今回は脚気論争を取り上げるぞ。脚気がそんな問題になったなんて知らなかったが、詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治時代の学者にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、脚気論争について5分でわかるようにまとめた。

1-1、脚気とは

脚気(かっけ)とは、ビタミン欠乏で起こる病気のひとつで、ビタミンB1(チアミン)の欠乏が、最終的には心不全と末梢神経障害をきたし、足のむくみ、神経障害から足のしびれが起きるので脚気と呼ばれ、重篤になると心臓機能の低下、不全(衝心、しょうしん)を併発して脚気衝心を起こして死亡に至ることも。

1-2、脚気論争の背景

脚気というのは、今でこそビタミンB不足で起こる病気と解明されていますが、ビタミンが発見される以前、日本では結核と並んで死に至る深刻な病気でした。古くは日本書紀などにも同じ症状の病が載っているなど、いつから発生していたのか不明なほどで、平安時代以降も京都の皇族、貴族など上層階級を中心に脚気が発生していたし、江戸時代になり玄米に代わって白米が主食になると、上層階級以外にも武士、町人にも脚気が流行するように。徳川13代将軍家定、14代家茂、その夫人の和宮の死因も脚気衝心だということ。

また白米を食べるのは都会の江戸や大坂が多く、脚気患者も都会が多いために必然的に都会の患い「江戸患い」と呼ばれたそう。それに江戸時代に殿様について参勤交代に江戸へ来る、いわゆる勤番侍は、江戸勤番が長いほど脚気にかかる確率が高くなり、江戸を離れて地元に帰ると自然と快復に向かうことが多いなどで、漠然とではあるが、白米以外のものを食べる、江戸を離れて田舎で療養するのがいいということは漢方医学でも言われていて、経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされたので、江戸の武家では、脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまったそう。また江戸時代中期以降、江戸ではうどんよりも蕎麦が流行、主流となったのも、ビタミンB1を多く含んだ蕎麦を食べて脚気を防止するという、生活の知恵から出たものであるよう。

1-3、明治時代にも流行

脚気は、明治3年(1870年)から翌年にかけて流行、明治末までには毎年6500人から15085人死亡したということで、東京など都市部、陸軍の鎮台所在地で流行、上層階級より中下層階級に多発し死亡率が高かったということ。明治32年(1899年)開始の「人口動態統計」と明治38年(1906年)開始の「死因統計」では、明治末までの国民の脚気死亡者数は、最小が明治33年(1900年)が6500人で、最大が明治42年(1909年)の15085人ということ。ただし当時は乳児の脚気死亡が大幅に見落とされたので、毎年1万人〜3万人ほどが死亡。

1-4、この時代の医学界の動向は

明治時代の日本の医学はドイツ式となっていて、東京大学医学部を優等で卒業するとドイツに留学し、帰国してお雇い外国人に代わって教授となり後進を指導することが求められる時代でした。またドイツ医学は研究室医学などとも呼ばれていて、実験を行わずしては医学の本質は明らかにされないということで、なんだかわからないけど白米よりも玄米、麦飯が体に良いじゃだめで、きっちり論理付けて証明されないとはねつける頭の固いところが。

そして脚気の原因が分からなかった理由は、ヨーロッパでは脚気患者がほとんど発生しないため、西洋医学に頼れなかったこと、脚気には色々な変わりやすい症状があること、子供や高齢者など体力の弱い者よりも、若者がかかりやすいこと、贅沢品を食べていてもかかるが、粗食を食べているものがかかりにくいこと、当然のことながら、当時はビタミンが発見されず栄養学の知識がなかったことなどということに。

そして明治時代に言われていた主な脚気原因説は、漢方医による白米食原因説、ドイツ医学の伝染病説、中毒説、栄養障害説などがあったそう。このなかでも伝染病説が有力だったということ。

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1-5、細菌学が医学の最先端だった時代

それまでは病気というのは、悪い空気によって起こると考えられていましたが、明治13年以降の1880年代ヨーロッパではフランスのパスツールやコッホが顕微鏡で細菌を相次いで発見、細菌学の黄金時代と呼ばれ、細菌学は医学の最先端だったということ。顕微鏡で今まで不明だった病気の原因、特に病原菌の存在を突き止めることが出来るようになり、ハンセン病、腸チフス、結核、赤痢、ペストと次々と最近の発見がされていったので、コッホも脚気は東アジアの風土病でいずれ菌がみつかるだろうと言ったということ。

1-6、緒方正規の「脚気病菌」の発見がそもそもの発端

東京大学の初代衛生学教授で、後に東京大学医科大学学長に就任した緒方正規(緒方洪庵とは無関係)が、明治18年(1885年)に「脚気病菌」を発見したと公表。緒方は、死亡した脚気患者の内臓を調べて未知の細菌(バチルレンと命名)を発見し、その細菌を他の脚気患者の血液の中にもあったと主張、そしてその細菌を培養して動物実験も行ない、動物はつついても耳などでは反応があるが下肢に反応がないという知覚麻痺中心の脚気の症状が出たので、細菌を脚気菌と断定。

また同じ頃にオランダの学者などがそれぞれ独自に脚気菌発見を公表したが、緒方の同郷人で学校では後輩になる北里柴三郎は、緒方の発見は誤りだとドイツ留学中に否定。それについて、あの文豪で東大医学部卒業の陸軍軍医の森鴎外は、師匠の緒方の研究を否定するとは何事かと北里を激しく非難する論文を発表、北里も反論するという大問題に。

そしてドイツ留学中に破傷風菌を発見し血清を作るなどで、世界中の研究所からひっぱりだこで、鳴り物入りで明治25年(1892年)に帰国した北里は母校の東大医学研究所から締め出されてしまい、福澤諭吉の援助で設立された私立伝染病研究所の所長となり、後々まで東大と対立することに。

2-1、脚気、軍人の職業病として問題に

脚気は明治以後、軍人の職業病として深刻な国家的問題に。というのは、明治6年(1873年)公布の徴兵令では、1日1人6合の白米配給が特典となっていて、貧しいために白米が食べられると軍に入隊する人も多く、この頃は副食もほとんどないため、脚気患者が多い原因に。また、明治維新時の成り立ちから、海軍はイギリス式、陸軍はフランス式後にドイツ式だったために、脚気についても、海軍は栄養由来説、陸軍はドイツの細菌説を取り、対応が違ってより深刻化の一途をたどったということ。

2-2、海軍の脚気対応

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Bigslope (take a picture) - From the information sign in Baken Park memorial to the birth of Dr Kanehiro Takaki., パブリック・ドメイン, リンクによる

海軍軍医の高木兼寛は、鹿児島でウィリアム・ウィリスからイギリス医学を学び、海軍からイギリスのセント・トーマス医科大学に官費留学して首席で卒業した後、明治13年(1880年)に海軍軍医として復職。そしてイギリスでは見られなかった脚気患者が、海軍病院に入院中の患者の半数だということにびっくり。明治10年(1878年)の海軍統計調査によれば、当時の日本海軍の総人員は4528名、そのうち32.8%が脚気患者だったということ。

高木は、軍艦によって脚気の発生に差があり、患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに着目、さらに調査した結果、原因は食物の違いで、具体的にたんぱく質と炭水化物の割合の違いだと認識したそう。この時点で高木は脚気の原因はたんぱく質の不足で、洋食に変えてたんぱく質を多くとれば脚気を予防できると判断。その後、紆余曲折があって明治17年(1884年)1月15日には、当時、現金での給与は食費の節約での粗食を招いたために一部見直されて、洋食に切替えることになったそう。

また、明治17年(1884年)2月3日、大日本帝国海軍の練習艦「筑波」は、洋食採用で脚気予防試験を兼ねて品川沖から出航、287日間の遠洋航海を終えて無事帰港したが、乗組員333名のうち16名が脚気になっただけで脚気死亡者なしという、高木の主張が実証されたということ。

そこで海軍省は、根拠に基づく医療が特性のイギリス医学にならって兵食改革を進めた結果、海軍の脚気新患者数、発生率、および死亡数が1883年(明治16年)には患者数1236人で死亡49人だったのが、翌年には患者数が718人で死亡8人、4年目以降は1%未満と激減。ただし下士官以下にはパンが不評だったので明治18年(1885年)3月から麦飯に。

2-3、陸軍の脚気対応

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当時の陸軍はドイツ式で医学の主流派も理論優先のドイツ医学が模範だったために、陸軍軍医総監石黒忠悳と次の森鴎外が海軍でのイギリス式の高木の脚気対応を徹底的に批判、大日本帝国陸軍は科学的根拠なしで大日本帝国海軍に対して科学的根拠がないと否定するなど謎の対抗をし、その後も延々と白米を規則とする日本食を採用し続け、日清戦争では戦死者が293人なのに脚気の死者は 3944人、日露戦争では戦死者は47000人で脚気の死亡者は27800人という死屍累々の惨状に。

日露戦争でロシア側に、歩行もままならない幽鬼のような日本兵たちが、当時の新兵器である機関銃を備えた陣地に無謀な突撃をし、次々と撃ち倒されたという記録があるほどで、これは脚気での戦病死より名誉の戦死の方がましだと兵士に思わせたからという解釈もされているそう。

また、台湾で独断で現場が麦飯支給を行い脚気の流行をおさめたところ、陸軍は軍規違反として指揮官を即刻帰京させたが、軍法会議を開けば麦飯支給が軍規違反とされ脚気が治まった経緯が公になるため軍法会議を開かずに指揮官を5年後に予備役に追い込んだ話まで。

とにかく海軍が脚気での死亡ゼロなのに、陸軍は頑として白米6合をやめず、現場からの麦飯の要求にも応じず、麦飯を禁止することまでしたということで、陸軍が麦3割の麦飯兵食を採用したのは、海軍から遅れること30年、森鴎外が退役後の大正2年だったということ。

\次のページで「2-4、役に立たなかった脚気病調査会」を解説!/

2-4、役に立たなかった脚気病調査会

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

日露戦争後、森鴎外は陸軍医務局長となり、鴎外の提唱で明治41年(1908年)に「脚気病調査会」が結成されて、公式に脚気の原因追求が始まり、調査会は大正13年(1924年)まで続いたということ。

しかし、細菌説の支持者だった委員が栄養説へ転向したときには、会長の鷗外はこの委員を罷免し、また麦飯派の委員が麦飯の効能の調査を求めたときは、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除するなど、鷗外は脚気病栄養障害説が正しいと知りながらあえてそれを排除して細菌原因説に固執、調査会の結論を遅らせていたとか、陸軍主導の調査会には、真因を追及する能力はなかったという説も。

そして国内での栄養説は俗説と蔑んだのに海外での栄養説は後追いし、海外での研究の成果が確定すると日本の脚気細菌説の支持者たちは一斉に掌返しをしたということで、もちろん鴎外は脚気の原因についての態度を明らかにも謝罪もせずだったそう。

3-1、脚気論争の余波

この論争は、陸軍と海軍だけでなく、なんと明治天皇、ノーベル賞にまで影響がありました。

3-2、世界で初めてビタミンを発見したのは鈴木梅太郎なのに

東大農学部教授の鈴木梅太郎は、脚気にかかった鳩に米糠を与えると症状が改善される実験をして、明治43年(1910年)、米糠から脚気に有効な成分の抽出に成功して研究を発表、抽出した成分を「アベリ酸」と命名、後に「オリザニン」と改名。これこそが「ビタミンB1」でありました。

しかしビタミンを世界最初に発見したこの鈴木梅太郎を、森鴎外は散々批判し、百姓学者がなにを言うか、米ヌカが脚気の薬になるなら小便でも効くとほとんど罵倒したということで、東大は脚気細菌説にこだわったのか、医学者ではなく農学者であるからか、鈴木の功績を認めずノーベル賞委員会に推薦せず、鈴木は受賞出来たはずの日本人初のノーベル賞受賞のチャンスを失ったということ。

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3-3、明治天皇も麦飯を反対された

image by PIXTA / 59013247

明治天皇、昭憲皇太后も脚気に悩まされていたので、高木兼寛を3度も陪食に招かれて話を聞かれ、天皇自身が麦飯を食べようとしたが、ドイツ帰りの東大の医者たちが脚気細菌説にこだわって反対したそう。そういうわけで明治天皇は医者たちを信用しなくなったということで、晩年、糖尿病の治療を十分受けられなかったということ。

3-4、高木兼寛は海軍カレーの導入者

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海軍の高木軍医は、軍艦「筑波」での航海実験で洋食を食べさせたのですが、そのときに大好評を博したのが、高木が留学先のロンドンで覚えたという、イギリス海軍で提供されていたカレー風味のシチューに小麦粉でとろみを付けて麦飯にかけたライスカレー。このレシピが今は横須賀の名物「よこすか海軍カレー」のルーツ、こうして広まった日本のカレーライスは今や日本へ来る外国人観光客にも愛される存在に。

高木兼寛は慈恵医大などの創設者で、脚気の撲滅に尽力したことで、「ビタミンの父」とも呼ばれ、男爵を授けられたということ。

3-5、森鴎外、叙爵なし

当時の海軍や陸軍で軍医のトップまで務めたら、ふつうは男爵位をもらえるはずだが、森鴎外は脚気問題のせいか、授爵はなしだったということ。鴎外はドイツの友人への手紙には「バロン」(男爵)と署名したという話もあり、「ライバル」だった高木兼寛が東京大学から医学博士の学位を授与されたときは「麦飯博士」、男爵位を授与されたときも「麦飯男爵」と茶化したということ。

そう考えると、鴎外が遺書に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と繰り返していること、シンプルな墓石も逆の意味にみえてしまうような気が。

麦飯を食べれば治るのに、なぜか30年も麦飯を否定して悪化させた論争

脚気論争は、ビタミンBの欠乏が原因で起こる病気の脚気について、まだビタミンが発見されていない明治時代に大問題になった論争。

脚気の予防に麦飯を食べたら脚気患者が激減した、白米ばかり食べているから脚気になるという単純明快、誰でもできる予防策だったはずが、んなことはない、脚気は病原菌が元なのだ、贅沢な白米が体に悪いわけないじゃないか、勝手に麦飯を食べるのは許さんぞ的に意固地になったせいで、どんどん脚気で亡くなる人が増えたという、最悪の結果に。

その理由は、海軍対陸軍、イギリス医学対ドイツ医学、東大閥、医学の最先端だった細菌学重視と、本来の病気対策とは別の次元のメンツや派閥の勢力争いもが絡み合ってより複雑に。またその麦飯反対、白米推進の中心で仁王立ちになっていた人物があの文豪でもある森鴎外だったこと。鴎外は、海軍で麦飯を導入して成功した高木を罵倒しただけでなく、糠からビタミンを発見した鈴木梅太郎までも罵倒、東大が推薦しなかったせいもあって鈴木のノーベル賞受賞が幻となったし、北里柴三郎まで攻撃するという、医者は病気が敵で患者を治すのが第一という基本も、兵隊を健康に保つ軍医としての任務も果たさないわ、間違った主張をたださないわ、もちろん謝りもしないでこの状態が30年続いたというのですから、いくら脚気の本当の原因が解明されていない頃とはいえひどい失態にあきれてものが言えないです。

鴎外や脚気細菌説を唱えた皆さんには、DO THE RIGHT THINGと言いたいけれど、こういう事態があったことも歴史の教訓として学ぶべきかも。

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日本史明治歴史

明治時代に国家を揺るがせた大問題「脚気論争」について歴女がわかりやすく解説

今回は脚気論争を取り上げるぞ。脚気がそんな問題になったなんて知らなかったが、詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治時代の学者にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、脚気論争について5分でわかるようにまとめた。

1-1、脚気とは

脚気(かっけ)とは、ビタミン欠乏で起こる病気のひとつで、ビタミンB1(チアミン)の欠乏が、最終的には心不全と末梢神経障害をきたし、足のむくみ、神経障害から足のしびれが起きるので脚気と呼ばれ、重篤になると心臓機能の低下、不全(衝心、しょうしん)を併発して脚気衝心を起こして死亡に至ることも。

1-2、脚気論争の背景

脚気というのは、今でこそビタミンB不足で起こる病気と解明されていますが、ビタミンが発見される以前、日本では結核と並んで死に至る深刻な病気でした。古くは日本書紀などにも同じ症状の病が載っているなど、いつから発生していたのか不明なほどで、平安時代以降も京都の皇族、貴族など上層階級を中心に脚気が発生していたし、江戸時代になり玄米に代わって白米が主食になると、上層階級以外にも武士、町人にも脚気が流行するように。徳川13代将軍家定、14代家茂、その夫人の和宮の死因も脚気衝心だということ。

また白米を食べるのは都会の江戸や大坂が多く、脚気患者も都会が多いために必然的に都会の患い「江戸患い」と呼ばれたそう。それに江戸時代に殿様について参勤交代に江戸へ来る、いわゆる勤番侍は、江戸勤番が長いほど脚気にかかる確率が高くなり、江戸を離れて地元に帰ると自然と快復に向かうことが多いなどで、漠然とではあるが、白米以外のものを食べる、江戸を離れて田舎で療養するのがいいということは漢方医学でも言われていて、経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされたので、江戸の武家では、脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまったそう。また江戸時代中期以降、江戸ではうどんよりも蕎麦が流行、主流となったのも、ビタミンB1を多く含んだ蕎麦を食べて脚気を防止するという、生活の知恵から出たものであるよう。

1-3、明治時代にも流行

脚気は、明治3年(1870年)から翌年にかけて流行、明治末までには毎年6500人から15085人死亡したということで、東京など都市部、陸軍の鎮台所在地で流行、上層階級より中下層階級に多発し死亡率が高かったということ。明治32年(1899年)開始の「人口動態統計」と明治38年(1906年)開始の「死因統計」では、明治末までの国民の脚気死亡者数は、最小が明治33年(1900年)が6500人で、最大が明治42年(1909年)の15085人ということ。ただし当時は乳児の脚気死亡が大幅に見落とされたので、毎年1万人〜3万人ほどが死亡。

1-4、この時代の医学界の動向は

明治時代の日本の医学はドイツ式となっていて、東京大学医学部を優等で卒業するとドイツに留学し、帰国してお雇い外国人に代わって教授となり後進を指導することが求められる時代でした。またドイツ医学は研究室医学などとも呼ばれていて、実験を行わずしては医学の本質は明らかにされないということで、なんだかわからないけど白米よりも玄米、麦飯が体に良いじゃだめで、きっちり論理付けて証明されないとはねつける頭の固いところが。

そして脚気の原因が分からなかった理由は、ヨーロッパでは脚気患者がほとんど発生しないため、西洋医学に頼れなかったこと、脚気には色々な変わりやすい症状があること、子供や高齢者など体力の弱い者よりも、若者がかかりやすいこと、贅沢品を食べていてもかかるが、粗食を食べているものがかかりにくいこと、当然のことながら、当時はビタミンが発見されず栄養学の知識がなかったことなどということに。

そして明治時代に言われていた主な脚気原因説は、漢方医による白米食原因説、ドイツ医学の伝染病説、中毒説、栄養障害説などがあったそう。このなかでも伝染病説が有力だったということ。

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