日本史

土佐勤王党の盟主にして龍馬の友人「武市半平太」について歴女が解説

4-3、野根山事件起きる

元治元年(1864年)土佐郷士の清岡道之助ら安芸郡下の土佐勤王党関係者23人が、東方、現北川村の野根山に集まり藩政の転換を求め、半平太らの野根山事件が起こり,彼らは捕らえられて有無を言わせず奈半利河原で処刑に。

4-4、岡田以蔵の毒殺は事実ではない

しかし京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛後土佐に送還。以蔵は監察府の拷問によって、京都、大坂の天誅事件への関与、実行者を次々と自白。人斬りと言われたが、厳しい取り調べに音を上げた以蔵の自白により逮捕者が相次いだうえ、半平太らに対する取調べも厳しさを増し、半平太の実弟田内恵吉も、監察府の厳しい拷問に耐えかねて自供をしたことを悔いて服毒自殺し、島村衛吉も拷問死。上士の自分にも拷問が行われて自白の可能性を憂えた半平太は、自殺用の毒の調達を外部に依頼したそう。獄内外の土佐勤王党の同志たちは自白を続ける以蔵が事態を悪化させると以蔵毒殺計画まで。

小説やドラマの影響で、あたかも半平太が保身のために以蔵の自白を恐れて毒殺の指令を発し、それを知った以蔵が半平太に対しての憤りから自白したように思われていますが、「武市瑞山獄中書簡」の編註者、横田達雄の研究では、以蔵は早々と拷問に屈して次々と自白したことについて半平太は、同志の間での強引なまでの以蔵毒殺計画には反対し、以蔵の実家の承諾を得てからと言い、以蔵の実家の承諾を得られずに結審を迎えてしまい、結果的に毒殺計画は実行に移されなかったと判明したそう。また以蔵本人は、自身の自白で同志らが厳しい境遇に追いやられた事を後悔していて、以後の取調べでは自白内容を曖昧にしたなどということも判明。

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そうなのか、以蔵を暗殺マシーンにして使い捨てはひどすぎるもんな

4-5、半平太、三文字に切る切腹法を行う

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武市瑞山 – 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

以蔵ら4名の自白はあったが、半平太らは一連の容疑を否認し続けたために監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証できず。しかし監察府の陣容が一新され、小笠原唯八、乾退助(板垣)、吉田東洋門下で甥の後藤象二郎らが取り調べに当たることになり、尋問は更に厳しくなり、同志達への拷問も厳しくなったので、半平太は覚悟したということで、盂蘭盆に3枚の獄中自画像を揮毫して、それぞれ妻と姉に送り絵筆など道具を返したため、富子夫人は切腹の時期と察して手製の死装束を差し入れた話は有名。

慶応元年(1865年)閏5月11日、容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)によって「主君に対する不敬行為」という罪目で、半平太は切腹に。自白した岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けに。半平太らが否認し続けたため、獄外同志、その他協力者への累は及ばなかったそう。

半平太は体を清めて正装し、誰も為しえなかったと言われる三文字割腹という切腹方法で腹を三文字にかき切り、前のめりになったところを両脇から2名の介錯人が心臓を突き享年37歳で死去。

司馬遼太郎氏によれば、切腹というのは、武士が自分を語る最も雄弁な表現法ということで、死への恐怖を押さえつけて自在にすることで精神の緊張と美都心の自由を生み出そうとしたものではということ。

4-6、半平太の死後

半平太の死で土佐勤王党は事実上壊滅。中岡慎太郎らは藩を見限って脱藩、浪士となって倒幕活動を進めることに。そして明治維新ぎりぎりの段階で、土佐藩は薩長と倒幕勢力の一翼を担ったが、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となって坂本龍馬提案の大政奉還を主導、戊辰戦争で土佐藩兵を率いたのは中岡慎太郎が推薦した乾退助(板垣)という、土佐郷士たちが築いた基礎に上士たちが乗っかる形になったということ。

また維新後に鬱っぽい桂小五郎こと木戸孝允が、仲良くなった山内容堂との酒の席で、なぜ武市半平太を斬ったのかと容堂をなじったとき、容堂は「藩令に従ったまで」と答えたきりだったそう。しかし、晩年病に倒れた容堂は、半平太を殺したことを悔いて、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたという話は有名。

坂本龍馬と並んで土佐郷士のリーダーだった

武市半平太は文武両道に秀でていて、剣術道場を営むだけでなく混迷の時代に日本の行く末を考え、土佐勤王党を結成するほどのカリスマ性とリーダーシップを持った人物。

土佐藩では親友の坂本龍馬と肩を並べる逸材として他藩にも知られていましたが、土佐藩全体として尊王攘夷運動に参加しようとするあまりに、執政吉田東洋暗殺事件を起こしたわけで、東洋を偏愛する容堂候に復讐されたのでした。そして土佐藩としては容堂候がこの事件に関わり過ぎたこと、半平太を処刑し土佐勤王党をつぶしてしまったこと、龍馬と中岡慎太郎も暗殺されたことで、明治以後も薩摩藩や長州藩よりも人材が払底したのは明白。

半平太は人斬りと言われた岡田以蔵を身辺におき京都での暗殺に関わったことで、小説などで陰謀家のイメージで描かれることもあるのですが、愛妻家で真面目な人柄で今でも土佐では瑞山先生と呼ばれ続けていることもクローズアップされるべきではないでしょうか。

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