義満の統率力が素晴らし過ぎたが故か次世代のリーダーが育たず。義満の死後はまとまりがなくなってしまいました。

やがて、日本は本格的な戦争の時代(戦国時代)を迎えたのでした。

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