今回は武市半平太を取り上げるぞ。土佐勤王党を結成したらしいが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には勤王佐幕関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武市半平太について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武市半平太は、土佐の生まれ

武市半平太(たけちはんぺいた)は、文政12年(1829年)9月27日、土佐国吹井村(現在は高知県高知市仁井田)で誕生。父は武市正恒(51石)、母は大井氏の娘で半平太は長男、弟に田内恵吉、姉がいて、父の妹は国学者で歌人の鹿持雅澄(かもちまさずみ)。武市の天皇好きと言われたのは、この鹿持雅澄の影響と土佐の庄屋階級独特の勤王思想からだそう。

半平太の先祖は土佐の長岡郡仁井田郷伊吹村を治めていた一領具足の末裔で、元々土地の豪農。半平太の5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士となり、文政5年(1822年)には白札格(しらふだ、身分としては郷士で当主は上士に準ずる)に昇格。また、坂本龍馬とは遠縁に当たり、3歳違いで幼馴染、半平太は顎が特徴的なので龍馬は「アギ」と呼んでいたそう。幼名は鹿衛(しかえ)、諱は小楯(こたて)。号は瑞山(ずいざん)または茗澗、変名は柳川左門と変名した際、雅号を吹山に。ここでは半平太で統一。

1-2、半平太の子供時代

半平太の家は裕福だったのですが、数え年の9歳から親元を離され、高知城下の親類の家を転々とした暮らしで武士としての心構え、道徳について修行を積ませたそう。これには父と不仲だったという説もあるが、そのおかげか半平太は学問と武芸に励み、文武両道に秀でた人物となったということ。

1-3、半平太、富子夫人と結婚

嘉永2年(1849年)、20歳になった半平太は父母を相次いで亡くして家督を継いだが、残された老祖母の面倒を見てもらうため、同年12月、郷士島村源次郎の長女で14歳の富子と結婚。尚、富子夫人とは子供は出来なかったが生涯円満で、半平太は他の女性には一切手を出さなかったことは有名。

半平太は12歳のときに一刀流の千頭伝四郎に入門して剣術を学んでいたが、嘉永3年(1850年)3月、高知城下に転居して、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)に入門、わずか2年で中伝を伝授、剣術家として頭角を表すことに。

1-4、半平太、土佐城下で評判の道場主に

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安政元年(1854年)、土佐を襲った南海トラフ地震で家屋を失ったが、嘉永7年(1855年)、半平太は25歳の時、小野派一刀流の免許皆伝を伝授され、妻富子の叔父で槍術家の島村寿之助(じゅのすけ)と新町に併設道場を開くことに。

この道場には120人の門弟が集まったということで、門下生には中岡慎太郎や岡田以蔵などがいて、後に結成される土佐勤王党の母体に。同年秋に半平太は藩庁の命で、安芸郡や香美郡での出張教授を行い、中岡慎太郎をリクルートしたということ。尚、嘉永6年(1853年)、ペリーの浦賀来航時、半平太は藩からの西国筋形勢視察を辞退。

1-5、半平太、江戸へ剣術修業

安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許可。半平太は岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴い、江戸の3大道場と言われた桃井春蔵の鏡心明智流の士学館に入門。師匠桃井春蔵は半平太の人物を見込んで免許皆伝を授けて、塾頭に。半平太は塾頭として道場の風儀を正し、粛然とした気風にしたということ。尚、同時期に、坂本龍馬が千葉定吉の北辰一刀流桶町千葉道場で剣術修行中。

安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬、両方ともに親戚になる山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きて切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がし、この山本琢磨は後に函館で日本人初のロシア正教徒、司祭に。

1-6、半平太、西国へ武者修行に

安政4年(1857年)9月、半平太の老祖母の病気悪化で土佐に帰国。安政5年(1858年)には一生2人扶持に加増されて、剣術諸事世話方に任命されたということ。

安政6年(1859年)2月、安政の大獄で土佐藩主山内豊信が強制隠居謹慎となり、その後桜田門外の変で井伊直弼の暗殺などが起きるなど、尊王攘夷の気運が高まるなか、半平太の祖母が死去し喪が明けた後に半平太は、岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に。龍馬は「今の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが、もちろん半平太は西国諸藩の動静視察と志士たちとの交流が目的で、長州を経て九州諸藩をまわり、途中、岡田以蔵を豊後国岡藩の堀道場に置いて年末に土佐へ帰藩。半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えたという、国学者平田篤胤の「霊能真柱」を持ち帰ったそう。

2-1、土佐勤王党結成

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文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際していた土佐藩士大石弥太郎の招請で、剣術修行の名目で7月に江戸に到着、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流。半平太は特に久坂に心服して、久坂の師の吉田松陰の「草莽崛起」(そうもうけっき)の思想に共鳴したそう。長州藩の過激志士たちの影響を受けた半平太は、土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感、土佐藩主を入京させて朝廷を押し立て、幕府に攘夷を迫ろうと提案、この提案は久坂、樺山ら一同の同意を得たということ。

そして8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成。大石弥太郎の起草で、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨の盟曰(盟約)を定めたということ。半平太は9月に土佐に帰国して同志をつのり、坂本龍馬を土佐の筆頭加盟者とし、間崎哲馬、平井収二郎、中岡慎太郎、吉村虎太郎、岡田以蔵というメンバーが揃い、最終的に192人が加盟することに。、土佐勤王党の加盟者の大半は、下士、郷士、地下浪人からなる下級武士や庄屋で、上士は2人ということ。

\次のページで「2-2、土佐藩の状況」を解説!/

2-2、土佐藩の状況

この頃の土佐藩は、前藩主豊信(とよしげ)改め容堂の信任厚かった、参政吉田東洋と配下の新おこぜ組が実権を握り、意欲的に藩政改革を進めていたが、藩論は東洋の開国、公武合体。また、山内家の初代山内一豊が、戦功ではなく徳川家康の格別の抜擢で土佐一国を拝領したという歴史的経緯もあって、土佐藩(特に藩主家)は幕府を尊崇する気風が強かったということ。

半平太はそういう藩の上層部に向かい、10月23日、藩論を刷新するために、大監察福岡藤次、大崎健蔵に進言、しかし書生論と退けられたということ。半平太はさらに吉田東洋に対しても、時勢を論じ勤王と攘夷を説いたが、山内家と幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにするとは不注意の極みと東洋に一蹴されたということ。

2-3、半平太はあくまでも一藩勤王の実現を主張したが、龍馬は脱藩

半平太は藩論を転換しようと各方面に運動し、長州の久坂玄瑞に対しても、大石弥太郎や坂本龍馬を使者に送って、薩長土勤王密約実現に向けての連絡を緊密にしたが、その頃の長州は、長井雅楽の「航海遠略策」が藩論となっていた時期で、久坂は自藩の翻意に必死という情勢。

そして文久2年(1862年)2月、久坂の元から吉村虎太郎が薩摩藩国父の島津久光が兵2000で率兵上洛の報が入り、吉村は半平太に、脱藩して薩摩の勤王義挙に参加するようにと説得したが、半平太はあくまでも土佐一藩での勤王の実現をめざしたそう。吉村は納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩。半平太は龍馬のことを後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴」と語った話は有名。

3-1、吉田東洋暗殺で土佐藩の政権を掌握

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半平太は、執政の吉田東洋の専横を憎む守旧派、藩主の分家の山内大学、山内兵之助、山内民部や家老柴田備後、五島内蔵助らと気脈を通じるように。半平太は山内民部が、吉田東洋さえいなければ、他のやつらは一挙につぶせると言ったのを暗殺の示唆と受け取って東洋暗殺を決断。

そして文久2年(1862年)4月8日の夜、吉田東洋は、藩主豊範に「本能寺凶変」の進講後に帰宅途中に、半平太の指令で土佐勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助が襲撃して殺害、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩。東洋派の藩庁は激怒、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党は反発し討ち死にも辞さぬ構えで、一触即発の事態に。

この事態を打開するために半平太は山内民部に書簡を送り山内民部が土佐勤王党に自重を促し、土佐勤王党側の山内大学、山内下総(酒井勝作)が政権を掌握、半平太は表立っては役に付けなかったが、実質的に藩政の主導権を握ることに。尚、12日に東洋派は藩庁から一掃、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げに。

3-2、半平太、京都で暗躍

半平太は、若い藩主山内豊範を奉じて上洛、その後は土佐藩の他藩応接役として他藩の志士たちと関わる一方、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣を要請するための朝廷工作に奔走。半平太の工作は功を奏し、また京都での数々の佐幕派暗殺に関与したそう。半平太は、天誅、斬奸と称して岡田以蔵、田中新兵衛などの刺客を使って政敵を暗殺。越後の志士本間精一郎の暗殺、安政の大獄で志士を弾圧した目明し文吉の虐殺、石部宿の幕府同心、与力4名の襲撃暗殺などが半平太が関与したとされる天誅ということ。

そして半平太は、文久2年(1862年)秋、朝廷から幕府に対し攘夷催促の勅使の江戸東下の際、副使姉小路公知の雑掌、柳川左門という変名で江戸に随行。文久3 年(1863年)1月、半平太は白札から上士格留守居組に出世。さらに3月には京都留守居加役となったが、これは過激な土佐勤王党を懐柔するための山内容堂の策謀であったらしいということ。

3-3、半平太が久坂らの横浜異人襲撃計画を容堂に密告した事件

また、半平太が江戸滞在中、長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞が横浜の異人館襲撃を計画し、久坂は半平太にも参加を呼びかけるが、半平太は土佐勤王党の弘瀬健太も加わっていると知って容堂候に訴え、容堂が長州藩世子毛利定広に警告、世子定弘が自ら馬を駆って高杉らを説諭して襲撃は中止になったが、その後、長州藩の執政で酒乱の気がある周布政之助が容堂に暴言を吐き、長州藩士と土佐藩士が一色触発の事件に。尚、江戸滞在中半平太は7回容堂に拝謁したと富子夫人に感激して書き送ったそう。

4-1、容堂候、土佐勤王党弾圧に

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中、京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮(後の久邇宮)から令旨を賜り、これを楯に国元の先々代藩主で藩主の実父豊資に働きかけ、藩政改革を断行しようと画策したが、容堂は寵臣だった吉田東洋暗殺事件を根に持ち、また土佐郷士階級、土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示して、半平太を除く勤王党志士に他藩士との政事交際を禁じる通達を出したということ。文久3年(1863年)1月25日に容堂が入京したとき、青蓮院宮に平井、間崎らの動きを聞いて僭越の沙汰であると激怒、両名を罷免して土佐へ送還。

容堂は3月に6年ぶりに土佐へ帰国、ただちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じて、土佐勤王党よりの大監察小南五郎右衛門、国老深尾鼎を解任、大監察平井善之丞を辞職させたため、土佐上層部に勤王派が皆無に。半平太は、この頃は薩摩と長州の融和に奔走していたが、4月に薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐため帰国を決意、しかし久坂玄瑞は危険だと扁平田に脱藩して長州へ亡命を勧めたが、半平太はことわって同志たちに、諌死の決心で一藩勤王の素志を貫徹すべきと帰国したそう。 平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太は入牢のうえ厳しく尋問され、半平太は容堂に助命嘆願するが、6月7日に死罪決定、翌8日に3人は切腹。半平太は毎日登城して容堂に謁見、藩政改革の意見書を提出して国事を論じたが、8月18日に会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退、代わって公武合体派が主導権を握ることに。

4-2、半平太、投獄される

土佐藩では尊攘派の情勢が急激に悪化、文久3年(1863年)9月21日、半平太ら土佐勤王党幹部に対して逮捕命令が出て半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄。獄中では半平太の人柄が獄吏を動かし、富子夫人との手紙のやり取りや差し入れ、在獄中の同志たちとの秘密文書のやり取りも可能だったということ。

半平太は1年9か月の投獄中、取調べから結審に至るまで、上士であるため拷問はされなかったが、軽格の同志たちは厳しい拷問を受けたということ。半平太らは、獄外の同志やその他の協力者への逮捕の波及を食い止めようと、同志の団結を維持し続けて軽挙妄動を戒めたうえに、吉田東洋暗殺事件他の関与を否認し続けたそう。

\次のページで「4-3、野根山事件起きる」を解説!/

4-3、野根山事件起きる

元治元年(1864年)土佐郷士の清岡道之助ら安芸郡下の土佐勤王党関係者23人が、東方、現北川村の野根山に集まり藩政の転換を求め、半平太らの野根山事件が起こり,彼らは捕らえられて有無を言わせず奈半利河原で処刑に。

4-4、岡田以蔵の毒殺は事実ではない

しかし京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛後土佐に送還。以蔵は監察府の拷問によって、京都、大坂の天誅事件への関与、実行者を次々と自白。人斬りと言われたが、厳しい取り調べに音を上げた以蔵の自白により逮捕者が相次いだうえ、半平太らに対する取調べも厳しさを増し、半平太の実弟田内恵吉も、監察府の厳しい拷問に耐えかねて自供をしたことを悔いて服毒自殺し、島村衛吉も拷問死。上士の自分にも拷問が行われて自白の可能性を憂えた半平太は、自殺用の毒の調達を外部に依頼したそう。獄内外の土佐勤王党の同志たちは自白を続ける以蔵が事態を悪化させると以蔵毒殺計画まで。

小説やドラマの影響で、あたかも半平太が保身のために以蔵の自白を恐れて毒殺の指令を発し、それを知った以蔵が半平太に対しての憤りから自白したように思われていますが、「武市瑞山獄中書簡」の編註者、横田達雄の研究では、以蔵は早々と拷問に屈して次々と自白したことについて半平太は、同志の間での強引なまでの以蔵毒殺計画には反対し、以蔵の実家の承諾を得てからと言い、以蔵の実家の承諾を得られずに結審を迎えてしまい、結果的に毒殺計画は実行に移されなかったと判明したそう。また以蔵本人は、自身の自白で同志らが厳しい境遇に追いやられた事を後悔していて、以後の取調べでは自白内容を曖昧にしたなどということも判明。

4-5、半平太、三文字に切る切腹法を行う

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武市瑞山 - 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

以蔵ら4名の自白はあったが、半平太らは一連の容疑を否認し続けたために監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証できず。しかし監察府の陣容が一新され、小笠原唯八、乾退助(板垣)、吉田東洋門下で甥の後藤象二郎らが取り調べに当たることになり、尋問は更に厳しくなり、同志達への拷問も厳しくなったので、半平太は覚悟したということで、盂蘭盆に3枚の獄中自画像を揮毫して、それぞれ妻と姉に送り絵筆など道具を返したため、富子夫人は切腹の時期と察して手製の死装束を差し入れた話は有名。

慶応元年(1865年)閏5月11日、容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)によって「主君に対する不敬行為」という罪目で、半平太は切腹に。自白した岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けに。半平太らが否認し続けたため、獄外同志、その他協力者への累は及ばなかったそう。

半平太は体を清めて正装し、誰も為しえなかったと言われる三文字割腹という切腹方法で腹を三文字にかき切り、前のめりになったところを両脇から2名の介錯人が心臓を突き享年37歳で死去。

司馬遼太郎氏によれば、切腹というのは、武士が自分を語る最も雄弁な表現法ということで、死への恐怖を押さえつけて自在にすることで精神の緊張と美都心の自由を生み出そうとしたものではということ。

4-6、半平太の死後

半平太の死で土佐勤王党は事実上壊滅。中岡慎太郎らは藩を見限って脱藩、浪士となって倒幕活動を進めることに。そして明治維新ぎりぎりの段階で、土佐藩は薩長と倒幕勢力の一翼を担ったが、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となって坂本龍馬提案の大政奉還を主導、戊辰戦争で土佐藩兵を率いたのは中岡慎太郎が推薦した乾退助(板垣)という、土佐郷士たちが築いた基礎に上士たちが乗っかる形になったということ。

また維新後に鬱っぽい桂小五郎こと木戸孝允が、仲良くなった山内容堂との酒の席で、なぜ武市半平太を斬ったのかと容堂をなじったとき、容堂は「藩令に従ったまで」と答えたきりだったそう。しかし、晩年病に倒れた容堂は、半平太を殺したことを悔いて、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたという話は有名。

坂本龍馬と並んで土佐郷士のリーダーだった

武市半平太は文武両道に秀でていて、剣術道場を営むだけでなく混迷の時代に日本の行く末を考え、土佐勤王党を結成するほどのカリスマ性とリーダーシップを持った人物。

土佐藩では親友の坂本龍馬と肩を並べる逸材として他藩にも知られていましたが、土佐藩全体として尊王攘夷運動に参加しようとするあまりに、執政吉田東洋暗殺事件を起こしたわけで、東洋を偏愛する容堂候に復讐されたのでした。そして土佐藩としては容堂候がこの事件に関わり過ぎたこと、半平太を処刑し土佐勤王党をつぶしてしまったこと、龍馬と中岡慎太郎も暗殺されたことで、明治以後も薩摩藩や長州藩よりも人材が払底したのは明白。

半平太は人斬りと言われた岡田以蔵を身辺におき京都での暗殺に関わったことで、小説などで陰謀家のイメージで描かれることもあるのですが、愛妻家で真面目な人柄で今でも土佐では瑞山先生と呼ばれ続けていることもクローズアップされるべきではないでしょうか。

" /> 土佐勤王党の盟主にして龍馬の友人「武市半平太」について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
日本史明治明治維新歴史

土佐勤王党の盟主にして龍馬の友人「武市半平太」について歴女がわかりやすく解説

今回は武市半平太を取り上げるぞ。土佐勤王党を結成したらしいが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には勤王佐幕関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武市半平太について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武市半平太は、土佐の生まれ

武市半平太(たけちはんぺいた)は、文政12年(1829年)9月27日、土佐国吹井村(現在は高知県高知市仁井田)で誕生。父は武市正恒(51石)、母は大井氏の娘で半平太は長男、弟に田内恵吉、姉がいて、父の妹は国学者で歌人の鹿持雅澄(かもちまさずみ)。武市の天皇好きと言われたのは、この鹿持雅澄の影響と土佐の庄屋階級独特の勤王思想からだそう。

半平太の先祖は土佐の長岡郡仁井田郷伊吹村を治めていた一領具足の末裔で、元々土地の豪農。半平太の5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士となり、文政5年(1822年)には白札格(しらふだ、身分としては郷士で当主は上士に準ずる)に昇格。また、坂本龍馬とは遠縁に当たり、3歳違いで幼馴染、半平太は顎が特徴的なので龍馬は「アギ」と呼んでいたそう。幼名は鹿衛(しかえ)、諱は小楯(こたて)。号は瑞山(ずいざん)または茗澗、変名は柳川左門と変名した際、雅号を吹山に。ここでは半平太で統一。

1-2、半平太の子供時代

半平太の家は裕福だったのですが、数え年の9歳から親元を離され、高知城下の親類の家を転々とした暮らしで武士としての心構え、道徳について修行を積ませたそう。これには父と不仲だったという説もあるが、そのおかげか半平太は学問と武芸に励み、文武両道に秀でた人物となったということ。

1-3、半平太、富子夫人と結婚

嘉永2年(1849年)、20歳になった半平太は父母を相次いで亡くして家督を継いだが、残された老祖母の面倒を見てもらうため、同年12月、郷士島村源次郎の長女で14歳の富子と結婚。尚、富子夫人とは子供は出来なかったが生涯円満で、半平太は他の女性には一切手を出さなかったことは有名。

半平太は12歳のときに一刀流の千頭伝四郎に入門して剣術を学んでいたが、嘉永3年(1850年)3月、高知城下に転居して、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)に入門、わずか2年で中伝を伝授、剣術家として頭角を表すことに。

1-4、半平太、土佐城下で評判の道場主に

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安政元年(1854年)、土佐を襲った南海トラフ地震で家屋を失ったが、嘉永7年(1855年)、半平太は25歳の時、小野派一刀流の免許皆伝を伝授され、妻富子の叔父で槍術家の島村寿之助(じゅのすけ)と新町に併設道場を開くことに。

この道場には120人の門弟が集まったということで、門下生には中岡慎太郎や岡田以蔵などがいて、後に結成される土佐勤王党の母体に。同年秋に半平太は藩庁の命で、安芸郡や香美郡での出張教授を行い、中岡慎太郎をリクルートしたということ。尚、嘉永6年(1853年)、ペリーの浦賀来航時、半平太は藩からの西国筋形勢視察を辞退。

1-5、半平太、江戸へ剣術修業

安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許可。半平太は岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴い、江戸の3大道場と言われた桃井春蔵の鏡心明智流の士学館に入門。師匠桃井春蔵は半平太の人物を見込んで免許皆伝を授けて、塾頭に。半平太は塾頭として道場の風儀を正し、粛然とした気風にしたということ。尚、同時期に、坂本龍馬が千葉定吉の北辰一刀流桶町千葉道場で剣術修行中。

安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬、両方ともに親戚になる山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きて切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がし、この山本琢磨は後に函館で日本人初のロシア正教徒、司祭に。

1-6、半平太、西国へ武者修行に

安政4年(1857年)9月、半平太の老祖母の病気悪化で土佐に帰国。安政5年(1858年)には一生2人扶持に加増されて、剣術諸事世話方に任命されたということ。

安政6年(1859年)2月、安政の大獄で土佐藩主山内豊信が強制隠居謹慎となり、その後桜田門外の変で井伊直弼の暗殺などが起きるなど、尊王攘夷の気運が高まるなか、半平太の祖母が死去し喪が明けた後に半平太は、岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に。龍馬は「今の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが、もちろん半平太は西国諸藩の動静視察と志士たちとの交流が目的で、長州を経て九州諸藩をまわり、途中、岡田以蔵を豊後国岡藩の堀道場に置いて年末に土佐へ帰藩。半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えたという、国学者平田篤胤の「霊能真柱」を持ち帰ったそう。

2-1、土佐勤王党結成

image by PIXTA / 3818085

文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際していた土佐藩士大石弥太郎の招請で、剣術修行の名目で7月に江戸に到着、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流。半平太は特に久坂に心服して、久坂の師の吉田松陰の「草莽崛起」(そうもうけっき)の思想に共鳴したそう。長州藩の過激志士たちの影響を受けた半平太は、土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感、土佐藩主を入京させて朝廷を押し立て、幕府に攘夷を迫ろうと提案、この提案は久坂、樺山ら一同の同意を得たということ。

そして8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成。大石弥太郎の起草で、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨の盟曰(盟約)を定めたということ。半平太は9月に土佐に帰国して同志をつのり、坂本龍馬を土佐の筆頭加盟者とし、間崎哲馬、平井収二郎、中岡慎太郎、吉村虎太郎、岡田以蔵というメンバーが揃い、最終的に192人が加盟することに。、土佐勤王党の加盟者の大半は、下士、郷士、地下浪人からなる下級武士や庄屋で、上士は2人ということ。

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