今回は伊能忠敬を取り上げるぞ。かなり正確な日本地図を作り上げた人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の学者にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、伊能忠敬について5分でわかるようにまとめた。

1-1、伊能忠敬は千葉県の生まれ

伊能忠敬(いのうただたか)は、延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現千葉県山武郡九十九里町小関)で誕生。生家は名主(なぬし)、幼名は三治郎、通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)、字(あざな)は子斉、号は東河。

父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現横芝光町)の酒造家の次男で、小関家の入り婿だったということで、忠敬のきょうだいは男1人女1人で忠敬は末っ子。忠敬が6歳のとき母が亡くなり、家は忠敬の叔父で母の弟が継ぐことになり、婿養子の父貞恒は、忠敬の兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻り、忠敬だけは祖父母のもとで育てられたそう。

尚、農村では名主や造り酒屋(醸造業)は農民のリーダー格でお金持ちが定番。

1-2、忠敬の子供時代

祖父母に育てられた忠敬ですが、あまり詳しいことはわかっておらず、漁具がしまってある小屋の番人をしていたという話で、名主の家の子なので読み書きや算盤は習っただろうということ。しかし、実家に帰った父はしばらく後に分家として独立し、忠敬は10歳のときに父のもとに引き取られたそう。父に引き取られたあと、忠敬は親戚や知り合いの家を転々としたと言われているが、理由は父の後妻と合わなかったからという説と、常陸の寺で算盤を習って才能をあらわしたり、土浦の医者に医学を習ったなどということからみて、頭が良い子なので各地で教育を受けさせたという説も。

1-3、忠敬、伊能家に婿入り

忠敬が17歳のとき、伊能家と神保家双方の親戚でもある平山藤右衛門が、土地改良工事の現場監督に忠敬を使ったところ、たいへん良い仕事ぶりが気に入り、伊能家に婿入りを勧めたということで、忠敬は宝暦12年(1762年)12月8日に形式的に平山家の養子になったのちに、平山家から伊能家へ婿入りして伊能家の娘のミチと結婚。忠敬は、結婚の際に大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらい、伊能三郎右衛門忠敬に。

忠敬の婿家の事情
忠敬が入婿した頃の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地で栄えていたということで、人口は約5000人、関東でも有数の天領の村、武士はおらず村民の自治で成り立っていたということ。

そして村に大きな発言権を持っていた裕福な家が永沢家と伊能家だったが、伊能家は当主不在が長かったために永沢家に差をつけられていた事情があり、忠敬は伊能家復興など色々期待された婿殿であったそう。

2-1、忠敬、名主後見として実績を上げる

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婿入り後の忠敬は、伊能家の当主として名主後見という立場についたが、まだ若年で病気で寝込んだこともあって、親戚の伊能豊明の力を借りていたということ。

しかし、明和6年(1769年)忠敬が24歳のとき、不作で困窮していた佐原の村で祭の山車にかかわる騒動が起きたときは大きな騒動にならずにまとめたし、明和8年(1771年)11月に、幕府が利根川流域などに公認の河岸問屋を設けて運上金を徴収する政策を実行したときのゴタゴタも、忠敬は、伊能家の3代前の先祖が書き残した古い記録を調べ直し、奉公所に提出して事なきを得たなど、名主後見としてのリーダーシップを発揮し、合理的に解決したということ。

また忠敬も、先祖の記録をみて、ものごとをきちんと記録に残す重要性を感じたことが、後にこつこつと実測して地図を作るときに役立ったのではということ。尚、忠敬は天明元年(1781年)、名主の藤左衛門死去にともない、36歳で名主に。

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2-2、忠敬、天明の大飢饉でも手腕を発揮

天明3年(1783年)、浅間山の噴火などから天明の大飢饉が発生、忠敬の佐原村も米が不作となったが、忠敬はほかの名主らと地頭所に年貢についての配慮を願い出た結果、この年の年貢は全額免除のうえに、御救金の100両まで下げ渡されることに。そして利根川の堤防工事を命じられた時、忠敬は工事の指揮とともに、工材を安く買い入れて工事費も節約したそう。 また忠敬は、天明5年(1785年)には米の値上がりを見越して関西方面から大量の米を買い入れたが、米相場は翌年の春から夏にかけて下落して多額の損失を抱えたが、忠敬は米をまったく売らないことにしたそう。

2-3、忠敬、大洪水の損害を受けた人を救済

天明5年(1785年)7月、利根川の大洪水で佐原村の農業は大損害を受けたので、忠敬は村の有力者と相談しつつ私財を投じて村民たちに米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだということ。

特に困っている人を調べて重点的に施したり、他所からの浮浪者にも一日1文与え、村民には安く米を売るなどした結果、佐原村では餓死者ゼロに。また、天明7年(1787年)5月には江戸で天明の打ちこわしが勃発し、佐原村の商人たちも、打ちこわし対策として皆で金を出しあい地頭所の役人に来てもらうという意見が出たが、忠敬は役人は頼りにならないと反対。役人に金を与えるならば農民に与えろ、打ちこわしが起きたら農民たちが守ってくれると主張し、役人の手を借りずに打ちこわしが防げたということ。

また、佐原村が危機を脱した後に、忠敬は残りの米を江戸で売り払って多額の利益を得たというおまけも。

それと、この佐原村は、昔からたびたび大雨で利根川堤防が決壊して大きな被害を受ける地域で、洪水後には田畑の形が変わってしまうために測量して境界線を引き直さなければならないということで、忠敬は日本地図を作る以前から、必然的に測量や地図作成の技術を身につけていたと言われているそう。

2-4、忠敬、隠居して第二の人生を

忠敬の長女のイネはすでに結婚して江戸に行き、長男景敬も成人したので、忠敬は隠居して新たな人生を歩むべく、寛政2年(1790年)、地頭所に隠居を願い出たが、地頭の津田氏は代替わりしたばかりで村方後見として忠敬の力が必要と受け入れられず。忠敬は暦学に興味を持ち、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強、天体観測を行ったりするようになり、店の仕事は実質的に長男の景敬に任せたそう。

翌年の寛政5年(1793年)に忠敬は、隣の津宮村の名主で朱子学者の久保木清淵らとともに、約3か月も関西方面へ旅行。忠敬は旅行記を記したということで、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度なども記されているということ。久保木も「西遊日記」という旅行記を残したそう。

そして寛政6年(1794年)、忠敬は再度隠居の願いを出して、地頭所は受理。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備に。尚、忠敬は伊能家を再興し、今のお金で数十億というかなりの資産を築いたということ。

3-1、高橋至時に弟子入り

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Katsujiro Aoki (青木 勝次郎), Source: The Agancy for Cultural Affairs - Postal stamp published in 1995, scanned byFraxinus2, パブリック・ドメイン, リンクによる

寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ出て深川黒江町に家を構えたが、その頃の江戸では今までの暦を改める動きが起こっていたということ。当時日本では、宝暦4年(1754年)に作られた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外すことで評判が悪かったそう。

幕府は、松平信明、堀田正敦を中心として改暦に取り組んだが、幕府の天文方には優れた人材がおらず、特に評価の高かった麻田剛立一門の高橋至時と間重富が任務に就いたということ。この2人の改暦は秘密裏に行われていたが、忠敬は情報源からそのことを知っていたのではという説もあり、とにかく50歳の忠敬は、31歳の高橋至時に弟子入りしたということ。

3-2、忠敬、熱心に勉学に励む

忠敬は、19歳年下の師至時に師弟の礼をとって、寝る間を惜しんで天体観測や測量の勉強をしたため、「推歩先生」(暦学のこと)というあだ名で呼ばれたほどで、暦学に対してもある程度の知識を持っていたため、至時のテキストもかなり短期間で理解できるようになったということ。

忠敬は、天体観測についても教えを受け、間重富を通じて観測技術や観測のための器具を購入し、自宅に天文台を作って観測を行ったということ。忠敬は、太陽の南中以外に、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などを観測し、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残したそう。

3-3、子午線一度の距離測定から蝦夷へ行くことに

高橋至時と間重富は、寛政9年(1797年)に「寛政暦」を完成。しかし至時はこの暦に満足せず、より正確なものにするために地球の大きさや、日本各地の経度、緯度を知ることが必要だと考えたということ。地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里と正確ではなく、正確な値を出すには江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではと忠敬は提案したそう。

\次のページで「4-1、忠敬、測量の旅へ」を解説!/

4-1、忠敬、測量の旅へ

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伊能忠敬(Inō Tadataka) - 伊能忠敬記念館, パブリック・ドメイン, リンクによる

忠敬は、蝦夷へ行くために幕府に許可を申請するも、なかなか許可が下りず、寛政12年(1800年)閏4月14日、幕府からやっと正式に蝦夷測量の命令が出たが測量試みというもので、忠敬はまだあまり信用されていなかったということ。

そして55歳の忠敬は、寛政12年(1800年)閏4月19日、息子ひとりと内弟子2人、下男2人を連れて蝦夷へ出発。奥州街道を北上しながら測量を開始、距離は歩測で測りつつ、1日に40kmのペースで移動し、21日目には津軽半島最北端の三厩に到達。そして箱館へ渡り、本格的に海岸沿いを測量しつつ進み、夜は天体観測を行ったそう。

この第一次測量にかかった日数は180日だということで、10月21日に千住に帰着。そして江戸に帰着後は、11月上旬から測量したデータから地図の製作をはじめ、約20日間で地図を完成し12月21日に下勘定所に提出。

4-2、測量の日々が開始

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享和2年 (1802年)第2次測量は伊豆・東日本東海岸を230日間、享和3年(1803年)には第3次測量は、東北日本海沿岸を132日間、文化2年 (1805年)第4次測量 東海・北陸を219日間、文化5年(1808年)の第5次測量は近畿と中国、ここから幕府直轄事業となり、文化6年(1809年)第6次測量は四国へ、文化8年(1811年)第7次測量は九州第一次、文化12年(1815年)第8次測量は九州第二次で種子島、屋久島などへ913日間、そして文化13年(1816年)第9次測量は伊豆諸島で71歳の忠敬は参加せず、文化12年(1815年)第10次測量は江戸府内で忠敬も参加という具合で進み、測量して帰っては地図を作る作業を行い、また出かけるというパターン。

忠敬は、若い頃から病気がちでぜんそくなどの持病もあったが、根気強い性格だったということ。また他藩の領地の測量するのに妨害などの苦労もあり、師匠の至時が忠敬よりも先に亡くなり、息子の高橋景保が後を継いだり、忠敬は、かなり厳しい人だったので規律を守らない弟子(自分の息子も)を破門にしたりと、苦労も多い地図作りだったそう。

そして歩き方は現在の歩き方のように体をねじらず、右手と右足、左手と左足、それぞれ同時に出して前に進む、ナンバ歩きとも呼ばれる歩き方なので、これだけの距離が歩けたと言われています。

4-3、日本東半部沿海地図がまず完成

忠敬らはまず、第1次から第4次までの東日本の測量結果で、文化元年(1804年)に大図69枚、中図3枚、小図1枚の「日本東半部沿海地図」作成。この地図は同年9月6日に江戸城大広間でつなぎ合わされて11代将軍徳川家斉も上覧したが、忠敬は身分の違いで陪席できなかったということで、9月10日に忠敬は忠敬らの地図事業を後押ししていた若年寄の堀田正敦から、小普請組で10人扶持にという通知が来たということ。

4-4、「大日本沿海輿地全図」の完成は忠敬死去の3年後

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Hatukanezumi - Own work. Taken at 完全復元伊能図全国巡回展 in 多摩 (All sheets of Inoh maps exhibition in Tama), May 3 2010., CC 表示-継承 3.0, リンクによる

忠敬は、文化14年(1821年)秋頃から喘息がひどく病床につきがちとなっても、地図作成作業を監督、門弟の質問にも返事を書いていたが、翌年文政元年(1818年)4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で死去。

しかし地図は未完成のために忠敬の死は隠されて、高橋景保が中心になり、文政4年(1821年)に「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず)が完成。7月10日、景保、忠敬の孫の忠誨(ただのり)らが江戸城に登城して地図を広げて上程し、9月4日、忠敬の喪がやっと発せられたということ。

4-5、地図のその後

大日本沿海輿地全図は、忠敬の名前にちなんで「伊能図」(いのうず)とも呼ばれ、縮尺36000分の1の大図と、216000分の1の中図、432000分の1の小図で構成、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバー。その他、特別大図、特別小図、特別地域図という、特殊な地図も存在していて、 伊能図の大図原本は幕府に献上、紅葉山文庫に。

そして文政11年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した高橋景保ら蘭学者が処罰されるシーボルト事件のもとになったということ。

伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、結局はシーボルトが写本を国外に持ち出し、それをもとにした日本地図が開国で日本に逆輸入されたそう。また明治時代にも、「輯製二十万分一図」作成にあたって活用されたが、明治6年(1873年)の皇居炎上で焼け、伊能家に保管された写本も関東大震災で焼失。

しかし2001年に米国議会図書館で写本207枚が発見された後、各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容がつかめるようになり、2006年12月には、大図全214枚を収録した『伊能大図総覧』が刊行されたということ。

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隠居後の趣味のはずが大事業に、ひとりの人生で2人分以上の業績をおさめた

伊能忠敬は、名主の家に生まれて名主の家に婿入りし、若い頃から農民をまとめたり、商売を行ったり、飢饉への対応などもしっかりと行って、期待されて婿入りした伊能家の再興を果たした人。

それだけでも充分に充実人生なのですが、忠敬は、さらに50歳で隠居後、暦学、天文学に興味を持って弟子入りして勉強し、なんと17年かかってこつこつと歩き、実測で日本地図を作るという前人未到の大仕事を成し遂げたということ。

正確無比な地図は国家秘密となったほどでしたが、忠敬の人生設計や健康管理、趣味を生かした仕事ぶりなどは、まさに現在の長寿社会を生きるわれわれのお手本にもなるのでは。

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日本史歴史江戸時代

実測で日本地図を完成させた「伊能忠敬」江戸時代のスーパー隠居について歴女がわかりやすく解説

今回は伊能忠敬を取り上げるぞ。かなり正確な日本地図を作り上げた人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の学者にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、伊能忠敬について5分でわかるようにまとめた。

1-1、伊能忠敬は千葉県の生まれ

伊能忠敬(いのうただたか)は、延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現千葉県山武郡九十九里町小関)で誕生。生家は名主(なぬし)、幼名は三治郎、通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)、字(あざな)は子斉、号は東河。

父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現横芝光町)の酒造家の次男で、小関家の入り婿だったということで、忠敬のきょうだいは男1人女1人で忠敬は末っ子。忠敬が6歳のとき母が亡くなり、家は忠敬の叔父で母の弟が継ぐことになり、婿養子の父貞恒は、忠敬の兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻り、忠敬だけは祖父母のもとで育てられたそう。

尚、農村では名主や造り酒屋(醸造業)は農民のリーダー格でお金持ちが定番。

1-2、忠敬の子供時代

祖父母に育てられた忠敬ですが、あまり詳しいことはわかっておらず、漁具がしまってある小屋の番人をしていたという話で、名主の家の子なので読み書きや算盤は習っただろうということ。しかし、実家に帰った父はしばらく後に分家として独立し、忠敬は10歳のときに父のもとに引き取られたそう。父に引き取られたあと、忠敬は親戚や知り合いの家を転々としたと言われているが、理由は父の後妻と合わなかったからという説と、常陸の寺で算盤を習って才能をあらわしたり、土浦の医者に医学を習ったなどということからみて、頭が良い子なので各地で教育を受けさせたという説も。

1-3、忠敬、伊能家に婿入り

忠敬が17歳のとき、伊能家と神保家双方の親戚でもある平山藤右衛門が、土地改良工事の現場監督に忠敬を使ったところ、たいへん良い仕事ぶりが気に入り、伊能家に婿入りを勧めたということで、忠敬は宝暦12年(1762年)12月8日に形式的に平山家の養子になったのちに、平山家から伊能家へ婿入りして伊能家の娘のミチと結婚。忠敬は、結婚の際に大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらい、伊能三郎右衛門忠敬に。

忠敬の婿家の事情
忠敬が入婿した頃の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地で栄えていたということで、人口は約5000人、関東でも有数の天領の村、武士はおらず村民の自治で成り立っていたということ。

そして村に大きな発言権を持っていた裕福な家が永沢家と伊能家だったが、伊能家は当主不在が長かったために永沢家に差をつけられていた事情があり、忠敬は伊能家復興など色々期待された婿殿であったそう。

2-1、忠敬、名主後見として実績を上げる

image by PIXTA / 42511438

婿入り後の忠敬は、伊能家の当主として名主後見という立場についたが、まだ若年で病気で寝込んだこともあって、親戚の伊能豊明の力を借りていたということ。

しかし、明和6年(1769年)忠敬が24歳のとき、不作で困窮していた佐原の村で祭の山車にかかわる騒動が起きたときは大きな騒動にならずにまとめたし、明和8年(1771年)11月に、幕府が利根川流域などに公認の河岸問屋を設けて運上金を徴収する政策を実行したときのゴタゴタも、忠敬は、伊能家の3代前の先祖が書き残した古い記録を調べ直し、奉公所に提出して事なきを得たなど、名主後見としてのリーダーシップを発揮し、合理的に解決したということ。

また忠敬も、先祖の記録をみて、ものごとをきちんと記録に残す重要性を感じたことが、後にこつこつと実測して地図を作るときに役立ったのではということ。尚、忠敬は天明元年(1781年)、名主の藤左衛門死去にともない、36歳で名主に。

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