今回はチャールズ・ワーグマンを取り上げるぞ。幕末に活躍したイギリス人のひとりで、風刺画とかで有名な人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治時代に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治時代に来日した外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チャールズ・ワーグマンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、チャールズ・ワーグマンはロンドン生まれ

チャールズ・ワーグマンは1832年8月31日にロンドンで誕生。父はスウェーデン系イギリス人のフェルディナンド・チャールズ・ワーグマンで、チャールズは長兄で弟たちは、16歳年下の弟テオドール・ブレイク・ワーグマンが有名な画家となったほか、トーマス・アーネスト、フランシス、ジョージ・フェルディナンドはウルグアイに移住、アーサー・デーヴィッドと5人いて、妹がフランスに嫁いだクララ・エマ、ヘレン・オーガスタの2人という8人きょうだい。

1-2、チャールズ・ワーグマンの祖先は

イギリスではワーグマンよりも弟のテオドール・ブレイクが画家として有名になったのですが、弟の英語のウィキによれば、ワーグマン家の先祖は18世紀初頭の成功した銀細工師で、スウェーデンからロンドンに移民、祖父のトーマス・ワーグマン・アップジョンは、ドイツの哲学者カントについての著書をあらわしたそう。

1-3、ワーグマンは前歴不明、スパイ説も

「ワーグマンとその周辺」によれば、ワーグマンは1852年ごろパリで絵を学んだということ。そして陸軍に入隊して大尉を務めた後に退役し、「イラストレーテッド・ロンドンニュース」通信員として入社したそう。元軍人で記者ということで、来日したころはスパイかと疑われていて、横浜の税関では軍事探偵ではないかと監視していたということ。しかし、イギリス陸軍にはチャールズ・ワーグマンが在籍した記録が残っていないなど、不明な点が多いということ。

2-1、ワーグマン、特派員として極東へ

ワーグマンは、安政3年(1857年)25歳で「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」の特派記者兼挿絵画家として広東にアロー戦争の取材のため派遣され、1860年の英仏連合軍の北京占領のときも同行し、動乱の様子を記事に書いて送り、中国人の暮らしや風俗も描いたそう。

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2-2、ワーグマン来日、第一次東禅寺事件に遭遇

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不明 - The Illustrated London News, 1861., パブリック・ドメイン, リンクによる

そしてワーグマンは、文久元年(1861年)4月25日に来日。最初に長崎に来航後、イギリス公使オールコックの一行に伴って、陸路を通って江戸まで旅行。ワーグマンの日本での最初の仕事は、オールコック公使の著書「大君の都」に挿絵を描くため、江戸までの旅に同行することだったということ。しかしオールコック公使自身も挿絵を描いているので、どれがワーグマンの作品かは明白ではないが、おそらくは村の娘、茶屋の娘、御高祖頭巾の女、医者などの肖像で、12葉の石版画であったよう。

そして文久元年(1861年)5月28日、イギリス公使館が置かれた東禅寺に、水戸藩浪士たちが襲撃。このときワーグマンは、縁の下に避難し、ローレンス・オリファント書記官が襲われて鞭で応戦、そしてモリソン領事が助けに入って斬られるところを床下から目撃していたので、実に生々しい現場の記事とスケッチを横浜から発信することに。

イラストレーテッド・ロンドンニュースとは
イラストレーテッド・ロンドンニュースは、1842年5月に創刊号が発行された世界で初めてのニュースをイラストレーション入りで報じたイギリスの週刊新聞のこと。最初は2万6千部、その後低迷したが、1年目の終わりには6万部となり、ワーグマンが特派員になった頃の1863年には毎週30万部以上売れるという、イギリスの新聞一の発行部数にだったということ。尚、イラストレーテッド・ロンドンニュースは、1971年には月刊誌になり、1989年には季刊誌となったが、現在も企業グループとして存続し、アーカイブを管理しているそう。

2-3、ワーグマン、ジャパン・パンチを創刊

文久2年(1862年)、ワーグマンは特派員としての仕事の合間に、横浜の居留外国人向けの雑誌「ジャパン・パンチ」を創刊。もちろんこれはイギリスの風刺漫画雑誌であるパンチの日本版。この雑誌には、横浜外国人居留地の人々の暮らし、当時の日本政府である江戸幕府への批判、同業の英字新聞への攻撃などが、風刺漫画と文章であらわされていたということ。

ただしワーグマンも数々の歴史的事件に立ち会うわ、旅行はするわと大忙しだったため、創刊したものの、次の号は3年後の1865年に発刊され、以後22年間、月刊誌として170冊が刊行されることに。この中で描かれた人物は、仲間うちの写真家のフェリーチェ・ベアトや、書記官のアーネスト・サトウなど、日本人では三菱財閥の岩崎弥太郎などなど、見ればすぐにわかる顔が数多く描かれていて、居留地の出来事や人間関係、裁判の結末などが、ユーモアたっぷりに風刺されまくったそう。

2-4、ワーグマンの風刺画の影響

最近、外国人にも熱烈なファンが増えまくっているという日本の漫画の元祖は、平安時代の「鳥獣人物戯画」と言われています。また、江戸時代には略画体でかわら版や狂歌の絵画版、または絵の中に諷刺や滑稽を描いていて、浮世絵の「鳥羽絵」も江戸時代に確立されたということで、日本にもユーモアや風刺は存在していたが、ワーグマンがジャパン・パンチで、社会風刺として時事的な出来事とそれにまつわるイギリス公使らの権力者の顔を、誰にでもわかるように茶化して漫画的に描くことに当時の日本人は驚いたそう。

そしてジャパン・パンチの名前から、ポンチ絵という言葉が生まれたということで、当時の日本人はジャパン・パンチから、西洋の言論や表現の自由、またイギリス特有の皮肉めいたユーモアで社会を風刺して一般庶民の憂さ晴らしをするというおもしろさを知ったわけで、やはりワーグマンも現代の日本の漫画にも影響を与えていると言えるのでは。

2-5、ワーグマン、日本人女性と結婚

image by PIXTA / 47509339

文久3年(1863年)ワーグマンは日本人女性の小沢カネと結婚。
イギリス公使館の書記官だったミットフォード、サトウ、ウィリスらも、この頃は日本人女性と同棲していたといい、子供が生まれたという話もあるのですが、正式に結婚したのはワーグマンだけなんですね。翌年長男の一郎が誕生したそう。

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3-1、ワーグマン、幕末の事件を取材

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不明 - Le Monde Illustre, no676, 28 December 1867. Reproduction in "Soie et lumiere", Christian Polak, パブリック・ドメイン, リンクによる

ワーグマン自身は目撃してはいないが、目撃証言をもとに水彩画で描いた生麦事件のリアルな想像図や、生麦事件の賠償金支払いの情景のスケッチなども記事にして送ったということ。また文久3年(1863年)には薩英戦争が勃発、ワーグマンも取材のために写真家フェリーチェ・ベアトとイギリス艦隊に同行、その後の四国艦隊下関砲撃事件にも従軍し、記事や挿絵をロンドンへ送ったそう。

尚、ベアトとはヨコハマで家も隣どうしに住んでいて、後に「ベアト・アンド・ワーグマン商会」を設立することに。

また、慶応3年(1867年)には、ハリー・パークス公使やA・B・ミットフォード、アーネスト・サトウらに伴って、大坂城で15代将軍徳川慶喜と会見。ワーグマンは、このとき大坂の風景スケッチや慶喜の肖像画、会見の様子も描いたということ。

ベアトとは
フェリーチェ・ベアトは、イタリア生まれで英語読みでフェリックス・ベアトとも名乗り、1863年に来日し、21年間横浜で暮らした東アジアの写真を撮影した初期の写真家兼従軍写真家のひとり。「Felice Antonio Beato」または「Felice A. Beato」と署名された写真が多数存在するのですが、これはフェリーチェと兄アントニオの連名ということで、兄弟で一緒に活動していたと最近になって判明したそう。

1860年、ベアトもアロー号戦争の取材で清へ派遣されて、香港でワーグマンと出会い、2人は英仏連合軍に同行して、大連湾、北塘、海河河口の大沽砲台、北京、円明園などの写真を撮影。ワーグマンがイラストレーテッド・ロンドン・ニュースのために描いた挿絵は、ベアトの撮影した写真を元にしたということ。 ベアトは横浜に移住後にワーグマンと隣同士に住んで、「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立して1864年から1867年まで共同経営、ワーグマンはベアトの写真をもとに挿絵を描いていたそう。またその一方でベアトもワーグマンのスケッチや作品を撮影したということ。

ベアトは四国艦隊下関砲撃事件にも従軍して写真を撮り、翌年にも長崎での写真を発表し、1866年の横浜大火で写真のネガと写真館が焼失したものの、その後の2年間で色々な写真を撮りまくり、2巻の写真集で100枚の肖像写真と風俗写真の「Native Types」、そして98枚の名所と都市風景からなる「Views of Japan」を完成させたということ。

3-2、ワーグマン、サトウと珍道中

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パブリック・ドメイン, リンク

イギリス公使館の通訳官であった才気煥発で若いアーネスト・サトウは、来日半年で日本語ペラペラ、書道も習い薩摩弁も理解したという人でしたが、ワーグマンとも友達付き合いをしており、一緒に府中へ行ったときは川を渡るときに外国人を嫌がる渡し舟に強引に渡らせたり、大坂から江戸へ戻る東海道の旅をふたりで珍道中した様子なども、「一外交官の見た明治維新」に登場。

慶応3年(1867年)大坂でパークス公使らと別れた後、東海道を陸路で江戸へ向かう珍道中をすることに。ふたりは安い駕籠を調達し、護衛らと共に名産地ではお茶の飲み較べをしたり、掛川宿では日光例幣使の連中に襲われて命拾いをしたり、ワーグマンが画家ということが広まっていて、どこへ泊っても紙と筆が用意されていて、ワーグマンに何か描けと言われるようになりワーグマンの描いた絵にサトウが賛を書いたとか、可愛い少女の絵を描いてあげたら恥ずかしそうに喜んだとか、ワーグマンの服装が中国人っぽいものだったので、人々が中国人か西洋人か本気で疑問を持ったとか、芸者を呼んで護衛も交えてどんちゃん騒ぎしたりとか、江戸末期の平和でのどかな情景が目に見えるようで、サトウも楽しそうに書いていているのが、ワーグマンの飾らない人柄が垣間見えて面白いです。

実際、ワーグマンの記事が載ったイラストレイテド・ロンドンニュースはイギリスだけでなく横浜にも読まれていたので、ワーグマンは横浜居留地でも、社交的なワーグマンはウィットに富んだ楽しい人と人気者。三味線を弾くとか、日本語は、長州弁と薩摩弁を使い分けられたということで、漢字で「惑満」とサインしたりしたそう。

\次のページで「3-3、ワーグマン、日本人に絵を教える」を解説!/

3-3、ワーグマン、日本人に絵を教える

ワーグマンは、絵について本格的に勉強した画家ではなかったようですが、それでも油絵や水彩画などについて、明治9年(1876年)に工部美術学校が出来てお雇い外国人教師が来るまでの間、入門してきた日本人に教えたということ。

なかでも慶応元年(1865年)に入門した五姓田義松と、翌年に入門した、日本最初の洋画家といわれる高橋由一が有名で、ワーグマンから油絵を習い、「鮭」の絵で日本美術史に名を残したそう。また、最後の浮世絵師と言われる小林清親にもワーグマンは洋画を教えたと言われています。

3-4、ワーグマン、弟ブレイクと展覧会を開く

image by PIXTA / 58816524

明治20年(1887年)3月、ワーグマンは健康状態も良くなかったらしく、「ジャパン・パンチ」の最終号を発刊してイギリスに帰国することに。

ワーグマンの16歳年下の弟ブレイクは王室画家となり、今でもバッキンガム宮殿に彼の描いたヴィクトリア女王の肖像画が飾られているという成功した画家だということ。兄のワーグマンはイギリスに帰国してこの弟と一緒にロンドンで個展を開いたが、残念ながらあまり評判を呼ばなかったようで、失意のワーグマンは日本へ帰って、明治24年(1891年)、横浜で58歳で死去、横浜外人墓地に葬られたということ。

「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」ではワーグマンの訃報に際し、「日本人の生活や性格について彼以上に精通し、また過去30年間、日本で起こった変化について、彼よりも完全な記憶を持つ者は誰もいないだろう」という内容の長文の追悼文を掲載。

ワーグマンの命日の2月8日にはワーグマンの墓前で、毎年、横浜文芸懇話会が、「ポンチ・ハナ祭り」(ワーグマン祭)を開催しているということ

幕末の重要な事件を独特のスケッチや風刺画でイギリスや世界に発信、日本人にも影響を与えた

チャールズ・ワーグマンは幕末に「イラストレーテッド・ロンドンニュース」特派員として来日、その後は横浜に在住し、イギリス公使館員たちと親しく付き合って数々の歴史上の重要事件に立ち会い、イギリスへ史料的価値の高い記事やスケッチを送り続け、当時の日本についてイギリスの大衆に伝えた人。

そして日本人と結婚して長く日本に住み、油絵や水彩画などを日本人に教えることで、それまでの山水画などが主流だった日本の風景画に多大な影響を与えただけでなく、そして彼が創刊したジャパン・パンチでおもしろおかしく描いた風刺画なども後の漫画に影響を与えたという、色々と重要な役割を果たしたことは忘れることはできないでしょう。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

幕末に来日した「チャールズ・ワーグマン」『ジャパン・パンチ』を創刊したイギリス人について歴女がわかりやすく解説

今回はチャールズ・ワーグマンを取り上げるぞ。幕末に活躍したイギリス人のひとりで、風刺画とかで有名な人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治時代に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治時代に来日した外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チャールズ・ワーグマンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、チャールズ・ワーグマンはロンドン生まれ

チャールズ・ワーグマンは1832年8月31日にロンドンで誕生。父はスウェーデン系イギリス人のフェルディナンド・チャールズ・ワーグマンで、チャールズは長兄で弟たちは、16歳年下の弟テオドール・ブレイク・ワーグマンが有名な画家となったほか、トーマス・アーネスト、フランシス、ジョージ・フェルディナンドはウルグアイに移住、アーサー・デーヴィッドと5人いて、妹がフランスに嫁いだクララ・エマ、ヘレン・オーガスタの2人という8人きょうだい。

1-2、チャールズ・ワーグマンの祖先は

イギリスではワーグマンよりも弟のテオドール・ブレイクが画家として有名になったのですが、弟の英語のウィキによれば、ワーグマン家の先祖は18世紀初頭の成功した銀細工師で、スウェーデンからロンドンに移民、祖父のトーマス・ワーグマン・アップジョンは、ドイツの哲学者カントについての著書をあらわしたそう。

1-3、ワーグマンは前歴不明、スパイ説も

「ワーグマンとその周辺」によれば、ワーグマンは1852年ごろパリで絵を学んだということ。そして陸軍に入隊して大尉を務めた後に退役し、「イラストレーテッド・ロンドンニュース」通信員として入社したそう。元軍人で記者ということで、来日したころはスパイかと疑われていて、横浜の税関では軍事探偵ではないかと監視していたということ。しかし、イギリス陸軍にはチャールズ・ワーグマンが在籍した記録が残っていないなど、不明な点が多いということ。

2-1、ワーグマン、特派員として極東へ

ワーグマンは、安政3年(1857年)25歳で「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」の特派記者兼挿絵画家として広東にアロー戦争の取材のため派遣され、1860年の英仏連合軍の北京占領のときも同行し、動乱の様子を記事に書いて送り、中国人の暮らしや風俗も描いたそう。

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