この記事では、一面金色に輝く「金閣寺」を建てたことでも知られる名将軍「足利義満」について、室町時代をこよなく愛するR175と解説していきます。
- 1.戦乱の世をまとめた名将軍
- 2.国がまとまらない&幕府が弱い「南北朝時代」
- 2-1.そもそも中世は「戦いの時代」
- 2-2.守護大名が権力を強めると
- 2-3.混乱の中将軍に
- 3.あの手この手で国をまとめる義満
- 3-1.対抗勢力を弱体化
- 3-2.土岐康行の乱~兄弟喧嘩をおこさせる~
- 3-3.時には上手く譲歩
- 4.南北朝合一後も義満の勢いは止まらない~日本のトップを目指す~
- 4-1.天皇に勝りたいという野望
- 4-2.金閣の建築構造
- 4-3.日本国王になる
- 4-4.あと一歩のところで
- 5.義満の死後のグダグダ感
- 5-1.義満への反抗心からまさかの日明貿易中止
- 5-2.将軍はくじ引きで決定
- 5-3.最後は京都で大戦争~応仁の乱~
- 最後まで全力疾走もバトンパスが上手く行かず
この記事の目次
ライター/R175
京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。
1.戦乱の世をまとめた名将軍
足利義満が生きた時代、室町時代は内乱が多かった時代。室町幕府が出来たのは1338年。南北朝時代とも呼ばれ、朝廷が南朝と北朝が2つ存在し、お互いの対立により争いごとが多かった時代。
室町時代の後半約100年(1467年~1573年)は「戦国時代」とも呼ばれ、その名の通り戦乱の多い時代でした。
「戦乱」に始まり「戦乱」に終わる室町時代に、国をまとめ幕府の権力を強めていた名将軍が居ます。
中国の皇帝から「日本国王」と呼ばれ、「金閣」を建てたことでも知られる室町幕府3代将軍「足利義満」です。
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2.国がまとまらない&幕府が弱い「南北朝時代」
足利義満が産まれたのは1358年。南北朝時代です。
南北朝時代とは、南朝と北朝、2つの朝廷(≒日本政府)が存在し、お互いに対立していた時代。
戦闘状態にある2か国が、同じ日本国内で日々にらみ合っていて、全体を統率できる「中央政府」が存在しない状態。
なぜ、1つの政府にまとまらない?
それは、各地の守護大名たちが力をつけて中央政府である「幕府」の言うことを聞かないから。
2-1.そもそも中世は「戦いの時代」
鎌倉時代からは「武士」の時代が始まりました。戦って勝ち上がっていくトレンドの時代。必然的に、各地で武力衝突が起きます。鎌倉幕府が滅んで、室町幕府が出来た頃は日本全体を統率する「中央政府」の権力も弱いため、ますます争いが増えるわけです。
内乱が多すぎるので、何とかしようと室町幕府は各地を治める「守護大名」たちの権限広げました。
守護大名たちが各地で税金を集めてもいいですよという制度が始まりました。これは「半済」と呼ばれます。本来の意味は「年貢を半分免除する」という意味ですが、ここでは「各地で回収した年貢の半分を守護が使ってもいいですよ」という意味。
1352年、特に戦乱が激しかった近江(現在の滋賀県)、美濃(現在の岐阜県)、尾張(現在の愛知県)で先行して「半済」がスタート。
幕府:「各地で税金を集めていいから、戦乱を何とか止めてくれ」
守護:「分かりました。その代わり、地方税の半分は私たちが持っていきますね。」
2-2.守護大名が権力を強めると
守護に権限を与えると、各々の地方はある程度まとまってきます。守護が頑張って地方単位ではまとめていきました。
税金の半分をもらえるのだから、お金の使い方をうまくやりくりすれば、守護大名はどんどん金持ちに。幕府より財力のある守護大名がいたほど。
すると、守護大名たちが幕府への発言権を強め、幕府が守護大名たちを十分に統率することができなくなります。
幕府と守護がまともに戦ったら、もはや幕府が負けてしまうかもしれません。さあ、どうしましょう。
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