その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、伊能忠敬は千葉県の生まれ
- 1-2、忠敬の子供時代
- 1-3、忠敬、伊能家に婿入り
- 2-1、忠敬、名主後見として実績を上げる
- 2-2、忠敬、天明の大飢饉でも手腕を発揮
- 2-3、忠敬、大洪水の損害を受けた人を救済
- 2-4、忠敬、隠居して第二の人生を
- 3-1、高橋至時に弟子入り
- 3-2、忠敬、熱心に勉学に励む
- 3-3、子午線一度の距離測定から蝦夷へ行くことに
- 4-1、忠敬、測量の旅へ
- 4-2、測量の日々が開始
- 4-3、日本東半部沿海地図がまず完成
- 4-4、「大日本沿海輿地全図」の完成は忠敬死去の3年後
- 4-5、地図のその後
- 隠居後の趣味のはずが大事業に、ひとりの人生で2人分以上の業績をおさめた
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の学者にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、伊能忠敬について5分でわかるようにまとめた。
1-1、伊能忠敬は千葉県の生まれ
伊能忠敬(いのうただたか)は、延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現千葉県山武郡九十九里町小関)で誕生。生家は名主(なぬし)、幼名は三治郎、通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)、字(あざな)は子斉、号は東河。
父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現横芝光町)の酒造家の次男で、小関家の入り婿だったということで、忠敬のきょうだいは男1人女1人で忠敬は末っ子。忠敬が6歳のとき母が亡くなり、家は忠敬の叔父で母の弟が継ぐことになり、婿養子の父貞恒は、忠敬の兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻り、忠敬だけは祖父母のもとで育てられたそう。
尚、農村では名主や造り酒屋(醸造業)は農民のリーダー格でお金持ちが定番。
1-2、忠敬の子供時代
祖父母に育てられた忠敬ですが、あまり詳しいことはわかっておらず、漁具がしまってある小屋の番人をしていたという話で、名主の家の子なので読み書きや算盤は習っただろうということ。しかし、実家に帰った父はしばらく後に分家として独立し、忠敬は10歳のときに父のもとに引き取られたそう。父に引き取られたあと、忠敬は親戚や知り合いの家を転々としたと言われているが、理由は父の後妻と合わなかったからという説と、常陸の寺で算盤を習って才能をあらわしたり、土浦の医者に医学を習ったなどということからみて、頭が良い子なので各地で教育を受けさせたという説も。
1-3、忠敬、伊能家に婿入り
忠敬が17歳のとき、伊能家と神保家双方の親戚でもある平山藤右衛門が、土地改良工事の現場監督に忠敬を使ったところ、たいへん良い仕事ぶりが気に入り、伊能家に婿入りを勧めたということで、忠敬は宝暦12年(1762年)12月8日に形式的に平山家の養子になったのちに、平山家から伊能家へ婿入りして伊能家の娘のミチと結婚。忠敬は、結婚の際に大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらい、伊能三郎右衛門忠敬に。
忠敬の婿家の事情
忠敬が入婿した頃の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地で栄えていたということで、人口は約5000人、関東でも有数の天領の村、武士はおらず村民の自治で成り立っていたということ。
そして村に大きな発言権を持っていた裕福な家が永沢家と伊能家だったが、伊能家は当主不在が長かったために永沢家に差をつけられていた事情があり、忠敬は伊能家復興など色々期待された婿殿であったそう。
2-1、忠敬、名主後見として実績を上げる
婿入り後の忠敬は、伊能家の当主として名主後見という立場についたが、まだ若年で病気で寝込んだこともあって、親戚の伊能豊明の力を借りていたということ。
しかし、明和6年(1769年)忠敬が24歳のとき、不作で困窮していた佐原の村で祭の山車にかかわる騒動が起きたときは大きな騒動にならずにまとめたし、明和8年(1771年)11月に、幕府が利根川流域などに公認の河岸問屋を設けて運上金を徴収する政策を実行したときのゴタゴタも、忠敬は、伊能家の3代前の先祖が書き残した古い記録を調べ直し、奉公所に提出して事なきを得たなど、名主後見としてのリーダーシップを発揮し、合理的に解決したということ。
また忠敬も、先祖の記録をみて、ものごとをきちんと記録に残す重要性を感じたことが、後にこつこつと実測して地図を作るときに役立ったのではということ。尚、忠敬は天明元年(1781年)、名主の藤左衛門死去にともない、36歳で名主に。
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