日本史

土佐勤王党の盟主にして龍馬の友人「武市半平太」について歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は武市半平太を取り上げるぞ。土佐勤王党を結成したらしいが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には勤王佐幕関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武市半平太について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武市半平太は、土佐の生まれ

武市半平太(たけちはんぺいた)は、文政12年(1829年)9月27日、土佐国吹井村(現在は高知県高知市仁井田)で誕生。父は武市正恒(51石)、母は大井氏の娘で半平太は長男、弟に田内恵吉、姉がいて、父の妹は国学者で歌人の鹿持雅澄(かもちまさずみ)。武市の天皇好きと言われたのは、この鹿持雅澄の影響と土佐の庄屋階級独特の勤王思想からだそう。

半平太の先祖は土佐の長岡郡仁井田郷伊吹村を治めていた一領具足の末裔で、元々土地の豪農。半平太の5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士となり、文政5年(1822年)には白札格(しらふだ、身分としては郷士で当主は上士に準ずる)に昇格。また、坂本龍馬とは遠縁に当たり、3歳違いで幼馴染、半平太は顎が特徴的なので龍馬は「アギ」と呼んでいたそう。幼名は鹿衛(しかえ)、諱は小楯(こたて)。号は瑞山(ずいざん)または茗澗、変名は柳川左門と変名した際、雅号を吹山に。ここでは半平太で統一。

1-2、半平太の子供時代

半平太の家は裕福だったのですが、数え年の9歳から親元を離され、高知城下の親類の家を転々とした暮らしで武士としての心構え、道徳について修行を積ませたそう。これには父と不仲だったという説もあるが、そのおかげか半平太は学問と武芸に励み、文武両道に秀でた人物となったということ。

1-3、半平太、富子夫人と結婚

嘉永2年(1849年)、20歳になった半平太は父母を相次いで亡くして家督を継いだが、残された老祖母の面倒を見てもらうため、同年12月、郷士島村源次郎の長女で14歳の富子と結婚。尚、富子夫人とは子供は出来なかったが生涯円満で、半平太は他の女性には一切手を出さなかったことは有名。

半平太は12歳のときに一刀流の千頭伝四郎に入門して剣術を学んでいたが、嘉永3年(1850年)3月、高知城下に転居して、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)に入門、わずか2年で中伝を伝授、剣術家として頭角を表すことに。

1-4、半平太、土佐城下で評判の道場主に

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安政元年(1854年)、土佐を襲った南海トラフ地震で家屋を失ったが、嘉永7年(1855年)、半平太は25歳の時、小野派一刀流の免許皆伝を伝授され、妻富子の叔父で槍術家の島村寿之助(じゅのすけ)と新町に併設道場を開くことに。

この道場には120人の門弟が集まったということで、門下生には中岡慎太郎や岡田以蔵などがいて、後に結成される土佐勤王党の母体に。同年秋に半平太は藩庁の命で、安芸郡や香美郡での出張教授を行い、中岡慎太郎をリクルートしたということ。尚、嘉永6年(1853年)、ペリーの浦賀来航時、半平太は藩からの西国筋形勢視察を辞退。

1-5、半平太、江戸へ剣術修業

安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許可。半平太は岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴い、江戸の3大道場と言われた桃井春蔵の鏡心明智流の士学館に入門。師匠桃井春蔵は半平太の人物を見込んで免許皆伝を授けて、塾頭に。半平太は塾頭として道場の風儀を正し、粛然とした気風にしたということ。尚、同時期に、坂本龍馬が千葉定吉の北辰一刀流桶町千葉道場で剣術修行中。

安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬、両方ともに親戚になる山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きて切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がし、この山本琢磨は後に函館で日本人初のロシア正教徒、司祭に。

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うむ、剣術修業で江戸へ行って自信をつけて、色々見聞するのが志士の基本だな

1-6、半平太、西国へ武者修行に

安政4年(1857年)9月、半平太の老祖母の病気悪化で土佐に帰国。安政5年(1858年)には一生2人扶持に加増されて、剣術諸事世話方に任命されたということ。

安政6年(1859年)2月、安政の大獄で土佐藩主山内豊信が強制隠居謹慎となり、その後桜田門外の変で井伊直弼の暗殺などが起きるなど、尊王攘夷の気運が高まるなか、半平太の祖母が死去し喪が明けた後に半平太は、岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に。龍馬は「今の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが、もちろん半平太は西国諸藩の動静視察と志士たちとの交流が目的で、長州を経て九州諸藩をまわり、途中、岡田以蔵を豊後国岡藩の堀道場に置いて年末に土佐へ帰藩。半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えたという、国学者平田篤胤の「霊能真柱」を持ち帰ったそう。

2-1、土佐勤王党結成

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文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際していた土佐藩士大石弥太郎の招請で、剣術修行の名目で7月に江戸に到着、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流。半平太は特に久坂に心服して、久坂の師の吉田松陰の「草莽崛起」(そうもうけっき)の思想に共鳴したそう。長州藩の過激志士たちの影響を受けた半平太は、土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感、土佐藩主を入京させて朝廷を押し立て、幕府に攘夷を迫ろうと提案、この提案は久坂、樺山ら一同の同意を得たということ。

そして8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成。大石弥太郎の起草で、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨の盟曰(盟約)を定めたということ。半平太は9月に土佐に帰国して同志をつのり、坂本龍馬を土佐の筆頭加盟者とし、間崎哲馬、平井収二郎、中岡慎太郎、吉村虎太郎、岡田以蔵というメンバーが揃い、最終的に192人が加盟することに。、土佐勤王党の加盟者の大半は、下士、郷士、地下浪人からなる下級武士や庄屋で、上士は2人ということ。

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