日本史明治明治維新歴史

土佐勤王党の盟主にして龍馬の友人「武市半平太」について歴女が解説

2-2、土佐藩の状況

この頃の土佐藩は、前藩主豊信(とよしげ)改め容堂の信任厚かった、参政吉田東洋と配下の新おこぜ組が実権を握り、意欲的に藩政改革を進めていたが、藩論は東洋の開国、公武合体。また、山内家の初代山内一豊が、戦功ではなく徳川家康の格別の抜擢で土佐一国を拝領したという歴史的経緯もあって、土佐藩(特に藩主家)は幕府を尊崇する気風が強かったということ。

半平太はそういう藩の上層部に向かい、10月23日、藩論を刷新するために、大監察福岡藤次、大崎健蔵に進言、しかし書生論と退けられたということ。半平太はさらに吉田東洋に対しても、時勢を論じ勤王と攘夷を説いたが、山内家と幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにするとは不注意の極みと東洋に一蹴されたということ。

2-3、半平太はあくまでも一藩勤王の実現を主張したが、龍馬は脱藩

半平太は藩論を転換しようと各方面に運動し、長州の久坂玄瑞に対しても、大石弥太郎や坂本龍馬を使者に送って、薩長土勤王密約実現に向けての連絡を緊密にしたが、その頃の長州は、長井雅楽の「航海遠略策」が藩論となっていた時期で、久坂は自藩の翻意に必死という情勢。

そして文久2年(1862年)2月、久坂の元から吉村虎太郎が薩摩藩国父の島津久光が兵2000で率兵上洛の報が入り、吉村は半平太に、脱藩して薩摩の勤王義挙に参加するようにと説得したが、半平太はあくまでも土佐一藩での勤王の実現をめざしたそう。吉村は納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩。半平太は龍馬のことを後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴」と語った話は有名。

3-1、吉田東洋暗殺で土佐藩の政権を掌握

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半平太は、執政の吉田東洋の専横を憎む守旧派、藩主の分家の山内大学、山内兵之助、山内民部や家老柴田備後、五島内蔵助らと気脈を通じるように。半平太は山内民部が、吉田東洋さえいなければ、他のやつらは一挙につぶせると言ったのを暗殺の示唆と受け取って東洋暗殺を決断。

そして文久2年(1862年)4月8日の夜、吉田東洋は、藩主豊範に「本能寺凶変」の進講後に帰宅途中に、半平太の指令で土佐勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助が襲撃して殺害、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩。東洋派の藩庁は激怒、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党は反発し討ち死にも辞さぬ構えで、一触即発の事態に。

この事態を打開するために半平太は山内民部に書簡を送り山内民部が土佐勤王党に自重を促し、土佐勤王党側の山内大学、山内下総(酒井勝作)が政権を掌握、半平太は表立っては役に付けなかったが、実質的に藩政の主導権を握ることに。尚、12日に東洋派は藩庁から一掃、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げに。

3-2、半平太、京都で暗躍

半平太は、若い藩主山内豊範を奉じて上洛、その後は土佐藩の他藩応接役として他藩の志士たちと関わる一方、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣を要請するための朝廷工作に奔走。半平太の工作は功を奏し、また京都での数々の佐幕派暗殺に関与したそう。半平太は、天誅、斬奸と称して岡田以蔵、田中新兵衛などの刺客を使って政敵を暗殺。越後の志士本間精一郎の暗殺、安政の大獄で志士を弾圧した目明し文吉の虐殺、石部宿の幕府同心、与力4名の襲撃暗殺などが半平太が関与したとされる天誅ということ。

そして半平太は、文久2年(1862年)秋、朝廷から幕府に対し攘夷催促の勅使の江戸東下の際、副使姉小路公知の雑掌、柳川左門という変名で江戸に随行。文久3 年(1863年)1月、半平太は白札から上士格留守居組に出世。さらに3月には京都留守居加役となったが、これは過激な土佐勤王党を懐柔するための山内容堂の策謀であったらしいということ。

3-3、半平太が久坂らの横浜異人襲撃計画を容堂に密告した事件

また、半平太が江戸滞在中、長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞が横浜の異人館襲撃を計画し、久坂は半平太にも参加を呼びかけるが、半平太は土佐勤王党の弘瀬健太も加わっていると知って容堂候に訴え、容堂が長州藩世子毛利定広に警告、世子定弘が自ら馬を駆って高杉らを説諭して襲撃は中止になったが、その後、長州藩の執政で酒乱の気がある周布政之助が容堂に暴言を吐き、長州藩士と土佐藩士が一色触発の事件に。尚、江戸滞在中半平太は7回容堂に拝謁したと富子夫人に感激して書き送ったそう。

4-1、容堂候、土佐勤王党弾圧に

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中、京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮(後の久邇宮)から令旨を賜り、これを楯に国元の先々代藩主で藩主の実父豊資に働きかけ、藩政改革を断行しようと画策したが、容堂は寵臣だった吉田東洋暗殺事件を根に持ち、また土佐郷士階級、土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示して、半平太を除く勤王党志士に他藩士との政事交際を禁じる通達を出したということ。文久3年(1863年)1月25日に容堂が入京したとき、青蓮院宮に平井、間崎らの動きを聞いて僭越の沙汰であると激怒、両名を罷免して土佐へ送還。

容堂は3月に6年ぶりに土佐へ帰国、ただちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じて、土佐勤王党よりの大監察小南五郎右衛門、国老深尾鼎を解任、大監察平井善之丞を辞職させたため、土佐上層部に勤王派が皆無に。半平太は、この頃は薩摩と長州の融和に奔走していたが、4月に薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐため帰国を決意、しかし久坂玄瑞は危険だと扁平田に脱藩して長州へ亡命を勧めたが、半平太はことわって同志たちに、諌死の決心で一藩勤王の素志を貫徹すべきと帰国したそう。 平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太は入牢のうえ厳しく尋問され、半平太は容堂に助命嘆願するが、6月7日に死罪決定、翌8日に3人は切腹。半平太は毎日登城して容堂に謁見、藩政改革の意見書を提出して国事を論じたが、8月18日に会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退、代わって公武合体派が主導権を握ることに。

4-2、半平太、投獄される

土佐藩では尊攘派の情勢が急激に悪化、文久3年(1863年)9月21日、半平太ら土佐勤王党幹部に対して逮捕命令が出て半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄。獄中では半平太の人柄が獄吏を動かし、富子夫人との手紙のやり取りや差し入れ、在獄中の同志たちとの秘密文書のやり取りも可能だったということ。

半平太は1年9か月の投獄中、取調べから結審に至るまで、上士であるため拷問はされなかったが、軽格の同志たちは厳しい拷問を受けたということ。半平太らは、獄外の同志やその他の協力者への逮捕の波及を食い止めようと、同志の団結を維持し続けて軽挙妄動を戒めたうえに、吉田東洋暗殺事件他の関与を否認し続けたそう。

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angelica